小泉=ドゥルーズの哲学

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小泉義之の『ドゥルーズの哲学』は
ドゥルーズって誰?というお方には推薦の書です。
僕のは綴じがほつれるくらい傷んでいます。
中ほどの140ページでバラバラになりかけています。
じゃその140ページてのを「読んdeココ!」に
OCRしてもらいましょう。

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私たちは、身体の力と精神の力について
本当に何も知らない。何も知らぬまま効能にすがる。
ところが効能は、身体の力と精神の力を当てにしている。
療法が効果を現す場合があるのは、
専門家のおかけでもなく、援助やケアのおかげでもなく、
何よりも身体の力と精神の力のおかげである。
そんな力の認識だけが幸福なのだ。
スピノザは『エチカ』の最後で、
身体の観念である精神には何か永遠なものがあり、
それを認識することが最高の幸福であると書いた。
ドゥルーズは、何か永遠なものの認識を、
自然哲学・生命哲学と解した。

だからこうなる。いかに鬱屈していても、
人間が鬱屈するように世界がなっているという
不可思議を認識することだけが、
鬱屈解消で得られるはかない快活とは
比較にならぬ幸福をもたらす。
どんな療法を受けようが、人間は苦しみ病んで死ぬ。
そんな運命の不可思議を認識することだけが、
最高の幸福をもたらす。
「こんな希望を捨てるわけにはいかない」。

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いやはやこの痛快なこと小泉センセ面目躍如である。
これだから小泉センセはやめられない。
運命の不可思議を認識すること、それは「あきらめ」に
似ないとも限らぬ。
すなわちそれもまた「ルサンチマン」と言えよう。
しかしそれは最高の幸福をもたらすルサンチマンなのだ。

妻の歯科治療を待つ間、シグマの8mmをAPSに
つけて散歩した。フードが見当たらず、すっぴんで
使った。板塀の看板を下から仰ぎ見るような絵。
秋の空。(拡大画像あり)

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このページは、が2011年10月 4日 17:33に書いたブログ記事です。

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