生の様式
いま説明した線は死に直結しているし、
激しすぎるばかりか、速度も大きすぎる。
これは、呼吸もままならないほど希薄な
大気のなかに私たちを引きずっていく線なのです。
この線は、ミショーが放棄したドラッグのように、
思考をあとかたもなく破壊してしまう。
エイハブ船長の「モノマニー」と同じように、
もはや狂気や錯乱以外のなにものでもなくなる。
だからこそ、線を越えることと、線を生き、
活用し、思考することが、同時に必要となるのです。
可能なかぎり、そしてできるだけ遠くまで見越して、
線を生の技芸につくりかえること。
線に挑みながら、もう一方では逃走し、
わが身の保全をはかるにはどうすればいいのか。
この問いが立てられたとき、
フーコーが頻繁にとりあげた主題が表面に出てきます。
(ドゥルーズ『記号と事件』)
私たちは「生きる様式」をあみ出しながら
ひしめく差異を生きる。思考する私は何か線を意識し、
その線に沿うような、あるいは越え、踏み外すような
具合に生きる。構造のただなかにいながら、
属性と様態を一挙に生きる。微分的で即時的な
応答の中に生きる。
激しすぎるばかりか、速度も大きすぎる。
これは、呼吸もままならないほど希薄な
大気のなかに私たちを引きずっていく線なのです。
この線は、ミショーが放棄したドラッグのように、
思考をあとかたもなく破壊してしまう。
エイハブ船長の「モノマニー」と同じように、
もはや狂気や錯乱以外のなにものでもなくなる。
だからこそ、線を越えることと、線を生き、
活用し、思考することが、同時に必要となるのです。
可能なかぎり、そしてできるだけ遠くまで見越して、
線を生の技芸につくりかえること。
線に挑みながら、もう一方では逃走し、
わが身の保全をはかるにはどうすればいいのか。
この問いが立てられたとき、
フーコーが頻繁にとりあげた主題が表面に出てきます。
(ドゥルーズ『記号と事件』)
私たちは「生きる様式」をあみ出しながら
ひしめく差異を生きる。思考する私は何か線を意識し、
その線に沿うような、あるいは越え、踏み外すような
具合に生きる。構造のただなかにいながら、
属性と様態を一挙に生きる。微分的で即時的な
応答の中に生きる。