あいだ 記号と事件
事件をとらえることができるのは芸術であって
メディアではない・・・と前置きしてドゥルーズは言う。
ふたつの点のあいだに線があるのではなく、
線が何本も交差したところに点があるわけですからね。
線が一定することはありえないし、点のほうは、
あくまでも線の変曲であるにすぎないのです。
だから当然、重要なのは始まりでも、終わりでもなく、
あいだの部分だということになる。
『記号と事件』(文庫版)
ドゥルーズのこの言は至極もっともだろう。
このことで小津やアントニオーニを参照する、僕の言う
「ドゥルーズの配分」は正当といえます。
映画『氷点』(1966)の詳細についてはWikiしてください。
僕は森光子という女優のことは何も知らないが、
陽子の自殺未遂後の、このシーン。
辰子(森)が後悔する夏枝(若尾)を陰からみている場面だ。
音声もなく、辰子の動きだけで明らかにされるもの。
これが、メディアではとらえられない決定的な結晶であり、
事件(出来事)なのだ。
メディアではない・・・と前置きしてドゥルーズは言う。
ふたつの点のあいだに線があるのではなく、
線が何本も交差したところに点があるわけですからね。
線が一定することはありえないし、点のほうは、
あくまでも線の変曲であるにすぎないのです。
だから当然、重要なのは始まりでも、終わりでもなく、
あいだの部分だということになる。
『記号と事件』(文庫版)
ドゥルーズのこの言は至極もっともだろう。
このことで小津やアントニオーニを参照する、僕の言う
「ドゥルーズの配分」は正当といえます。
映画『氷点』(1966)の詳細についてはWikiしてください。
僕は森光子という女優のことは何も知らないが、
陽子の自殺未遂後の、このシーン。
辰子(森)が後悔する夏枝(若尾)を陰からみている場面だ。
音声もなく、辰子の動きだけで明らかにされるもの。
これが、メディアではとらえられない決定的な結晶であり、
事件(出来事)なのだ。