ドゥルーズ=アジャンスマン

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ドゥルーズの「欲望」について今少し。
『ディアローグ』第三章第二部の冒頭です。

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欲望に関する三つの誤解とは次の通りである。
すなわち、欲望を欠如あるいは法則と関係づけること、
自然的あるいは自発的な実在と関係づけること。
快楽や、ひいては祝祭とさえ関係づけること。
欲望は内在平面あるいは合成平面の上でつねに
作動配列(アジャンスマン)されており、機械状になっている。
この平面はそれ自身、欲望が作動配列し、機械状になるのと
同時に構築される。私たちはただ単に、欲望が歴史的に
決定される、と言いたいわけではない。歴史的決定は、
法則の、あるいは原因の役割を演じるような、またそこから
欲望が誕生するような構造的審級に訴えるのである。
それに対して欲望は、ひとつの作動配列の諸変数と
そのつど見分けがつかない現実の操作子(オペラトウール)
なのだ。欲望を与えるのは、欠如でも欠乏でもない。
欠如が感じられるのは、自らが除外されている作動配列との
関係においてだけであるが、人々が欲望するのは、
自らが内含されている作動配列
(それが略奪や反乱の結集であるにせよ)によってだけである。
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「ないものねだり」は欲望を押しとどめる戒めとして
使われることが多い。欲望は欠如と関係づけられる、と
おもうのはそれほど不思議ではない。
しかしドゥルーズはもっと端的に欲望を肯定するのだ。
欲望が沸き立つ平面をあらかじめ任意に準備する、
というような芸当はできない。戦うコートを配分して
おくことはできない。欲望の沸き立つ場に自らもそっくり
配分されるからだ。

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このページは、が2012年9月 5日 18:48に書いたブログ記事です。

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