フーコー 劇場としての哲学

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 差異をとりあげてみる。一般に、差異は何ものかからの差異、あるいは何ものかにあっての差異として分析される。差異の向う側の差異を超えた地点に、とはいっても差異の支柱となってそれに場所を与えて限界を設定し、つまりは差異を統禦せんとする目的で、人は、差異がそれを幾つかの種に分割すると想定される類としての統一性を、概念によって措定する(アリストテレス的概念の有機界的視点の支配である)。そうなると、差異は、概念の内部で種的特性に分類されうるものとなり、概念を越えてあふれでるものとはなりがたい。それでいながらこの種よりも下部の水準には、個体がいっせいにたちさわいでいるのだ。種的分類から逃れ、しかも概念の外部にこぼれ落ちるこの尺度のない多様性は、反復のはね返り以外の何でありえようか。羊類より下の水準では、もはや羊の数をかぞえる仕事しか残ってはいない。以上の点からして、従属的視点の第一の相貌は次のごときものとなる。すなわち、種への分類作用としての差異(概念内の)と、個体の差異不在としての反復(概念外の)とがそれである。だが何への従属であるというのか。常識への従属である。そして常識とは、狂気の生成と無政府主義的な差異から顔をそらせ、いたるところ、しかもあらゆるものにあって同じやり方で同一的なるものの認識を心得ているものだ。善意の盟約によって認識主体の普遍性を確立するその瞬間に、常識は、対象における一般性をくっきりと浮かび上がらせる。まさに悪しき意志に自由な戯れを許してみたらどうなるか。思考が常識から自由になり、その固有性のぎりぎりの先端部でのみ思考せんと希望したらいったいどうなるか。正統説の構成要素としてある自分の市民権を程よい満足とともに是認するかわりに、陰険に逆説の策略を実践してみたらどうなるか。差異の下側に共通なるものを探究するのではなく、むしろ差異的に差異を思考してみたらどんなものであろうか。そうした場合、差異は、概念の一般性を塑型するほどほどに一般的な性格などではもはやありえまい。差異は―差異としての思考、差異をめぐっての思考として―純粋な出来事となっているかもしれないのだ。反復はどうなるかといえば、もはや同一的なるものの陰鬱なけばだちではなく、転移された差異となるかもしれぬ。善意から、そして分配し性格決定する常識の支配から脱した思考は、もはや概念を構築せず、幻影を反復しつつ意味=出来事を生産する。常識にくるまって思考することの倫理的善意というものは、結局のところ、思考をその固有な「生殖性」に触れさせまいとする役割をはたしていたのだ。
(フーコー「劇場としての哲学」蓮実重彦訳)

 「いつもとはどこか違った朝だった・・」と人が言ったとする。そこでは朝における「差異」が述べられる。通常僕たちは「差異」をそんな意味で用いる。が、ドゥルーズの「差異」および「反復」はそうではない。違った朝と感じてもまた同じような朝になってしまう=再領土化されるそんな「差異」ではない。じゃどんなものか?フーコーによると「概念を構築せず、幻影を反復しつつ意味=出来事を生産する」ものだということになる。
 差異は「いつもの朝」に対する違いではない、ということになるか。差異は違いそのもの、とでも。じっさい「差異の差異」という言い方もある。

 思えば、そんな差異こそが実は一般的なのだと気づく。表現(表象)的には「どこか違った朝」なのだが、事実はその朝を生きているその朝に身を置いているではないか。感じ、表象する以前に、差異を生きている。差異はそのまま差異なのだ。とまあ僕は思っているのです。

 さて。サンダーバードのトレーシー一家。天神のBOOK・OFFで買う。(笑)


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このページは、が2013年8月21日 16:18に書いたブログ記事です。

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