存在の一義性

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「存在の一義性」がドゥルーズの生の哲学の特徴
であるとはよく言われる。
それがスピノザから来たものであることもまた
通説となっている、と思う。
『スピノザ』(鈴木訳)の第4章「エチカ」主要概念集の
以下のような箇所はそれをよく示している。
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スピノザ説の独自性はどこにあるのだろう。
スピノザ自身のものではない心身並行論ということばが、
にもかかわらず彼にこそ厳密にあてはまるのは
どうしてなのだろう。

それは、スピノザにおいては、
身体と精神、身体的諸現象と精神的諸現象のあいだには、
ただたんに「秩序」の同一性
(〔両者の生起の秩序・過程の〕同型性[isomorphie])
があるだけではないからだ。
両系列のあいだには、さらに
〔それぞれの系列の現象の〕「連結」の同一性
(平等性[isonomie]ないし等価性[equivalence])がある。
いいかえれば延長と思惟、延長において起こることと
思惟において起こることとは位格的にも対等であり、
原理上の対等性をもつ。

いっさいの卓越性や超越性、
多義性に対するスピノザの批判によって、
この二つの属性は一方が他より優位に立つこともなければ、
一方が特に創造者たる神のものとされ、
他方が被造物やその不完全性と結びつけられることもない。
それゆえ身体の系列と精神の系列とは、
ただたんに同一の秩序をもつだけでなく、
対等の原理のもとに同一の連関をもって生起するのである。

最後にもうひとつ、両系列のあいだには、
さらに存在の同一性(isologie)がある。
同じひとつのもの、同じひとつの様態的変様が、
思惟属性においては精神という様態をとって、
延長属性においては身体という様態をとって
産み出されるのである。

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ここでいう延長にもさまざまな属性があり各属性には各様態が、
同様に思惟にもさまざまな属性があり各属性には各様態が、
つらなっている。それらの離接が
人の現働的なふるまいの中核となる。

そのようにふるまう存在をここに再現前化して示す
表象は可能だろうか?
それはちょっと無理でしょう。
ところで、
一般的な言いをすれば、厳密に規定せずとも
私たちはいとも容易に「同一性」を認め、
「再現前化」を果たしうる。
乱暴で突飛もない話だが、
還暦過ぎて中学校の同窓会に行ってごらんなさい。
厳密性は求められない。アルバムの中のこの子が、
今、この人なんだと疑うことなく同定できる。
ベルクソンを呼ばずとも済むことだし、
間主観性、オートポイエーシスで説明はつく。
日常はむしろ、擬似的であれ「同一性」を措定して収斂する。
おのずから回収へと向かう。

しかし本当にそうなのか?
(本当にこの子がこの人なのだろうか?)
(本当に回収されているのか?)
そこがうまく説明された、とは思えないのだ。

「一義性」をいいながらも、さらに属性・様態があり、
しからば、それらにもある一義性と、どう関係するのか?
うんぬんかんぬん。うーむ。収まりがつかない。
よってなお「概念の創造」=哲学が必要なのだろう。
諸氏や如何?

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このページは、が2011年8月21日 13:45に書いたブログ記事です。

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