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田辺 聖子のジョゼと虎と魚たち (角川文庫)に続き講談社文庫の三冊を読む。復刻単行本、変じて文庫化の恩恵である。昭和の物語を令和元年に新本で読める。
絵はα7RとNIKKOR35mm F2.8。







田辺聖子「ジョゼと虎と魚たち」(角川文庫)を読了。
工房知人から届けられたFUJINON 1:2.2 f=55mmで記念撮影。α7s。



気付いたことがある。
「七年ぶりに吉岡は、眼鏡をかけている。」
9編中8編にこれから造型される人物の固有名が先ず登場する。これはこの短編集の筆致であり、田辺聖子の文体それも作品全体の筆致(目論見)であり構造的なスタイルだと感じた。こんな「批評」は初出でしょう?エヘン。

奥付には昭和62年1月が初版。令和元年6月が36版。長く愛されたホンなのです。山田詠美が解説しているがそりゃあの方好きなんだろうなとピンとくる。w
いやはや。長生きすればこんな悦楽に巡り合えることもあるわけだから人生は捨てたもんじゃない。格が違う。愛にあふれていて衒いがない。教訓はない。ただヒトを幸福にする。以上オシマイ。

右横はオリンパスペンFの標準38mm。さっそくamazonにアダプタを注文する。下はフジノン55mmでのオマケ。

村上春樹の『騎士団長殺し』が文庫になる。Amazonで購入。初版。
さっそく第一巻100ページほどを読む。シェリル・クロウって知らないのでスマホでyoutubeしていたら夜中の2時を過ぎる。
ライカミニルックス抽出のSUMMARIT。α7s。







おまけ。イオンのフードコートで。リモートスイッチを使用。

α7RにSTOK+キヤノンマウントのタムロン28-75mm(A09)。三脚使用。
中央の文庫本=『羊と鋼の森』(宮下奈都)を100ページ辺りで断念。
辛抱したが無理であった。合わないものはあわない。うむ。w



ところで、同じタムロンをキヤノンの5DMk2に付けてもう一枚。これも三脚とETSUMIの電子リモートスイッチ=RM-L1-C3を使う。
ミノルタ24-85mm F3.5-4.5。ヤフオクでゲット。使い込んでますがキレイ。(安い!)



α7R/ミノルタ24-85mm F3.5-4.5の85mm側/三脚/F6.3で撮ると、

書評を読むだけでなんだか「読後」感に支配される。うーむ。w



妻の文庫ホンは読んだはしから資源ごみ。イオンにビール買いのついでに出す。




(いずれもα7s+GR28mm_Eマウント改)
一月も終わるか。
朝井リョウの『何者』を読んでいる。この間読んだ寂聴は1922年生まれ。朝井リョウは1989年。その差67年。で、記念撮影。
色補正なし。色合いやたっぷりとした立体感などたぶんあんなふうになるだろうな、と予測ができる。α7sとオリンパス・ペン抽出=M42改造の2.8㎝/3.5。いいレンズです。



「漢字をひらがなにする、たったそれだけのことで何者かになれた日々は、もう遥か昔のことのようだ。」(文庫版P60)
あはは。
お昼に鰤窯(ぶりかまですシャシンは)を頂戴し、ベッドに横になって、一気に『サラバ』を読み終えた。
うーむ。僕もラストは泣きました。どうやら実際に又吉直樹は「持っていかれた」ようでこれをきっかけに小説を書いたと、解説にある。いやはや。

『サラバ』読後に、躊躇している同窓会に出てみようか、という気になった。(まあだ五月のことだからわからないけど)つまり言いたいことはそんな気分にさせる西加奈子の手腕のことです。
α7sとエミールブッシュ NEOKINO 65mm。M42改造。



朝日さん、ごめんなさい。今朝の天声人語。



寂聴を最高齢とすれば、最若年が朝井リョウ、続く西加奈子、村田沙耶香。その中間が若竹千佐子になるのか。
数年前から、老若男女、ジャンル不問(というわけでもないかな)の読み方をやっている。これもまたシアワセに尽きる。午後2時3時ころからベッドで文庫本を手に昼寝(寝ないが)=読書の時間帯となる。すこしばかりの幸福感がともなう。同じような「趣味」をもつ爺さんは世にいるかしれぬ。しかも見よ。オードリー若林という男性(聞いたような気がするがよく知らない調べてない)は、30代のクズ(なぜクズなのか?)を救えるのは日本では西さんだけ、と言っている。妻がボロにした帯をパンタッカーというオールドレンズで撮ってみた。(昨日読み終えた「サラバ」文庫第一巻)



シャシン行為も読書も一見、一人でできる。が、やはり巡り合い(出会い)がないとよく為しえない。こころ躍る巡り合いは本当にありがたい。

ついでにこれもパンタッカー。絞ってる。

H.ROUSSEL 75mm M42改造

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12月18日午前10時半頃。曇天。郵便局に出向いたついでに足を延ばして定点場所に。ところが一枚撮り、さて二枚目をと構えたら「電池がなくなりました」と。
ま、そうしたもんです。その一枚というのは、コセンダングサなんですが、これが雰囲気よろしいのでアップ。SONYのα7Rと抽出レンズH.ROUSSEL 75mm F6.3です。



家で電池を替える。妻が購入した新刊文庫。



さらに増えたフジカ35EE。レストアは3台となる。

文庫本ってこんなに日焼けすることもあるんだ。



必要あって押入れをごそごそやってつかんだ三冊のうちの「蛍・納屋を焼く・その他の短編」(昭和62年版。カバーは安西水丸)
枕元に置いて、蛍と、納屋を読んだ。たまにこんな古い短編集を読むのも悪くないですね。あまりに古色蒼然(少し匂って喉にくる)としたホンのせいかどうかはわからないが、昔のことが脳裏をよぎる。それも長々とよぎる。
僕と作者は全く同い年で少なくとも2年間はキャンパスをともにしている。当時文学部教室に「精神衛生」の講義を受けに半年間通った。穴八幡神社の境内でぼんやり時をつぶすこともあった。文学部の脇はかの「夏目坂」で、交通事故で入院した友達を見舞うため(女子医大)この坂をえんえんとのぼった。途中、記憶に間違いなければ上りの左側に漱石が寓居したむねの石柱があった。いやはや。
作者も今はお目めが小さくなったのだろうか。ノーベル賞とったらそれはそれでたいへんでしょうね。メディアに消尽されるのはセットになってますからね。
昨日買ったばかりの文庫=村田沙耶香『殺人出産』を読んでしまう。一気呵成。
この日はイチローがシアトルで前日に続いてスタメン出場。セーフコ・フィールドを沸かせた。
特に昨日はライト(前日はレフト)で出場する。エリア51ですな。マイアミのユニフォームだが背番号は51だ。イチ・メーターで名の知れた女性もいた。どうやらシアトルでの最後となるだろう(らしい)その試合のラスト9回、先頭打者イチローは初球をライトスタンドにホームランを放つ。やはり彼はレジェンドですな。
田中のマー君も勝利投手になった日だったので、23時からの小宮山解説の「ワールドスポーツMLB」を録画しながらもついその部分だけを見てしまう。で、そのあと『殺人出産』となったわけです。ああ、前置きが長い。すいません。w



SONYのα7sとM42改造の知人製作NIKKOR28mm(推定F3.5)で記念のブツ撮り。いいレンズだなあ。
さて。蛍光灯のリングが写り込んだこの絵(拡大してみてください)がレンズ構成を想像させませんか?




(「ニコンF/ニコマート マニュアル」昭和54年より)

6群6枚、絞り羽根5枚というのはこのレンズの変わらぬ構成らしい。やはりレンズはF3.5の28mmか。

ところで数日前、定点イルミネーション撮影を一枚、すると店主がそばに立っていた。やんわりと撮影を断られる。当方はもちろん詫びました。
まあこれは仕方ない。お店に腹を立てるなんてことはしない。何度も経験してきましたからね。けれどなんとなく自分に卑屈な気分が漂いますね、こんな場面では。w
このポイントでの撮影はは終了か。残念だなあ。いい場所だから惜しい。

山下澄人 しんせかい

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「させられたのは、建てられている最中のここで最も大きい丸太小屋、それは食堂棟と呼ばれていた、の足元に積み重なって層となった、冬の間雪に押し固められて凍った丸太や材の削り屑をツルハシで叩き割り崩してスコップですくい青や緑や黄色の肥料袋に詰めて一輪車で一箇所に集めるというもので、そこには今日から加わったぼくたち五人の他にここで同期生となる人が四人いた。」

文体が特徴的。みたことがない。雑誌(文藝春秋)は今期の芥川賞(第156回)=山下澄人『しんせかい』。手前の文庫本は村田沙耶香『しろいろの街の、その骨の体温の』(タイトルが・・)併行読みしている。
絵はα7sとMAMIYA-KOMINAR。

鷲田 清一,見田宗介,村上春樹・・1949年生。同年。
鷲田 清一の「折々のことば」。この世代がいうには勇気がいるのではないかなあ。巷間に流布する「世代間格差」を逆なでするようで。
ムイシュキン公爵のこの言は小沼文彦訳(新潮文庫)で読む。18か19のころ。ドストエフスキー、ヘッセ、リルケ、ロマン・ロラン、ルソー・・などは大人になる前の「洗礼」でありその後は「金字塔」となる。そういうもんだと思う。まあ今の子は違うだろうさ。(拡大画像なし)

2016年3月29日は「安保法」が施行されたその日。
たまたまその朝、僕は柄谷行人の『世界史の構造』を読み終えた。
最終ページはこうだ。岩波現代文庫版の495頁をスキャナにかけた画像。歪曲があります。拡大画像で読めます。



「交換様式D」が肝なのですが、おきます。
『世界史の構造』はマルクスおよびカントを柄谷的に読み直す持論です。
「安保法」施行のこの日に読了=着陸。
運命の狡猾さよ!

さて。この日は朝日新聞も黙ってはいません。w
以下は今朝の「インタビュー」紙面、「永遠平和と安保法」です。
A4スキャナに収まらないので、暗室壁面にピンで留め、α7R+COLOR-ULTRON50mm1.8で撮影。Photoshopで切り抜きました。
拡大切り抜き画像で読めます。



PDFが便利な方のために丁寧に(w)それも用意しました。



いつものことですが、これらの行為は著作権に違反しています。どうか大目にみてやってください。

どちらもカントですね。
朝日のカントと柄谷行人のカント。少し(大いに、かな?)差異があります。
詳細を把握したいお方は、直接柄谷行人をお読みください。宣伝ではありません。手間を省く僕の怠慢です。




3月5日。風が強く気温が高い。PM2.5で煤けた空だ。
柄谷行人の『世界史の構造』は2010年に岩波から出る。それを当地の県立図書館から借り受けちょうど100頁読んだところで、自前で調達。
それというのも、今年になって岩波現代文庫で刊行され併せて改定もなされた。500頁を超える大著。実におもしろい。
LINHOFの中判用95mmでポートレート(?)をやっていたら我が家の薄汚れた猫が寄ってきた。
ついでに猫も記念に収める。
α7sとリンホフ95mm。現像はIDCです。拡大画像でレンズのよさが知れる。
文庫化されたのを機に購う。
アグファSOLINAR50mm2.8。上は7R、下は7sで。





考えてみれば村上春樹って、ずっと「一世を風靡」し続ける稀な(それも極めてまれな)作家だと思う。
そんな作家を他に知らない。
これも近くの書店で2段平積みされていた。
(そんなホンがほかにあるだろうか?)

30年ほど昔のことだ。東京町田市の書店で、平積みされた『サラダ記念日』を通りがかりにみた。
店頭に夕陽がいっぱいさしていた。
ホンを手にして研修で上京していた僕はそれを購った。
俵万智はこの上梓で字義通り「一世を風靡」したのだ。
だが、し続けてはいない。

『職業としての小説家』で村上春樹は大学生活を7年やったことを知った。
僕とまったく同年で計算すると3年間は同じ学校にいたわけだ。
僕は土曜日の午後、文学部のキャンパスに「精神衛生」の講義を受けに1年間通った。
どこかで彼とすれ違っただろうか。w
村上春樹を手にすると懐かしいアトモスフィアがわく。
地勢が立つ、とでもいうか。
穴八幡神社とか夏目坂とか西早稲田の地霊が出現する。
ちっとも豪勢なものはなく、暗鬱で苦しいイメージが先にくるけど。

スプートニクの恋人

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 「本書は1999年4月20日、小社より刊行されました。」:奥付の手前のページにそう記されている。


(α7R/FUJINON 1:1.9 f=4.5cm)

 そのころ僕は写真展の準備のために、半切バライタ紙とともに暮らしていた。まさに1999年の春だ。村上春樹を読むのをやめてからだいぶ経っていたとおもう。1990年代に入ると僕は小説やら詩などから離れて現代思想書を読み始めたからだ。それどもまだ「ユリイカ」は取り続けていた。「スプートニクの恋人」の存在はもちろん知っている。先日ジュンク堂2階のシアトルズベスト向きのカウンタにこれを手にして座ったとき、これはたしか読んだよな、と思ったほどだ。でも数ページ読んで「そうでもない」ような気がしてきた。まあ文庫棚の下に平積みされていて真新しい(あたりまえ)輝きの視線で僕に迫ってきたのも何かの縁だ。そうおもって買った。いつもはカバーを付けてもらうのだが、なんでかわからんが、いいです、と言ってしまった。(ジュンク堂のレジは10人くらいの店員が応対する。カバーはおつけしますか? とかならず問う)

 昨日読みあげた。変な話やっぱり以前読んだのかそうでないのか判然としなかった。そんなハナシってあるかい? とアナタは言うかもしれませんが、そうなんです。アナタにはそんな経験はありませんか? 実際に小泉義之の「ドゥルーズの哲学」(講談社現代新書)が2冊ある。スプートニク号の表紙の本がウチにあったような気がする。なによりミュウとすみれ、この二人に見覚え、じゃない聞き覚えがある。・・・。まあどうでもいいか。300ページを超えるが急転直下のラストシーンは3ページだ。なかなかのラブ・ストーリーです。ラストシーンのほんの少し前にこんなくだりがある。
 「すべてのものごとはおそらく、どこか遠くの場所で前もってひそかに失われているのかもしれないとぼくは思った。少なくともかさなり合うひとつの姿として、それらは失われるべき静かな場所を持っているのだ。ぼくらは生きながら、細い糸をたぐりよせるようにそれらの合致をひとつひとつ発見していくだけのことなのだ。」

 うーむ。比喩のようで比喩はない。諦念はあるものの静謐で端正な観念がコトバとなっている、そんな感じだ。あちら側とこちら側にまたがって生きている感覚を現実のものとして受け入れる。それはそのまま死の受容ともいえるだろう。なんとは無しにフーコーの死を思った。「かさなり合うひとつの姿」を手にしてフーコーは死んでいったのではないだろうか? と、そんなふうに思うのである。

Summaron 3.5cm 1:3.5

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(α7R/Summaron 3.5cm 1:3.5/SILKYPIX)

 ものを創る人間が一連の不可能事によって喉もとをつかまれていないとしたら、その人は創造者ではありません。創造者とは、独自の不可能事をつくりだし、それと同時に可能性もつくりだす人のことです。発見するためには、マッケンローのように壁に頭をぶつけていなければならない。壁がすりへるほど頭をぶつけなければならないのは、一連の不可能事がなければ逃走線、あるいは創造という名の出口を、そして真理を成立させる〈偽なるものの力能〉を手に入れることができないからです。『記号と事件』(文庫版)

プラトン主義の転倒

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 出来事は理念的である。ノヴァーリスが語ったことであるが、理念的な出来事と現実的で不完全な出来事の、二つの出来事の列がある。例えば、理念的なプロテスタンティズムと現実のルター主義である。しかし、この区別は、二種類の出来事の間にではなく本性的に理念的な出来事と事物の状態の中での空間的-時間的実現の間にある。出来事と事故の間の区別である。出来事は、〈唯一の同じ出来事〉において交流する観念的な特異性である。だから、出来事は永遠真理を有しており、出来事の時間(=時制)は、決して出来事を実現して実在させる現在ではなく、出来事が存続し存立する限りないアイオーン、不定形である。出来事だけが理念性である。プラトン主義の転倒とは、先ずは、本質を解任し、それに代えて特異性の噴出としての出来事を取ることである。二重の闘いの目的は、出来事と本質の独断論的混同を阻止することと出来事と事故の経験論的混同を阻止することである。(引用終わり)
(ドゥルーズ『意味の論理学』第9セリー 小泉訳 河出文庫 P106)

 そうなのです。中村哲の「三無主義」を「プラトン主義の転倒」とみるとどうなるか。彼の諸活動にはなにか人を惹きつける永遠真理のようなものがある。それは彼がヒーローイメージの「本質を解任」しているからだと思うのです。出来事を現在の時制に実現させることも重要だがそこにしがみついてはいない。そんな気がする。出来事は事故にとどまらない。無思想、無節操、無駄、というのはプラトニズムの理想と縁を切る、すなわち「本質の解任」を意味する。そこに無意識の戦略がみてとれる。中村哲はアイオーンを生きているのだ。そしてロマン派でもあるか。先日、散歩しながら考えてみよう、と言ったのはいわば戦略としてのプラトニズムの転倒のようなものを思っていたのです。中村哲氏の戦略、というのではありませんよ。出来事の系列(セリー)あるいは個体化のことを思っているのです。

ドゥルーズ 出来事

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 出来事。小泉訳「意味の論理学」(河出文庫)第21セリー。
///////////////////////////////
 出来事は、到来すること(事故)ではなく、到来することの中で、われわれにサインを送りわれわれを待ち受けている純粋な表現されるものである。先に述べた三つの規定によるなら、出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、意志されるべきもの、表象されるべきものである。さらにブスケは述べている。「君の不幸の人間になれ。君の不幸の完全性と閃光を受肉することを学べ」。これ以上のことは言えないし、一度も言われたことはない。すなわち、われわれに到来することに値する者になること、したがって、到来することを意志し到来することから出来事を解き放つこと、自己自身の出来事の息子になること、そして、それによって再び生まれること、出生をやり直すこと、肉の出生と訣別すること。出来事の息子であって、自分の作品の息子ではない。出来事の息子だけが、作品そのものを生産するからである。(引用終わり)


(G病院5階病棟より望む風景/NEX-7 E20mm 2.8/SILKYPIX)

しま屋のタンタン麺

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 7月1日のこと。福岡。電車を降りると激しい雨。しかたなく地下鉄で呉服町まで。着いたら雨は止んでいた。目的は「しま屋」のタンタン麺。スマホの地図アプリを使って歩いた。

 (以下すべてNEX-7/E2.8/20//SILKYPIX/拡大画像あり)

 ごらんのとおり少量。みなさんが大盛りを注文するわけだ。味はよかった。昼間はサイドメニューなし。

 バスで天神に戻る。そして定点観測。

 ジュンク堂4階で森山大道などなどをみる。

 2階のシアトルズベスト側の閲覧席に移動。人が多く少し待った(公園側も満席)。手にはニーチェの「悦ばしき知識 」(ちくま学芸文庫)。だが眠たい。読み始めると舟をこぐ。眼下はシアトルズベスト。コーヒーするか。

 で、シアトルズベストでバニララテとレモンタルト。

 ガラス越しのテラスでは黒人のオッサンが電話している。

ノマド

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 以下は河出文庫版(宮林寛 訳)ドゥルーズ『記号と事件』P277です。

 教師の実生活が面白いということはまずありえません。もちろん、旅をすることはあります。ですが、教師は言葉や経験によって旅費をまかなうわけで、学術会議や討論会に出席し、いつも、ひっきりなしにしゃべっていなければならないのです。知識人は膨大な教養を身につけていて、どんなことについてでも見解を述べる。私は知識人ではありません。すぐに役立つような教養もないし、知識の蓄えももちあわせていませんからね。私が何かを知っているとすれば、それは当座の仕事の必要上知っているだけなのであって、何年もたってから過去の仕事にもどってみると、一切を学びなおさなければならなくなっているほどです。かくかくしかじかの点について見解も考えももたないというのはとても気持ちがいい。私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです。旅をするとは、出かけた先で何かを言ったかと思うと、また何かを言うために戻ってくることにすぎない。行ったきり帰ってこないか、旅先に小屋でも建てて住むのであれば話は別ですけどね。だから、私はとても旅をする気になれない。生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけなければならないのです。トインビーの言葉に感銘を受けたことがあります。「ノマドとは、動かない人たちのことである。旅立つことを拒むからこそ、彼らはノマドになるのだ」というのがそれです。(引用終り)

 最近何度か「線」のことを記事にしている。それで、ドゥルーズが「点は嫌い」ということをどこかで言ってるその箇所を探しているのです。が、なかなか見つからない。その探索の折にこれに「再会」したというわけです。ココは僕が大変気に入ってる箇所です。「人には旅をする必然性はない」という僕の妙な信念の根拠になってます。セックス(性行動)と同様「旅」にも必然性はない、というような意味ですがね。ww。

 ドゥルーズのこの言は1988年、ちょうど僕の今の年齢なのです。読み手はかくのごとく何度もなんども行き着くのです。それにしても「点は嫌い」の典拠はどこにいったのでしょうか?

切片たるあなた

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(NEX-7/Summaron f=3,5cm 1:3,5/SILKYPIX)

「ひとつの職務というのは堅い切片である。
しかしまた、その下を何が通過するのか。
もろもろの切片と合致しないどんな接続が、
どんな引力が、どんな斥力があるのか。
秘密でありながらも、
たとえば教授、あるいは裁判官、弁護士、会計士、
家政婦といったような公的な権能と関係のある
どのような狂気があるのか。」
(『ディアローグ』ドゥルーズの思想 江川+増田訳 河出文庫)

ドゥルーズ「対話」

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ドゥルーズ=パルネの『対話』。
以下の部分はよく読まれた箇所だと思う。
今回、河出文庫(ちなみに「ディアローグ」と改題)を
「読んde!!ココ」で自炊。(わかります?)それを
記載します。第2章第2部だからパルネ担当かな。
しかしあきらかにドゥルーズの思想だ。
諸氏よ、味読されたい。

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 スピノザが次のように言うとき、
すなわち、「驚くべきもの、それは身体である…、
私たちはひとつの身体が何をなし得るのかまだ知らない…」、
と言うとき、彼は身体を
ひとつのモデルにしたいのでもなければ、
精神を身体に単純に依存させたいのでもない。
彼の企てはもっと微妙なところにある。
彼は身体に対する精神の偽なる優位を打ち倒し
たいのだ。精神と身体があるのであり、
両者揃って唯一の同じものを表現している。
身体の属性は精神の表現されたものでもある
(例えば速度)。
ひとつの身体が何をなし得るのかを
あなたが知らないのと同様に、
身体の中にはあなたが知らない、あなたの認識を
超出する多くのものがあるのと同様に、
それと同様に精神の中にはあなたの意識を超出する
多くのものがある。だから問いはこうなる。
ひとつの身体は何をなし得るのか、
どんな情動が身体には可能なのか。実験せよ。
しかし実験するためには多くの慎重さが必要である。
私たちはむしろ不快な世界に生きているのであり、
この世界では人々だけでなく、既成の権力もまた
私たちに悲しみの情動を伝達することばかり考えている。
悲しみ、悲しみの情動は、
私たちの活動力能を減少させるすべてのものである。
既成の権力は私たちを奴隷にするために
私たちの悲しみを必要としている。
暴君、司祭、精神の買い手は、
生がつらくて重いものであることを
私たちに納得させる必要があるのだ。
権力は私たちを抑制するよりも
私たちを不安にする必要がある。
あるいは、ヴィリリオが言うように、
他人の目に触れない私たちの小さな恐怖を管理し、
組織する必要があるのだ。
生についての長々とした普遍的な不平。
生という存在欠如…。「踊りましょう」と
言っても空しい。そんなに陽気ではないのだ。
「死とは何と不幸なことだ」と言っても空しい。
失われる何かをもつためにはまず生きるので
なければならなかっただろう。
身体と同じく精神も病んでいる人たちは、
彼らの神経症と彼らの不安、彼らが最も愛する去勢、
生に対する彼らのルサンチマン、
彼らの不潔極まりない伝染病を私たちに伝達するまでは、
吸血鬼となって、私たちを放そうとはしないだろう。
あらゆるものが血に関わっている。
自由人であることは容易でない。ペストを避けること、
諸々の出会いを組織すること、活動力能を増大させること、
喜びで自己変様すること、最大限の肯定を表現し
あるいは包含する諸々の情動を多様化すること。
身体を有機体に還元されないひとつの力能にすること、
思考を意識に還元されないひとつの力能にすること。
スピノザの有名な第一原理
「すべての属性にとっての唯一の実体」は
この作動配列(アシヤンスマン)に依存しているのであり、
その逆ではない。
スピノザという作動配列(アシヤンスマン)があるのだ。
精神と身体、諸々の関係=比、諸々の出会い、
変様能力、この能力を満たす諸々の情動、
それらの情動を形質化する悲しみと喜び。
哲学はここでひとつの機能作用の、
ひとつの作動配列(アシヤンスマン)の技法となる。
諸々の出会いと生成の人、
ダニの哲学者であるスピノザ、
知覚し得ない者スピノザ。
彼はつねに中間にあり、
たとえ動くことがほとんどなくてもつねに逃走している。
ユダヤ人共同体からの逃走、
《権力》からの逃走、
病気の人や悪意に満ちた人からの逃走。
彼自身も病気であり、死ぬかもしれない。
だが死は始まりでも終わりでもないということ、
そうではなくその反対にそれは自分の生を
他の誰かに移すということを彼は知っている。
ローレンスがホイットマンについて言っていること、
それがどの点においてスピノザに当てはまるのかといえば、
彼の連続する生、ということになる。
つまり《精神》と《身体》だ。
精神は上方にも内部にも存在しない。
それは「とともに」存在する。
それは道路の上で、あらゆる接触に、
出会いに晒され、同じ道を辿る人たちと
仲間になって存在する。
「彼らとともに感じること、
彼らの精神と彼らの肉体の振動を
通りすがりに捉えること」、救済の道徳の反対、
精神に自分の生を救うことを教えるのではなく、
自分の生を生きることを教えること。
//////////////////////////////////////////////////////

属性 様態 効果

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三菱地所アルティアムの会場は狭い。
それを塩田千春は工夫して使っていた。


(NEX-7/Hektor f=2,8cm 1:6,3/ISO3200)

パンフの装置とはちょっと違うでしょう?
スペースの狭さで新たな線が生じる。
属性が変われば様態も変容する。
効果、といっていいだろう。

少し蛇足を・・。
「書くことは逃走線と本質的な関係にあるのかもしれない。
書くこと、それは逃走線を描くことである。
逃走線は想像的なものではなく、人は逃走線を辿るように
まさに強いられている。
なぜなら、エクリチュールが私たちを逃走線に引き入れ、
実際に私たちを逃走線に乗り込ませるからである。
書くこと、それは生成することである。
とはいえそれは作家へと生成することではまったくない。
それは別のものへと生成することである。」
(『ディアローグ』ドゥルーズの思想 江川+増田訳 河出文庫)

西瓜糖の日々

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30歳くらいの「わたし」が
住んでる土地「アイデス」、友達の「チャーリー」、
両親を食べてしまった「虎たちのこと」など24の項目(?)に
ついて「あなた」に語る・・そういう書割になっている。
それがブローティガンの『西瓜糖の日々』(藤本和子訳)。
絶版になってたものが今世紀になって復刻される。
そんなわけで図書館にも文庫はないのでしょう。
(以下『西瓜糖』と省略します)

『西瓜糖』は『ドゥルーズ/ガタリの現在』所収のサドッホの論攷、
「言語の流体力学-指令語の射程について」で知った。
そこには「ブローティガン効果」とあった。
『西瓜糖』をジュンク堂で読んでしまおうと目論む。
だけど54ページからの「算数」に少し触れて、
購うことに決した。
物語は「夢」とみていい。
しかしそれはそのとき『夢分析』(新宮一成 岩波新書)を
一緒に購って同時進行で読んだ僕の勝手な解釈ともいえる。

虎たちは「わたし」の両親を食ってしまう。
9歳の時だ。

「おまえの親たちを殺して食べてしまったことについては、
心からすまないと思っているんだよ。でも、わかってほしい。
おれたち虎は悪ではないのだ。ただ、こうしなければならないのだ」
「わかったよ」とわたしはいった。
「算数おしえてくれてありがとう」
「なんのなんの」虎たちは行ってしまった。

両親を食われた虎に算数(九九)を教わるわたし・・
なんという拡散か。これは現働的な様態ではない。夢だ。
さて。昨日のこと。
たまたまNHK-BSで(ワールドニュースのようだった)
子供が枯葉を食べる場面を目撃した。
食料がなく、枯葉を揉んで食べている。
その深刻さを報じた後、「次です」とキャスターは転じた。
「次」はエリザベス女王在位60年記念とやらの
豪華で晴れやかなニュースであった。
夢であってほしいが、こちらは現実的な様態である。
虎:算数=飢餓:記念祝典
僕の目の前で並列に展開されたふたつのことがら。
虎:算数より飢餓:記念祝典の対比のほうがすごい。
酷薄さにおいては、小説よりメディアの方が強度がある。



(NEX-7/ ヘクトール 28mm/ Hektor 2,8cm 1:6,3)


(拡大画像なし:taken Summitar 5cm/2 on NEX-7)
せんにジュンク堂に行ったとき
『西瓜糖の日々』(河出:藤本和子訳)を検索。
2階カウンタで拾い読みしました。
柴田元幸の「あとがき」もチェック。
だけど買わずに出る。図書館を使おう。

ところがこれが当市の図書館にない。
いや、正確には89年の河出の世界文学全集に、
シリトーとケルアックと一緒に入ったものはある。
けれど絵にある文庫はない。県立図書館にもない。
次回ジュンク堂で買うことになるかなあ。

この日M5にズマロン Summaron 35mm F3.5、
NEX-7には借り物のズミター Summitar 50mm F2 を
つけて出かけた。これはズミターです。
(拡大画像あり:Summitar 5cm/2)



ダイソーの額縁

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医療センター での待ち時間はドゥルーズの文庫版を読むことと決めている。今日はこの箇所から始めました。エルマー65mm(ビゾ)EOS5Dでひざのうえのショット。(拡大画像なし)



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体についての第二の命題は私たちに、ひとつの体のもつ触発しまた触発される力を考えよと言う。ひとつの身体(またひとつの心)を、その形やもろもろの器官、機能から規定したりしないことだ。スピノザにとってひとつひとつの身体や心は、実体でもなければ主体でもなしに、様態であることを、スピノザの読者なら誰でも知っている。ドゥルーズ『スピノザ』第6章。

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さて。「ダイソー 額縁」でググルと、花火のようにアイテムが出てくる。これはいい、と店に出向く。おもしろそうなフレームを6コ買う。そしてさっそくつくってみる。(拡大画像あり)



縦フレームの中のマットは厚紙で自作。横はのりパネに貼ったA5サイズをダイソーの卓上イーゼルを使ってみる。たのしいではないか。(笑)4000PXの連続供給をやめて純正インク。もうさまざまなICCプロファイルを試してみる。(30コ以上かなあ。あのsGrayも。)たどりついたのがこれらの色。モノクロはPhotoshoでredチャンネル、編集のグレースケール。ICCはSILKYのPM40PBWP=実はこれはWaterPaper P.(PK)だ。Photoshopの作業用プロファイルでグレーの読み込みをいじっても、最終的にはICCにもっていかれる。一方カラーはsRGBを使うと暗いホンマタカシ風味になる。エプソンのマゼンタを嫌うぼくはこの青みを偏愛している。つまりはICCを自作するしかないのだろうねえ。
ロレンスの『黙示録論』を大晦日に読み終えたその日、
玄関に『ニーチェの言葉』なるホンが届いている。
え?コレ誰の?
わたしが頼んだ、と妻。
ちょっと読ませて、と二階に上がり開く。
2ページ読んで・・ん?なにこれ、と。
オモテを見ると「超訳」とある。
なんだ、こりゃニーチェじゃねえ、と閉じる。
妻には何も言わずに戻す。

いやはや。そんなもんです。
帯には100万部売れたとうたってある。
これがベストセラーになるという現象がおいらには笑える。
あの天神三越で野生動物シャシンでホンを売りまくる
トンデモ写真家と同じだね。(笑)
(同じ会場で犬猫のシリーズがあるそうで。終わってる。)

お得意様がいるから市場(しじょう)が成立する。
人々が求めるのは「市にひさがれるものばかり」と
嘆いた(?)のはヘルダーリンだ。
「市にひさがれるもの」のなんとつまらないことよ!

さてそのニーチェの『反キリスト者』を
ちくま学芸文庫版で読み終える。
パウロに対するうらみつらみは凄いぞ。
ルサンチマンの丸出しだ。迫力がある。
パウロで思い出したが
バプテスト教会に行ってた高校生のころ
高校生グループを仕切るセンセは脳外科の研修医だった。
かれはパウロを「パウロさん」と呼んでいた。
パウロを尊敬していたのだろう。
パウロが並外れた情熱家であることは
高校生の僕にも手にとるようにわかった。

そのパウロ。ロレンス、ニーチェに徹底して断罪される。
(もしくは『ふしぎなキリスト教』においてもね)
「身から出た錆」ということになりますか。
『反キリスト者』は病に倒れる前年ということになる。
ロレンスの場合と重なって感じられる。

福音書のイエスに関する記述が
一応正当なものと仮定してみる。
そしてイエスのふるまいを想像してみる・・
すると僕には、自由で孤独なイエスが浮かび上がる。

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この「悦ばしき音信の報知者」は、彼が生きたごとく、
彼が教えたごとく、死んだのである――「人間を救う」
ためにではなく、いかに生くべきかを示すために。
実践こそ、彼が人類に残したものである。
すなわち、それは、裁判官に対する、捕吏に対する、
告訴人とすべての種類の誹謗や嘲笑に対する彼の態度、
――十字架上での彼の態度である。
彼は反抗せず、おのれの権利を弁護せず、
非道から身をまもる処置をなんらとることもなく、
それどころか、彼はそれをそそのかす・・・
そして彼は、彼に悪をくわえる者たちとともに、
この者たちのうちで、祈り、苦しみ、愛する・・・
防禦せず、立腹せず、責任を負わせず・・そうではなくて
悪人にも反抗せず、――悪人を愛する・・・
ニーチェ『反キリスト者』第34

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そう、イエスは「人間を救う」ために生きたのではない、
と言えるかもしれませんね。
「人はおのれ自身にたいして感謝するのであり、
そのためにこそ神が必要となるのである。」
ニーチェ『反キリスト者』

核心をついているなあ。
県立図書館から借り受けた理想社のハードカバーは、
重く、古書特有のにおいが鼻に苦しい。
よってちくま学芸文庫版をジュンク堂で買う。



シアトルズベストの喫煙席にもっとも遠い席、
そこにニーチェを持ち込みFREESPOTをやっている。
(それでも匂うが・・)
『ふしぎなキリスト教』や『黙示録論』は
『反キリスト者』と響きあうものがある。
その通奏低音のつぶやきはこうだ。
「キリスト教(教会)にイエスはいない」

ロレンス『黙示録論』

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ドゥルーズの『批評と臨床』第6章に
いざなわれるようなかたちで始めたロレンスの
『黙示録論』を大晦日に読了。
これは若き福田恒存の力技=偉業だと感じた。
福田といえばまあシェークスピアだ。
その福田訳をそっくり使って
高校生演劇=『ベニスの商人』を
やったことがあったなあ。笑える。
若いときはニンゲン何でもやる。
いやちがう、ニンゲンは死ぬまで何でもやる。

ロレンスは『黙示録論』を仕上げて
その2ヶ月後には45歳で死ぬ、とある。
しかも速筆2ヶ月で校了した遺作。
アポカリプスの最終章では
「個人は愛することはできない」と結ばれる。
愛の不可能性を断じ、「私は大いなる全体の一部」
と言い放つ。唐突に「構造」がくる。

そうした最終章は奇異に思える。が何か
ロレンスの衝迫=叫び、不幸を感じ取る。
死を予感していたのではなかろうか・・・
同時進行でロレンス=『アロンの杖』を
読むがこちらは100ページくらいで放棄した。
ちょっと現在には「退屈」が過ぎる。

福田恒存の仕事はすばらしいと思う。
これを残した「ちくま学芸文庫」に感謝。
「訳者が混同したか」と指摘する箇所、(P338)が
ほほえましい。

ロレンス「黙示録論」

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『批評と臨床』には検査入院のお供になってもらう。(笑)
その第6章、
「ニーチェと聖パウロ ロレンスとパトモスのヨハネ」
その章の原注"Apocalypse"を読むために
福新樓のあとはとりあえずジュンク堂へ向かう。

ロレンスの『黙示録論』である。
福田恆存訳なのだが
2004年、ちくま学芸文庫版である。
ドゥルーズの原注あたりから読み始める。
予想はしていたが拾い読みというわけにはゆかぬ。
分厚いのです、これが。
買うとまた死後の残滓がふえる。
この日は同じロレンスの『アロンの杖』や
ニーチェにもあたるつもりでいたのだが
はやばやと頓挫したかっこうになった。

今日になって当地の県立図書館へ
ニーチェ全集の第13巻を含めて借り受けの
予約を入れる。退院したころには着くだろう。
キリスト教にはそのひとはいない。
初期キリスト教にすらそのひとはいなかった。
そのひとは弟子たちのあいだでさえ孤独であった。
「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
むしろ何かを察知したのはピラトのほうかも知れぬ。
十字架をになったクレネ人シモンのほうが
弟子たちよりはマシだったのだと思う・・・

あ、でもどうでもいいことですね、そんなこと。
パトモスのヨハネの幻視がすごいなら
ロレンスのそれはもっとすごいと思う。
尋常ならざることは同じです。
3日間僕は科学の臨床の被験者となります。(笑)
『批評と臨床』はせめてもの僕の対抗の線ですが、
ひしめく差異のなかどのような積分としての魂が
産出されるのだろうか?
「流れとしての、流れの集合としての自分、
しかも他の流れと、自己の外で、そして自己の内で
関係を持つ自分を生きること」
(第6章より)

朝日新聞 定義集

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12月14日「朝日」紙上の文化欄。
隣り合わせの記事をseo上別記事で仕立てます。
(ちなみに左隣に「家政婦のミタ」)

大江健三郎 「海外の学会へ出向く小説家」。
定義集。原爆を経験した日本文学。
(おお、どれがタイトルなんだろう?拡大画像あり。)



それとご丁寧に

ここにはPDFファイルがありんす。

ううむ。
実に大江健三郎ですなあ、これは。
でも大変ですね。外国に出かけて若者と討論なんて。

僕は老後は、暖かい日差しのあふれる2階で
ごろんとまどろむほうを選びます。(笑)
丈夫で元気なんですね、大江さんは。
スピノザはどうなったのでせうね。

個人的にはこの朝日記事は楽しめました。
若々しさ、夢、想像力・・を今も変わらず感受させる。
妙なもので魂が浸潤されるんですな。
おれも原民喜読もう、竹西読もう、というような気慨を
喚起させるところがあるんですね。
たとえ揮発的な微粒子ではあれ、それを散布する力が、
大江健三郎という人にはあるのでしょうね。
それは率直にたのしい。
この大江氏の顔シャシンもよろしいしね。
僕もまた髪のばそうかなあ。

(追記:『心願の国』を青空文庫で読みました)

記号と事件

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教師の実生活が面白いということはまずありえません。
もちろん、旅をすることはあります。ですが、
教師は言葉や経験によって旅費をまかなうわけで、
学術会議や討論会に出席し、いつも、ひっきりなしに
しゃべっていなければならないのです。
知識人は膨大な教養を身につけていて、
どんなことについてでも見解を述べる。
私は知識人ではありません。
すぐに役立つような教養もないし、知識の蓄えも
もちあわせていませんからね。
私が何かを知っているとすれば、
それは当座の仕事の必要上知っているだけなのであって、
何年もたってから過去の仕事にもどってみると、
一切を学びなおさなければならなくなっているほどです。
かくかくしかじかの点について見解も考えももたない
というのはとても気持ちがいい。
私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、
逆に、たいして言うべきこともないのに
意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから
悩んでいるのです。旅をするとは、出かけた先で
何かを言ったかと思うと、また何かを言うために
戻ってくることにすぎない。行ったきり帰ってこないか、
旅先に小屋でも建てて住むのであれば話は別ですけどね。
だから、私はとても旅をする気になれない。
生成変化を乱したくなければ、
動きすぎないようにこころがけなければならないのです。
トインビーの言葉に感銘を受けたことがあります。
「ノマドとは、動かない人たちのことである。
旅立つことを拒むからこそ、彼らはノマドになるのだ」
というのがそれです。
『記号と事件』(河出文庫 P277)

ここは好みの箇所です。
ドゥルーズってヒトは実に謙虚なんですねえ。
うがった詮索なしでつい聞かされる。人徳ですな。

さて、上記のテキスト、
これはテキスト化を「読んde!!ココ 体験版」で試した。
これだけの長さで訂正は1箇所。使えますね。
檜垣立哉の『西田幾多郎の生命哲学』
(講談社現代新書)については先に触れた。

高校時代に西田の『善の研究』を手にしたが
てんで歯が立たなかった。
クラスに弊衣破帽を気取った友人がいて
彼に阿部次郎とか倉田百三を薦められた。
読み始めたがどちらも途中で放棄した。
僕のピントじゃなかったからだ。
むしろ当時は、岩波哲学講座の田中美智太郎が好きだった。
で、繰り返すが西田幾多郎は理解できなかった。

今回半世紀を経て、檜垣センセのおかげをもちまして、
ふたたび西田幾多郎に巡り合う。僥倖このうえない。
しかも今度はジャストピントなのだ。

さてさて。
檜垣センセが最終的に取り上げているのは
『絶対矛盾的自己同一』という論文だ。
これがどんな概念であるかは、
檜垣センセの前掲書を読むがよろしい、ということになる。
だが幸い、現在「青空文庫」で同論文を読める。
僕はそれを片手に檜垣=西田を読んだ。
それをパナのCF-R8上で読めるサイズにPDF化。
以下のパーティハットをダブクリすると、
たちまち祝祭的雰囲気が立ち込めまして、
西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』のPDFが開きます。(笑)


ビジネスモバイルのレッツノートで、
西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』だって?
そんなお方は万が一にもいますまいね。うむ。

佐野洋子のこと

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長文注意、の喚起アリ。
週刊新潮は2010年11月18日号の「墓碑銘」。
以下は病院待合の間読んだ当の記事。(全文引用)
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絵本作家、佐野洋子さんの生涯を貫いた「愛と和解」

生死を繰り返しそのたびに飼い主に愛された猫が、
初めて愛することを知る。
最愛の相手が亡くなった時、初めて涙を流し、
もう生き返ることはなかった―。

佐野洋子さんの『100万回生きたねこ』は、
昭和52年の刊行以来、178万部を数え、
子供ばかりか広い世代に
読み継がれている絵本の名作だ。
文章も秀逸で、平成16年には
『神も仏もありませぬ』で小林秀雄賞を受賞している。
「人を愛することで人間はまっとうになる」と
再三書いているが、そこに至る道程は、
自身の長年の葛藤の日々だったかもしれない。

佐野さんは
母を愛せなかった自責と、長い歳月を経て訪れた和解を
『シズコさん』(新潮文庫)に克明に著した。
佐野さんは4歳の頃、
つなごうとした手を母に邪険に振り払われた。
父の他界後、
女手一つで子供達を育て上げたことを理解しながらも、
母の言動や性格を頑なに嫌った。
やがて老いた母は呆け、穏やかになる。
ある日、母を前に涙が湧き、
「ごめんね、母さん、ごめんね」という言葉が出た。
「私の方こそごめんなさい」
という母の返事に動かされる。
「母さん、呆けてくれて、ありがとう。
神様、母さんを呆けさせてくれてありがとう」
という佐野さんの言葉には
長年の万感の思いが込められていた。

親交が深かった詩人の佐々木幹郎さんは振り返る。
「心の中をよく引き出したと思いました。
佐野さんの北軽井沢の家で焚き火を前に
何気ない話をしました。
母との関係で苦しんできた自分の奇妙さを、
ふと話してくれることがありました」

『シズコさん』を小社の『波』に連載中の
平成18年に母は93歳で他界。
佐野さんは乳癌が転移、
余命宣告の期間を超えた時期だった。

昭和13年、北京生まれ。
父の利一さんは満鉄に勤め大連で敗戦を迎えた。
武蔵野美術大学に進み、
白木屋(現・束急百貨店)の宣伝部に。
イラストレーターとして評価されるが、2年で退社。
ベルリン造形大学に学んだ後の46年
『やぎさんのひっこし』で絵本作家として世に出た。
自分の中にいる子供時代の私に語りかけて創作している
と言っていた。

「佐野さんの絵本には教訓や押付けがましいところがない。
子供が持つ本能的で獰猛なエネルギーを大切にしていた。
頭で考えた論理や正義、
上品ぶることが大嫌いでした」(佐々木さん)

エッセイも注目されるが、
「本音が魅力でした。真実を見抜く力がある。
悪ロにも優しさがあり人生に前向きでユーモアがありました」
と、35年来、編集者として縁が深かった
刈谷政則さんは述懐する。

「月面の宇宙飛行士をテレビで見て、
あんた、何しに行ってるの、用もないのに、と言う。
科学の進歩にいかがわしさを感じても
声高に批判するわけではないのです。
人の意見を援用せず、
自分の言葉に責任を持っていた」

結婚から流行、自身の家族まで幅広く俎上に載せた。
「ミーハーで、俗っぽいふつうの中にある凄さ、
けったいさが好きでした。
人ほど変で面白いものはないと感じていた」
(佐々木さん)

2度の離婚を経験。
長男の広瀬弦さんは画家として活躍している。
詩人の谷川俊太郎さんと
平成初めに再婚したが10年余で別離した。

平成16年に乳癌が見つかり
左乳房を全摘したが、翌年、骨盤へ転移。
余命を告げられると延命を望まず、
ジヤガーの新車を買い、
仕事も煙草もやめなかった。

古道具店ニコニコ堂の店主、長嶋康郎さんは言う。
「8年ほど前、一度だけ筆でしたためた手紙を
いただいたことがあります。
癌になった愛猫が平然としている様子に感じ入り、
自分もジタバタせずに死にたいと書かれていました。
今思うと、予感めいたものがあったのかもしれません」

11月5日に乳癌のため、72歳で逝去。
死なない人はいない、
死んでも許せない人など誰もいないと語った。

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「墓碑銘」の佐野洋子をいつか話題に、と思っていた。
ま、それだけのことでありんす。

幇間 三木のり平

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哲学は神経学と特権的な関係を結んでいますが、
それは観念連合論の思想家を、
あるいはショペンハウアーやベルクソンを見れば
すぐにわかることです。
私たち現代人にとって、新しい考えがひらめくきっかけは、
コンピューターではなく、ミクロの生物学ともいうべき
脳生理学にあります。脳というものは
一個のリゾームであり、だから樹木よりは草木に近く、
一種の「アンサートゥン・システム」を形成し、
確率論的で、半分は偶然にゆだねられた量子論的
メカニズムをもつ。
(中略)
映画で面白いと思ったのは、
スクリーンが脳になりうるということで、
これはレネやジーバーベルクの映画に顕著な傾向です。
『記号と事件』(文庫版)

「お母さんが向こうで呼んでるよ」
少年は走り出す。
そんなシーンがあるとする。
僕たちの思考イメージは、走る少年の先には
母が待つ。さてどんな顔で?
というようなイメージを結晶させるだろう。

僕たちはそのように連合させ、生成しながら先に進む。
脳の中では、映画に出会うと同じように
現実存在を創りあげる力能が働く。
僕たちはイメージを創りながら生きているのだ。

1962年の東宝版『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』。
『忠臣蔵』はWikiしてください。
僕は小中学生の時分、映画ならなんでもかんでもみた。
時代劇、日活アクション、母モノ、特撮モノ・・
ジャンルなんてどうでもよい。
映画をみるのが好きだった。

三木のり平はセリフ覚えが下手だったときく。
『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』での幇間=三木のり平の踊り、
それとモノボケ、これがおかしい。
役者だねえ。
では、まずは東宝版『忠臣蔵』からの踊り、モノボケ。




続いては『社長紳士録』。森繁と白塗り姿で宴会芸。



あいだ 記号と事件

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事件をとらえることができるのは芸術であって
メディアではない・・・と前置きしてドゥルーズは言う。

ふたつの点のあいだに線があるのではなく、
線が何本も交差したところに点があるわけですからね。
線が一定することはありえないし、点のほうは、
あくまでも線の変曲であるにすぎないのです。
だから当然、重要なのは始まりでも、終わりでもなく、
あいだの部分だということになる。
『記号と事件』(文庫版)

ドゥルーズのこの言は至極もっともだろう。
このことで小津やアントニオーニを参照する、僕の言う
「ドゥルーズの配分」は正当といえます。

映画『氷点』(1966)の詳細についてはWikiしてください。
僕は森光子という女優のことは何も知らないが、
陽子の自殺未遂後の、このシーン。
辰子(森)が後悔する夏枝(若尾)を陰からみている場面だ。
音声もなく、辰子の動きだけで明らかにされるもの。
これが、メディアではとらえられない決定的な結晶であり、
事件(出来事)なのだ。

ドゥルーズ的成瀬巳喜男

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ものを創る人間が一連の不可能事によって
喉もとをつかまれていないとしたら、
その人は創造者ではありません。
創造者とは、独自の不可能事をつくりだし、
それと同時に可能性もつくりだす人のことです。
発見するためには、マッケンローのように
壁に頭をぶつけていなければならない。
壁がすりへるほど頭をぶつけなければならないのは、
一連の不可能事がなければ逃走線、あるいは
創造という名の出口を、そして真理を成立させる
〈偽なるものの力能〉を手に入れることができない
からです。
『記号と事件』(文庫版)

では成瀬巳喜男の「娘・妻・母」。
原節子、40歳。
2年後に、「忠臣蔵」=りく役を最後に銀幕を去る。
降りる時期を知っていたのだと思う。

ドゥルーズ的成瀬巳喜男

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だから私は想像界の概念が
それほど重要であるとは思っていません。
想像界の概念は、一方では物理的、化学的、
あるいは心的な結晶作用を前提にしています。
想像界の概念によって規定されるものは何もなく、
逆に想像界の概念のほうが、交換回路のかたちを
とった〈結晶イメージ〉によって規定されるのです。
想像するということは、〈結晶イメージ〉をつくる
ことであり、映像を結晶と同じように機能させる
ことなのです。
ヒューリスティックな機能をはたすのは想像界では
なく結晶のほうであり、それは現働的なものと
潜在的なもの、透明と不透明、そして核と媒質という
三重の回路によって可能になるのです。
『記号と事件』(文庫版)

ドゥルーズとちがって僕は「もうひとりの小津」、
すなわち成瀬巳喜男の映像を愛する男です。
ドゥルーズは成瀬を知っていただろうか?

「女が階段を上る時」の結晶も、暗く重い。
だが僕の傾向であり、実は豊かなものなのだ。
銀座のママが、妻子持ちのしがない男にだまされる、
以下のシーンはそれを知るくだりだ。
背景には千住の「おばけ煙突が」みえる。
それだけのシーンだが僕にはよろしい。

記号と事件

|
「唯物論的精神医学とは、」と『記号と事件』は
語り始める。(文庫版P41-)
「欲望に生産をもたらし、また逆の方向から
生産に欲望をもたらす精神医学のことです。
妄想の対象は父親ではないし、(父-の-名)でもない。
妄想の対象は歴史上の人名であるわけですからね。
妄想というものは大規模な社会の機械に組み込まれた
欲望機械の内在性に近い。
あるいは歴史的に限定された社会の領域が
欲望機械から備給を受けることだと考えてもいい。
精神分析が精神病の何を理解したかというと、
それはオィディプスや去勢につながる「パラノイア」の線
なのであって、またそうであればこそ、
オィディプスや去勢のような抑圧装置が
無意識の中に組み込まれることにもなったのです。
ところが妄想の分裂病的基盤、つまり
非家族的な運命を描く「精神分裂病」の線は
精神分析の理解を完全に超えている。
精神分析は狂気の声を聞くことができなかった、と
フーコーが述べていますが、じっさい、精神分析は
あらゆるものを神経症に変えてしまう。」

さて。
アスペルガー症候群はどうなんだろう?
門外漢の僕がいうのはおこがましいが、でも問う。
アスペルガーもひたすら「非家族的」な運命線上を
走り続けているのではあるまいか。
「唯物論的精神医学」のことはおくとして、
ここでのドゥルーズの言を参照項とする、
それは可能か?
適用することはできるか?
結局は何処に行こうがDSMによる基準と処方によって
「脳内科」(新宮一成)的なお薬をもらうことになる。
そんな病がけっこうあるのだ。
「心療内科」。あれは何だ、と思ったことがある。

医師がまず「やまい」について無知なのだ、と知っておこう。
だから僕らはとりあえず
自分を患者となす医師になることからはじめる。
検査も最小限にしておこう。
僕は毎年やってきた「胃検診」を今年はパスした。

場所 33.586971,130.394926

記号と事件

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「じっさい、私たちの関心をひくのは、物や人を、
あるいは主体を導き出す個体化の様態ではない。
それとは違った個体化の様態があるのです。
たとえば一日のうちのある時間、
あるいは地域の個体化、なんらかの気候、
流れる河、そよぐ風の個体化。
つまり〈事件〉の個体化ということですね。
それに、人や主体が存在するという信念は
まちがった考え方かもしれないのです。」
ドゥルーズ『記号と事件』(文庫版)

これだけでも、ドゥルーズという思想家が、
どれほど革新的であったかが感じ取れる。
ほとんど痛切な直感として届く。
概念という名のこれは美しい詩そのものではありませんか。
僕たちはある特異な諸線がおりなす地点で
特異な事態を受肉する。
それこそが個体化とよばれるものであり、
そこにつくねんと在るその人が主体なのだ。

ところで。
半月ほど前「九州国立博物館」にいったおりのこと。
太宰府駅の駅員に二日市での帰りの乗り継ぎを
調べてもらった。
ジャケットの内側から出てきたのはなんとダイヤグラム。
40年ぐらい前に西鉄駅員に尋ねた折にも
使っていたソレだ。
いまでも使うのだ。感動ものだ。

ネットで調べると私鉄では西鉄くらいなもんだ。
しかも小型版を一般配布している。
一昨日天神駅でもらってきた。(拡大あり)

福新樓「古式皿うどん」を待つ間
『記号と事件』(文庫版)を読む。
香水おばさんが隣席に。掻き込んで早々に退散。

新天町マクドナルドでモバイルする。引き続き読書。
コーヒーのお代わり。

天神コアを抜けてまずは定点観測地へ。Ultron 40mm。


スタバ店内を「ぬけられます」実行。
ジュンク堂のシアトルズ側カウンタへ直行。今日の本。
(拡大あり)


略語「カラ兄」はカラアニとでも読むのか?
違和感アリ。すぐ狎れる。
カウンタから見下ろすシアトルズベスト。


ドゥルーズの読み手には
『批評と臨床』が今年になって河出文庫化されたのは
よろこばしいコトにちがいない。

全17章の目次を以下に網羅します。

1.文学と生
2.ルイス・ウルフソン、あるいは手法
3.ルイス・キャロル
4.最も偉大なるアイルランド映画―ベケットの『フィルム』
5.カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について
6.ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ
7.マゾッホを再び紹介する
8.ホイットマン
9.子供たちが語っていること
10.バートルビー、または決まり文句
11.ハイデガーの知られざる先駆者、アルフレッド・ジャリ
12.ニーチェによるアリアドネの神秘
13.……と彼は吃った
14.恥辱と栄光―T・E ロレンス
15.裁きと訣別するために
16.プラトン、ギリシア人たち
17.スピノザと三つの『エチカ

いかがですか?
あなたがドゥルーズの読み手であり、
かつ、未読=「批評と臨床」状況であるとしたら、
これらの章タイトルのキーワードにふれただけで、
一も二もなく入手に走るでしょう。

僕はこれまで何度も、繰り返し、読んでます。
どこを開いてもオーケー。
章の途中から読んでも何の問題もない。
たちどころにドゥルーズの概念が展開されます。
それは彼の他の諸作品の概念に通底しています。
矛盾するかのような概念でさえ、
パラドックスのなかで通じあっています。
これはドゥルーズのzipファイル、概念圧縮ファイルです。
チンして解凍し、気楽に読まれるがよろし。

さてもさて、旅の途中、古賀SA(登り)での
位置は33.73726,130.51716から
南西側をスナップ。うーむ。感じるなあ。
(1536拡大画像あり)


カシミール3Dで調査したけど自信がない。
中央は尾東山?立花山?わからない。
低山だが、堂々としてる。
いいなあ。

記号と事件

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小泉義之は討議「来るべきドゥルーズ」のなかで
文庫化されて手にしやすくなったドゥルーズを
鋭意読み込んだ若者が出ることに期待する、
というようなことを言っていたと思う。
同感だ。
分厚い『千のプラトー』を持ち歩くわけにはゆかない。
寝転がって読むことも難しい。
単行本より少しは安い。
(それほど安くはないんですよね、これが)

ともかく僕みたいな爺にはもう時間がない。
若者が取り組み、新しい時代にふさわしい提言を
新しい概念のもとに言い始めるしかない(ように思う)。
それにはドゥルーズとその周辺を
字義通り読み込むことが必要だと思うのだ。

ジジイは 『記号と事件』は図書館から借りて読んだ。
今回、文庫本を買った。
文庫版あとがきによると、
訳語の手直しをした、とある。
なるほど。それは必要だろう。
読み手には統一されたタームの方がいい。
訳語だけではなく一部は全面的に改訳した、ともある。
これを機にアタマから新しい気持ちで再読しようと思う。

記号と事件

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ジュンク堂で河出文庫の『記号と事件』を買う。



ついでに『批評と臨床』も。
バッグに入れておけば気儘に読める。うむ。

その文庫版『記号と事件』でいうと245ページ。

哲学者は反省するのではなく創造する人間だ

タイトルにみえるがそうでもない。センテンスだ。
この前後はいいですよ。
なにより『シネマ』の経緯がわかる。

◎不毛の時代が来ると、
哲学は「・・・について」の反省に逃避していく・・。
自分では何も創造できないとなれば、「・・・について」
反省する以外に何ができるでしょうか?◎

今日は福岡は暑い。
ここ新天町マックもエアコンがぬるい。
僕はこれから博多に出る。
「かつ亭」の味が復活したかを検証しにね。(笑)
のんきだなあ。

・・・・・
MTのパーマリンクは不変なので
毎度のように追加記事。(2時間経過)
14時を過ぎてたかもね、店入りしたのは。
誰もいなくてゆったりとテーブル席で食す。
ご主人はいなくて女の方がやっていた。
ちょっといやな予感がした。
・・・が、ロースカツが運ばれてきた瞬間、確信。
そう。ジューシーで味はバッチリだった。
やはり前回だけが変だったのか。
口蹄疫の最中だったからなあ。
これでまた「かつ亭」ができますな。

記号と事件

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僕は20代の半ばに子供たちに対して
きみたち、「光の束」という言葉から何をイメージする?
と発問したことがあった。

一方『記号と事件』の中では
「汚名に塗れた人とは光の束と音響の波動に
とらわれた微粒子のことなのです」とドゥルーズはいっている。
(汚名に塗れた人、とはフーコーの概念)

翻訳ではあるが同じ「光の束」というターム。
ふしぎだ。

さてこの『記号と事件』。河出文庫に生成(!)した。
さっそく買わなきゃね。
1冊だからバッグに入れて旅先で読める。
何度読んでもどこから読んでもオーケーだ。
ドゥルーズが今次々に文庫化されている。ブームなのか。
『シネマ』の翻訳あたりから新しい火がついたのかな。
そんな気がする。
いずれにせよ、歓迎だ。



"Actualité des arts plastiques" でBaconのポジを入手した。
ルーペにレンズを真上から。

世界が僕に殺到する

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財津理訳の『差異と反復』(河出文庫)の
これは下巻、第五章 感覚されうるものの非対称的総合
その冒頭2ページである。
ドゥルーズは40歳代半ばだとおもう。
彼がそんな年代だということを考えながら
ぼくは読む。
(拡大するとW1200dpiの別窓)

自分の意思にかかわらず向こうから波がやってくる。
そしてどこかに連れ去られてゆく。
僕は若い時分から常にそう感じてきた。
ドゥルーズのレトリックなこの2ページは
今も変わらず感じていることと符合する。

世界は、神が計算しているあいだに、「できあがってくる」。

デカルト=省察=三木清訳

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先日の小泉義之の「デカルト」に関連して。

青空文庫にデカルトの『省察』がある。

三木清訳(岩波文庫版)。

僕はこれを携帯用PDFにしてF906i に入れている。

今のところデカルトの他の著作

(たとえば『方法序説』・『情念論』)

の文庫化はなされてない。

万が一にも(笑)ヒットして当ブログに迷い込み

似たような需要があるお方のために

携帯電話用PDF=デカルト『省察』

置いておきます。

携帯電話で710ページあります。

PANASONIC CF-R8EW6AJR

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薬院で降りて博多駅までバスで行く。

通常は歩くのだが真夏だからねえ。

カメラなし。

ヨドバシ博多に行く。

先週Eee PC 900HA 予約して帰った。

クレジットカードを持っていってなかったので

「ワイヤレスゲート」に加入できなかったのだ。

で、まあ、当然今回はカードを持って、現物を引き取る・・

という手筈なのだが・・そうならなかった。

とりあえず放置して

4階のレストラン街にある「すしおんど」で9皿たべちゃった!

そのあともいちどEee PCをさわり、「放置」を決めた。

(2週間経過するとキャンセルになる)

もともと

うちの近くにマックがあるので気晴らしにネットブック持参で

涼みがてらに遊びをしようと思ったのがきっかけ。

(マックは全店禁煙だしね)

・・・・・

知る人ぞ知る、マイクロソフトの悪しき締め付けで、

どのネットブックも低いスペックで横並び。

(Atom、シングルコア、RAM1G、うんぬん・・)

だけど犠牲を払ってもチャレンジするベンダーがある。

PANASONIC CF-R8EW6AJR

なんかがそれだろう。

ヨドバシではもっぱらそのパナ機を触っていた。

休憩テーブルでケータイに入れていた「ヴィヨンの妻」を読んだ。

天神に出て

ジュンク堂前の「シアトルズベストコーヒー」にチェックを入れた。

ふむふむ、若者が3人PC持ち込んでネットやってる。

(でっかい17インチくらいのを持ち込んでる女の子がいたりする)

ここはFREESPOTという公衆無線LANのスポットなのだ。

・・・・・

自宅に帰りついて、価格コムの最安値ショップに注文を入れた。

パナ機は数日中に着くだろう。

青空文庫の「正義と微笑」をPDFにしてケータイに入れる。

1000ページ近くの大著となった。(笑)

これはこれ。ケータイで太宰を読む。

とてもいい。

ヴィヨンの妻

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松本清張だけじゃない。太宰治も生誕100年なのだそうだ。

今日はITカテゴリーで太宰をメモすることとしよう。

まずは画像を↓

F906i の画像はケータイで『ヴィヨンの妻』。

今では3万円を切るネットブックがある。

それを常時持ち歩いている人には意味はない。

さすれば、以下の方法は

《ケータイ以外は持ちたくない》おかた向けなのだ。

・・・・・

①Wordでのサイズを横50・縦70・余白5

(いずれも単位はmm)とした。

②Acrobat(僕のはver.8)の設定は「プリンタ設定」から。

(すいません。Acrobatを前提としてます。)

「Adobe PDF 設定」タブで、「追加」ボタン。

適当な用紙名でいい。幅と高さ単位は先のWord設定に合わせる。

「追加/変更」ボタン。

これで適当に付けた用紙名が登録される。

(以前似たようなことをやってうまくいかなかった)

③あ、そだ、『ヴィヨンの妻』は青空文庫から。

テキストファイルをD/L。

④f906iにはマイドキュメントに入れる。

「情報更新」をお忘れなく。

拡大300%くらいでほどよく読める。

1Gメモリでも数百篇は入るだろう。

ここにPDF

を置いておきます。Acrobatをもってなくても、Adobe Readerが

開いてくれます。

100%に指定するとケータイサイズであることがわかります。

亀山郁夫の「罪と罰」

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 へーっ、亀山郁夫センセは同い年なんだ。「罪と罰」の新訳がでたようだ。さて「カラマーゾフ」のように売れますか?柳の下にどぜうが何匹もいますかね?(笑)僕は米川正夫訳だった。だけどグリーン版じゃなく、豪華大判で挿絵がはでな・・・。60年代に河出から出た新企画の世界文学全集があったでしょ?(そんなこといわれてもなあ、笑)確かソーニャの似顔絵もついてなかったけ?「カラマーゾフ」と「罪と罰」は米川訳だったが、ムイシキン公爵の「白痴」は小沼文彦訳(新潮文庫)で読んだ。"ドストエフスキーが甦る"という大見出しの亀山センセの全面広告。(朝日)けどさ、いったいどの年齢層が読むの?イマドキの若者が読むの?ちょっと気になるなあ。

ユリイカ

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 青山真治の映画ではなく、雑誌の。以前「枕元」のホンのことを書いたが、思い出したことがある。『ものぐさ精神分析』、『続ものぐさ精神分析』(中公文庫)を「枕元」にしていたことを。学歴詐称でも有名になったりする岸田センセに着目したのは、センセが「ユリイカ」にしばしば登場していたから。ま、昭和の時代ですが。給料は安いくせに、文芸誌をたんまり買っていた。文芸5誌のほか、「現代詩手帖」や「世界」それに「太陽」までも・・・。何考えていたんだろうね。ともかく、岸田センセのくだんのホンは「ユリイカ」などに掲載した雑文(失礼!)を寄せ集めたもの。なつかしい。ところでタイトルの詩誌「ユリイカ」。これをまとめてヤフオクしようと企てたことがある。2、3年前。(未遂)そのとき撮った写真が、HDDに残ってる。30年分かなあ。金子国義の挿絵も見える。Macゲームで『Alice/アリス』ってのがあったよなあ。

正義と微笑

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 文語訳聖書の記事で太宰の「正義と微笑」のことに触れた。昭和の30年代(たぶん)に出た筑摩の全集で読んだ。函から出すと朱色の表紙。ネットでも見あたらない。記事を書いた後のことだが、「青空文庫」で読んだ。なるほど17歳の僕が感動する仕立てになってる。「マタイ傳」もまさに出てくる。 カテゴリー「17歳の頃」の余禄ですな、こうして読み返すなんて。

デミアン

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「ダミアン」じゃなく「デミアン」です。ヘルマン・ヘッセの。

僕たち団塊の世代は高校時代にホンを読んだ世代でもある。

だってバイクもゲームもウォークマンもなかったんだもの。

それどころか下宿にラジオすらなかった。

あまつさえ僕は煙草ができなかった。

・・・・

カテゴリーに「17歳の頃」てのを加えることにした。

たっぷり「ナルチシズム」に浸ろうってわけだ。(笑)

内訌的でブッキッシュな高校生にとって

「デミアン」と「車輪の下」は必読の書であった。

高橋健二訳で読んだ。グリーン版?新潮文庫?

そんなところでしょう。

ほとんど「かぶれた」状況だったようにも思う。

実はこの記事を書く前に「デーミアン」(生野幸吉訳)を

斜め読みした。

懐かしく甘酸っぱく恥ずかしかった・・・

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地上の夜の天使たち