ドゥルーズの「情動」

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『たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、
牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。
競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、
触発される力もちがう。
農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである。 』
(ドゥルーズ 『スピノザ』)

第6章「スピノザと私たち」はリマーカブルな章だ。
上記内容もドゥルーズ的で、挑発的ですらある。
僕はドゥルーズひいきです。
よって引用部分もレトリックとしてもなかなか、と思う。
が、「実際にそうなのか?」と疑問に付すことはできる。
どうみても、牛と馬の生物種としての違いは、ある。
牛と農耕馬の「情動群」をどうやって測定するのか?
などと難癖つけることができる。
引用部のコンテキストは、そんな難癖をつけられても
動揺することのないメッセージだとは思うが。

ドゥルージアン、スピノジストの方へ。
必ずや、僕ら自身の新しい「概念」を創造しましょう。
たとい、ドゥルーズやスピノザの生きる哲学をこよなく愛し、
かれらの「倫理」を僕らもまた生きようと思うとも、
押し戴いて金科玉条とはいたしますまい。
僕ら自身を構成する諸要件は個物としてのそれです。
内在の平面は、ドゥルーズが否定したにもかかわらず、
僕ら自身の「プラン」であることは否定できないのです。
今朝はこれを伝えたかったのでありんす。

閑話休題、先日、駅に人を迎えにいきました。
予感がしてカメラを携えました。
その場所での「特権的」な絵を得ました。
シャシン屋(?)個物に到来する出来事です。
そこでの様態や自己の構成は「十全な観念」というより、
「リゾーム」の成果と申すべきでしょう。

雲はもうすっかり秋の雲です。
僕という個物はここまで「延長」を果たしました。
ちなみに列車は「引き」で、向こうに去っています、のです。


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このページは、が2011年10月 2日 07:41に書いたブログ記事です。

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