ニーチェ「反キリスト者」

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ロレンスの『黙示録論』を大晦日に読み終えたその日、
玄関に『ニーチェの言葉』なるホンが届いている。
え?コレ誰の?
わたしが頼んだ、と妻。
ちょっと読ませて、と二階に上がり開く。
2ページ読んで・・ん?なにこれ、と。
オモテを見ると「超訳」とある。
なんだ、こりゃニーチェじゃねえ、と閉じる。
妻には何も言わずに戻す。

いやはや。そんなもんです。
帯には100万部売れたとうたってある。
これがベストセラーになるという現象がおいらには笑える。
あの天神三越で野生動物シャシンでホンを売りまくる
トンデモ写真家と同じだね。(笑)
(同じ会場で犬猫のシリーズがあるそうで。終わってる。)

お得意様がいるから市場(しじょう)が成立する。
人々が求めるのは「市にひさがれるものばかり」と
嘆いた(?)のはヘルダーリンだ。
「市にひさがれるもの」のなんとつまらないことよ!

さてそのニーチェの『反キリスト者』を
ちくま学芸文庫版で読み終える。
パウロに対するうらみつらみは凄いぞ。
ルサンチマンの丸出しだ。迫力がある。
パウロで思い出したが
バプテスト教会に行ってた高校生のころ
高校生グループを仕切るセンセは脳外科の研修医だった。
かれはパウロを「パウロさん」と呼んでいた。
パウロを尊敬していたのだろう。
パウロが並外れた情熱家であることは
高校生の僕にも手にとるようにわかった。

そのパウロ。ロレンス、ニーチェに徹底して断罪される。
(もしくは『ふしぎなキリスト教』においてもね)
「身から出た錆」ということになりますか。
『反キリスト者』は病に倒れる前年ということになる。
ロレンスの場合と重なって感じられる。

福音書のイエスに関する記述が
一応正当なものと仮定してみる。
そしてイエスのふるまいを想像してみる・・
すると僕には、自由で孤独なイエスが浮かび上がる。

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この「悦ばしき音信の報知者」は、彼が生きたごとく、
彼が教えたごとく、死んだのである――「人間を救う」
ためにではなく、いかに生くべきかを示すために。
実践こそ、彼が人類に残したものである。
すなわち、それは、裁判官に対する、捕吏に対する、
告訴人とすべての種類の誹謗や嘲笑に対する彼の態度、
――十字架上での彼の態度である。
彼は反抗せず、おのれの権利を弁護せず、
非道から身をまもる処置をなんらとることもなく、
それどころか、彼はそれをそそのかす・・・
そして彼は、彼に悪をくわえる者たちとともに、
この者たちのうちで、祈り、苦しみ、愛する・・・
防禦せず、立腹せず、責任を負わせず・・そうではなくて
悪人にも反抗せず、――悪人を愛する・・・
ニーチェ『反キリスト者』第34

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そう、イエスは「人間を救う」ために生きたのではない、
と言えるかもしれませんね。

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このページは、が2012年1月16日 10:43に書いたブログ記事です。

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