記号と事件

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教師の実生活が面白いということはまずありえません。
もちろん、旅をすることはあります。ですが、
教師は言葉や経験によって旅費をまかなうわけで、
学術会議や討論会に出席し、いつも、ひっきりなしに
しゃべっていなければならないのです。
知識人は膨大な教養を身につけていて、
どんなことについてでも見解を述べる。
私は知識人ではありません。
すぐに役立つような教養もないし、知識の蓄えも
もちあわせていませんからね。
私が何かを知っているとすれば、
それは当座の仕事の必要上知っているだけなのであって、
何年もたってから過去の仕事にもどってみると、
一切を学びなおさなければならなくなっているほどです。
かくかくしかじかの点について見解も考えももたない
というのはとても気持ちがいい。
私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、
逆に、たいして言うべきこともないのに
意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから
悩んでいるのです。旅をするとは、出かけた先で
何かを言ったかと思うと、また何かを言うために
戻ってくることにすぎない。行ったきり帰ってこないか、
旅先に小屋でも建てて住むのであれば話は別ですけどね。
だから、私はとても旅をする気になれない。
生成変化を乱したくなければ、
動きすぎないようにこころがけなければならないのです。
トインビーの言葉に感銘を受けたことがあります。
「ノマドとは、動かない人たちのことである。
旅立つことを拒むからこそ、彼らはノマドになるのだ」
というのがそれです。
『記号と事件』(河出文庫 P277)

ここは好みの箇所です。
ドゥルーズってヒトは実に謙虚なんですねえ。
うがった詮索なしでつい聞かされる。人徳ですな。

さて、上記のテキスト、
これはテキスト化を「読んde!!ココ 体験版」で試した。
これだけの長さで訂正は1箇所。使えますね。

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このページは、が2011年7月 8日 17:42に書いたブログ記事です。

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