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Results matching “語る” from 新地のドゥルーズ

横尾忠則とポールニューマンのめぐり合い、こんなこともあるのか。(朝日:2024年01月27日)





まあでも読んでみてどってことはないw。それに比して下のはなかなか立派なもんです。700ページ余りもある「大著」。 誇れる書物。全編を読む。



これは昨日から。小津安二郎「浮草」関連で。

3群4枚のテッサー型、されど正体不詳・不明のレンズ。α7sと17-31mmヘリコイド。









開放撮影。最初の黄色いボケは燐家のミカン。クレマチスの絵、意図してケーブルを入れる。セブンでビールのついでにクッキー買う。昨日はダイレックスで大吟醸を買う。買う時の様態は不透明で、熟慮していてもオートマトン。後方はグリーンコープのお魚チップ。

ところで。
数日前のコラム。さだまさしの写真が気になる。二人の表情が自然ではない。ポーズを決めて撮ったセルフポートレートか。
中判カメラ風の背景だがフォーマットはライカ判だよねえ。ライカレンズかな。いい写真ですね。畑背景がすばらしい。拡大画像で字も読めます。ほんのすこし絞ったけどほぼ開放撮影。ヘリコイドは替える。

谷川俊太郎。朝日=語る=人生の贈り物。第10(α7s+GR28mm)と第11(α7R+Kominar105mm)。





このテの「履歴書」をさらす著名人は多い。女性に多い。が、男性にもいるのだ。
正直なところこれにはおおいに驚いた。
だがまて、僕がたんに理解できないということかもしれぬ。

ところで。備忘メモ。コラムには関係ない蛇足。NEX-7にアダプタ+ミノルタAF24-85mmで、上のKominar105mmと同じ構図になるように撮影してみた。三脚。85mmでF8。レンズの違いか、それともダイナミックレンジの違いか。単体レンズ、フルサイズの利点が端的に出る。

谷川俊太郎。朝日=語る=人生の贈り物。続編になります。3回分。







日本経済新聞の『私の履歴書』を思い出した。
言説には必ず根拠がある、と言ったのはフーコーです。
詩人が老境とはいえここまで述懐するのはなかなかのもんです。その必要があるかどうかは別として。
(α7s+summarit 40mm/横撮りを回転)
朝日=語る=人生の贈り物。谷川俊太郎。爺(じじい)を超えたふてぶてしい笑みを見よ。
長辺が2120ありますので、拡大し、勝ち誇ったツラをご覧あれ。w いわば「卒爺」ですな。


(α7s+summarit40mm/横撮りを回転)
2017/12/20 2:22a.m.深夜。ここんところ『現代思想』12月号=人新世を寝物語に読む。
なぜか寝付けない。で、着込んで起きる。エアコンと加湿器を入れる。30分が勝負。エアコンがのどに来る。α7s,NIKONOS35mm=M42改。
3枚撮る。スリッパの先が見えるのがあったのでそれにする。CORONAの左端「省エネセンサー」の文字が流れる。NIKONOSの特徴が知れる絵ですね。



IMEで、ひとしんせい、が一発で出ない。それは今夜の「慰安」だ。
人、新地、世界とタイプしてDELする。(単語登録したくない。w)
フェミニズムばりばりの論攷もある(鼎談「誰が人新世を語ることができるのか」飯田・北野・依田)。そして言わずもがな、ダナ・ハラウェイのナラティブが顔を出す。
もう30分を過ぎようとする。今エアコンを消す。モットンマット(湯たんぽOK)=ベルメゾン・フレーム=ジャパネット羽毛というこれ以上ないシェルターに潜入する。このあと眠れるか。


α7sに市販のLEICA R-NEXアダプタ、純正エクステンダー、カナダライツ製のMCRO ELMARIT-R 60mmF2.8の順につけている。全長はこうです。先日知人からエクステンダーを頂戴したので使ってみようと。MCRO ELMARITであればエクステンドしなくともいいのだが、「超常現象」をしたくてですね。w



「現代思想」は「コミュ障」特集。中に、國分功一郎と千葉雅也の対談があります。ここはラストの部分。意外やヘーゲル、人倫、ディーセンシィ(decency)が出てくる。
30代(千葉)と40代(國分)ですからたのもしい。内容は豊富で、オープンダイアローグ、貴族論、コミュニケーション障害のこと、教育論・・。拡大画像で読めます。上段と下段。





さて。すいません少し自分のこと。僕自身、「コミュ障」を飼いならしつつ生きている。「さ、一緒にやりましょう」は苦手。今をときめくオープンダイアローグ論は傾聴している。オープンは実は垂直方向でもある、そうでなければ意味がない。たとえば僕が自身の病のことをオープンの場で語るとする。それを他者がふむふむと聞く、それだけでも自己に作用する効用がある。しかしそれで終わるはずがない。他者は自分自身の病のことに思いをはせ、自己の奥深い場所に下りてゆく。そこが「ディーセンシィ(decency)」なのだ。
「人倫」とはしたがって「ディーセンシィ(decency)」に関与する。
アイザック・ディネーセンの「ディーセンシィ」を引用した大江健三郎を忘れることができない。『河馬に噛まれる』の最終章にある。僕は当時、直接ディネーセンの原本にあたって確かめた。(昭和60年)
少し長くなるが作中の大江訳で、タイピングします。

バークリー・コールと私とは、私ら仲間うちの言葉で立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)と品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)とをはっきり区別し、私らの知っている者たちを、人間であれ、動物であれ、この原理にしたがって区分けしていた。私らは家畜を立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)に、野生の動物を品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)ととらえた。そして前者の存在と特権は、かれらの共同体(ルビ:コミュニティ)との関係で決定されるけれども、後者は神との直接の接触のうちに立っている、と考えていた。

私らは自分たちを野生の動物の側に登録していた。共同社会つまりは譲渡抵当にサインするほうへ復帰することが、私らにはなしえぬことを悲しく認めながら、しかし周囲による最高の評価をかちとるためですら、神との直接の接触を断念することは、私らに可能でないと確認して。私らが河馬やフラミンゴとわけ持っている神との直接の接触を。
大竹昭子が語る荒木経惟「センチメンタルな旅」。
朝日5/29。PDFにしています。100%固定表示です。



これいいなあ、行きたいなあ。ホテルに花王「リセッシュ」がなければなあ・・。以下は、六本木経済新聞からのキャプです。ごめんなさい。

フレンチセオリー

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「現代思想」というタームに、
フレンチセオリーというルビがふられる。
「現代思想」一月号の2冊の臨時増刊号では歴史的なフランスのセオリーに、いまどのような反応が出来しているのか、を知らされる。
偶然の特集ではなく編集部の意図がある、と思った次第。

「ポスト現代思想としての日本哲学」(檜垣・北野)のなかに、日本人は日本思想と西洋思想の「2階建て構造」に住んでいる、というくだりがあって、思わず苦笑する。
翻訳語(言語の壁)に関するいつもの
雑念が脳裏をよぎる。

ジジェク=『事件』で、鈴木晶は
古池に 蛙が飛び込む ポットン
と芭蕉の句を訳している。

田中美知太郎の括弧内ギリシャ語をみるたびに、ギリシャ語を知らなければ哲学はできない、と引け目とともに過ごした高校生時代。

フーコーは吉本隆明との対談(蓮實重彦もいたが)で、あなたの本が早く翻訳されることを望む、と言っている。
(その吉本は「2階建て」の話題に登場する)

世界中で作品が翻訳されている村上春樹は、翻訳者と会って打ち合わせをやるらしい。(どこまで可能かは不明だが)

1913年に藤田嗣治は渡仏。自分で機織りした「雑衣」を平気に着て、モンパルナスで評判となっていた。いち早く仏語を覚え、語り、溶け込み、フランス世俗をものにする。

「美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている」『批評と臨床』
云々かんぬん・・。

コトバは言語学の構造的な諸問題とは別にその場所にリアリティが立つかどうかが肝だろう。
リアリティが湧き立てば、ポットンでいいし、ポットンでなければならない、とさえいいうる。

日本人が日本語で世界に語る、そんな文化空間が到来するとは考えにくいが。




(α7R,Durst Componon105mm5.6)

 野見山暁治が『文藝春秋』のコラムに藤田嗣治のことを書いている。有名な逸話です。
Wikiで知れるが、野見山暁治は1920年の生まれらしい。95歳だ。

田中小実昌つながりで知った。コミさん自身が、カミサンは野見山暁治の妹だ、なんてことをどこかに書いている。
忘れもしない『ポロポロ』は1979年だから僕はそのころ野見山暁治を知ったのだろうか。絵は石橋美術館で見れる。東京ではどこかの駅でも見れる。
ともかく。『文藝春秋』の記事をPhotoshopPDFにして

ここに

置いてます。2ページあります。

さてと・・。
このハナシを何度もする野見山暁治のことを思った。
藤田嗣治の強烈な残像が刻まれるハナシだが、なぜ何度も話すのだろう?
老いか?
そういいながらも新鮮な気持ちで野見山のハナシに膝を寄せる。僕こそが老いか?
八木一夫(陶芸家)についてはご自身で検索して人となりや作品を知られたし。
これはNHKのアーカイブから。1981年の「日曜美術館」。司馬遼太郎58歳ころか。

①八木は「センティメント」を造形化した。
②陶芸の歴史も「まねし」であるが、彼はどこにも属しないはざまのニンゲンだった。
③純粋哲学の偉い先生です、あ、そうですか、でおしまい。要は自分で考えるひとにならんと・・・うんぬん。
司馬遼太郎の 独壇場です、w。

6分半ありますがどうぞ。
なにかヒントがありそうな・・。
TS抜いちゃって、NHKさんホントにごめんなさい。





 せんに、フェリックス・ガタリの「集合的発話者」のことを記した。その前段を「自炊」しておきます。
「シニフィアンの体系を拒絶なさる埋由はどこにあるのか、答えていただきたいと思います」に応答してガタリが語る場面。

「それは、シニフィアンなんて何の役にもたたないからさ。
そう思っているのはぼくたちだけではないし、ぼくたちがそう言い出したわけでもない。フーコーをみればわかるはずだ。最近出たリオタールの本もそうだし。
ぼくたちのシニフィアン批判がわかりにくいものに見えるとしたら、それはシニフィアン自体がどんなものでも古めかしいエクリチュールの機械に切りFげる散漫で観念的な存在にすぎないからなんだ。
シニフィアンとシニフィエを分かつ排他的で拘束力の強い対立関係には、エクリチュールの機械とともに浮上してくるシニフィアン帝国主義の亡霊がつきまとっている。そうなるとどんなものでも文字に関係づけられてしまう。それこそ専制的超コード化の法則そのものなんだよ。
ぼくたちの仮説はこうだ。暴虐をきわめた専制君主の表徴(エクリチュールの時代)が後退して、そのあとに広野がひらける、そしてこの広野がミニマルな要素群と、要素相互間にはりめぐらされた一定の関係性とに分解される。こう仮定してみれば、暴君のように恐怖政治をおこない、去勢の影をちらつかせる、そんなシニフィアンの性格だけは、すくなくとも説明できるからさ。大規模な帝国につながっていくという意味で、シニフィアンというのはどうしようもない擬古主義だよね。
ぼくたちは、シニフィアンが言語を考えるうえで有効かどうか、それすら疑わしいと思っている。だからこそ、ぼくたちはイエルムスレウのほうに傾斜していったんだ。イエルムスレウは、もうずいぶん前に、内容と表現からなる流れがあって、シニフィアンなしですませることのできる、いわばスピノザ派の言語理論を構築していたわけだからね。つまり内容と表現からなる連続的な流れのシステムとして言語をとらえ、このシステムが、離散的で 非連続な形象を組み合わせた機械状アレンジメントと合致していると考えたわけだ。」

そのあとに「今度の本ではくわしく説明しなかったこと・・・」となるわけです。

絵はα7sにリコーGR28mm(F11相当固定絞り)。知人にゴミを除去していただいた7s。
(上)ピントは正面建物。いや、よく写すレンズだ。7sでこうだからねえ。
(下)ひとりでメシ喰う。茶碗にCubeのインジケータが写り込む。そんなシーンを偏愛する。w

リコーGR28mm抽出

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 「何が見えるかを語っても無駄だ、見えるものは決して語るもののうちには宿らないのだから。」
 (フーコー 『言葉と物』)
改造リコーGR28mm_#2(F11相当)で外出。
一気に鈍色の冬がくる。









Sonnar 85mm f2.0

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 「何が見えるかを語っても無駄だ、見えるものは決して語るもののうちには宿らないのだから。」
 (フーコー 『言葉と物』)
 僕の場合、いま生きているここ(現働の場)での様態にはつねにこのような知のバイアスがあるのだろう。フーコーの知が内在化しているというべきか。実のところ「なんでそうなったのか」というのはヒトには説明できないのが本当のところだ。
 スナップ・街撮り中心の僕が定点観測やテーブルフォトに足場を移した・・ようにもみえる。が、まあこれはひとりごとです。あれこれぬかせば「プチ物語」すなわちレシになる。昨年11月にソニーという誰もが知るメーカーからα7Rというカメラが出た。これは僕に何かが起きるな、と直感したがまさにその通りであった。僕の心身は「外」に対してよくもわるくも率直に反応する。かつて「カメレオン」とか「あじさい」とかのあだ名を頂戴したのも根拠があるわけか。

 α7Rと知人譲りのレンズ個物のアレンジメントが、近頃の僕のシャシン時様態を決定付けている。うーむ。おそらく二桁になるだろう数の個物を得る。それらを用いてα7Rの100パーセント拡大解像力の視覚的で深遠な領域で遊んでいる。レンズ個物は28mmからせいぜい100mm前後までのもの。世に「オールドレンズ」と称されるものばかりだ。
 僕は昔、京セラ=コンタックスG1のSonnar 90mm を使ったことがある。AFが不良だったのか「ピント」を得た実感がまるでなかった。失望の経験しかない。まあ一眼レフでも90mmで開放、至近距離でピントを得るのは難しい。ファインダが優れていてもいざレリーズの段階で体が数センチ揺れるとピントはズレる。その前に本当にピントがきていたのかどうか検証のしようがない。検証用に4つ切りプリントを何十枚もラボに出すということは不可能だ。G1のSonnar 90mm に失望して二束三文で手放した。
 そんなコンプレックスを一挙に吹き飛ばしたのがデジタルの技術だ。フーコーにならって、見えるものを語る無駄を省き100パーセント画像(部分)を見ていただきましょうね。アンチョコな絵ですが。ドキッとしますよ。撮影フレーム全体を横1472ピクセルの拡大画像。次にピント部の100パーセント画像(横7360ピクセルの一部)です。


(α7R/Carl Zeiss Sonnar 1:2 F=85mm/SILKYPIX)


(α7R/Carl Zeiss Sonnar 1:2 F=85mm/SILKYPIX)

 逆さの「Maid in Germany」がピント位置です。下の絵をぜひ拡大してごらんください。鏡胴に横筋の意匠が見えますが、このデザインは個物を手にとっても肉眼では見えません。そんなものも写るのです。ヒトの知覚をやすやすと凌駕します。撮影距離約40cm。1/100秒のシャーッタースピード優先。絞り開放。ISO=160。SILKYPIXで現像。以降の処理はPhotoshopCS5。Web用保存(品質85)。アンシャープマスクなどの加工処理はしていません。
ベラスケスの絵といえば僕の連想では
イノセント10世⇒ベーコンだったり
ラス・メニーナス⇒ピカソだったりする。
フーコー・コレクション3は
「侍女たち」(松浦寿輝訳)からはじまる。
「画家は絵からいくらか身を引いている。
モデルに一瞥をくれてるところだ。
仕上げの一筆を加えようとしているところかも
しれないが、まだ最初の一筆すら置かれていない
ということもありうる。」(p10)

ベラスケスのラス・メニーナスの絵の中に
入ったかのようにも始まる。
謎解きの興味もつかのま、すぐに退屈になった。
僕は不調なのかもしれない。
「言語と絵画は、一方が他へと相互が還元し合うことが
不可能なのである。何が見えるかを語っても無駄だ。
見えるものは決して語るもののうちには
宿らないからだ。」(p24)


(EOS5DMK2/16-35mm F2.8)

フーコーの「権力」

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フーコー・コレクション5
「10自由の実践としての自己への配慮」P316-317
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私は権力という言葉をあまり使いませんし、
ときどき使うときがあっても、それは「権力の諸関係」
という私がいつも使う表現を短くしただけのことです。
それにしても次のような既成の図式がありますね。
権力が語られるとき、ひとはすぐさま政治的な構造、
政府、支配的な社会階級、奴隷にたいする主人などの
ことを考えてしまいます。
私が権力の諸関係について語るとき考えているのは、
そういうことではありません。私が言いたいのは、
さまざまな人間関係において―それは
今しているような言語的なコミュニケーションであろうと、
恋愛関係であろうと、
制度的または経済的な関係であろうと―、
どのような人間関係においても、
権力はつねにそこにある、ということなのです。
つまり、一方が他方の行動を指揮しようとする
ような関係があるということです。
だからさまざまなレベルで、さまざまな形式において、
権力の諸関係を見いだすことができます。
権力の諸関係は可動的なものです。
つまりそれは変わりうるものであり、
一度に決定的に与えられてしまうような
ものではありません。
たとえば私が年上なので、
はじめあなたは怖気付いていたとしますね。
会話が進むにつれて関係が逆転し、
今度は私のほうが、年下の人間を前にしている
というまさにそのことに怖気付いてしまうこと
だってあるのです。
だから、こうした権力の諸関係は可動的、可逆的であり、
不安定なものです。
さらに、主体が自由であるかぎりにおいて、
権力の関係がありうるのだということも
指摘しておかなければなりません。
二人のうちどちらかが他方に完全に掌握されて
しまい、彼の物に、つまり彼が無限で際限のない
暴力を行使できる対象になってしまったとしたら、
権力の諸関係はありません。
したがって権力の関係が行使されるためには、
双方に少なくともある形の自由がなくては
なりません。権力の関係が完全に均衡を欠いていて、
一方が他方にたいしてすべての権力を
握っていると本当に言えるようなときでさえ、
権力が他方に行使されうるのは、この人がまだ
殺し合う可能性を持っているかぎりにおいて、
つまり窓から飛び降りたり、相手を殺してしまう
可能性が残っているかぎりにおいてなのです。
つまり、権力の諸関係においては、
かならず抵抗の可能性があります。
抵抗の可能性―暴力的な抵抗、逃走や策略による抵抗、
状況を逆転させる戦略など―がなかったとしたら、
権力の諸関係はまったくありえません。

//////////////////////////////
500ページもある分厚いアナイス・ニンの日記を
結局最後まで読み終えてしまった。

私が日記を書くのは、この世でもっとも
掴みどころのない人物を、何とか解明するための
努力なのだと思い至る。その人物、すなわち、私は、
自分の探索を巧みにかわす。自分の嘘もすべては
白状しない。そんなことをしていたら、時間はいくら
あっても足りない。この私という人物は、とても書き
切れるものではない。考える筋道は、際限もなく
分かれていくんだから。
アナイス・ニン『インセスト』(P159)

上記の箇所は1933年、狂乱のような日々の中での記録だ。
ヘンリー・ミラー、アントナン・アルトー、
インセスト本人の父、オットー・ランク・・
「忠臣蔵」のオールキャストのようだ。(失礼!)
自己について語るときは常に矛盾がつきまとう。
「際限もなく分かれる」とはそういうことだ。
嘘つきのパラドックスにさらされるのだ。

アナイス・ニンは愛(性愛)に飢え、男たちに優しく、
しかし愛の鎖よりはなにより自立を求めた・・

ホン読みに疲れて、起き上がる。
手元のEOSMK2/EF16-35mmで動画。
楽だなあ。なにもしなくてキレイな動画が撮れる。
現代カメラ+現代レンズはこうも優秀なのだ。(笑)



アナイス・ニンを読んでいる。
『インセスト』無削除版。(杉崎和子訳 2008 彩流社)



(NEX-7/アンジェニュー 17-68mm TYPE L1)

自己を語ることに執着すれば、
究極はこういうことになります・・
しかし、
出来事は「アイオーン」であり、日記といえども
現実そのものは取り逃がすしかありません。
過剰なレトリックがあるのかもしれない。
事実かどうかはこのさい重要なことではない、
とも言えるでしょう。

生涯にわたって日記で自己言及をし続けた女性。
独特で、似た女性を思い浮かべるのはちょっと難しい。
精神分析の「症例」としてはありえるか。
フロイトとユングの間にいたザビーナ・・のような。
実際に、アナイスはオットー・ランクの分析を受け、
彼とのあいだに「関係」もあった。

アナイスの「過剰」や「横溢」それに「確信」には
常軌を逸するものがあり、精神分析的な
アプローチができるものだと考えられる。
思えばアナイスは僕たちに分け持たれたものでもある。
僕たちもまた彼女に分有される存在なのだ。
私たちは身体と精神について何も知らない、と
改めて観念することになる。
そそられる箇所は多いものの、
冗長で少々退屈することも否めない。
でもまあ、すごい。(笑)

文化や時代の違いもありましょうが、
なによりあれらは「生来」のものです。
個体の身体や情動にかかわる運命、事件です。
そうアナイス・ニンの血と骨です。

僕はフィッツジェラルド=ギャツビーのような
馬鹿騒ぎ・空騒ぎ系が苦手なのだ。
「残余」もへったくれもない空虚な後味の悪さが
いやでしてね。何かが損なわれる。
『インセスト』もそうだと決め付けるわけではないが、
どうかなあ、僕は途中でやめるかもしれない。
と、そういいつつも
最後まで付き合う勢いではあるのだ・・。

西瓜糖の日々

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30歳くらいの「わたし」が
住んでる土地「アイデス」、友達の「チャーリー」、
両親を食べてしまった「虎たちのこと」など24の項目(?)に
ついて「あなた」に語る・・そういう書割になっている。
それがブローティガンの『西瓜糖の日々』(藤本和子訳)。
絶版になってたものが今世紀になって復刻される。
そんなわけで図書館にも文庫はないのでしょう。
(以下『西瓜糖』と省略します)

『西瓜糖』は『ドゥルーズ/ガタリの現在』所収のサドッホの論攷、
「言語の流体力学-指令語の射程について」で知った。
そこには「ブローティガン効果」とあった。
『西瓜糖』をジュンク堂で読んでしまおうと目論む。
だけど54ページからの「算数」に少し触れて、
購うことに決した。
物語は「夢」とみていい。
しかしそれはそのとき『夢分析』(新宮一成 岩波新書)を
一緒に購って同時進行で読んだ僕の勝手な解釈ともいえる。

虎たちは「わたし」の両親を食ってしまう。
9歳の時だ。

「おまえの親たちを殺して食べてしまったことについては、
心からすまないと思っているんだよ。でも、わかってほしい。
おれたち虎は悪ではないのだ。ただ、こうしなければならないのだ」
「わかったよ」とわたしはいった。
「算数おしえてくれてありがとう」
「なんのなんの」虎たちは行ってしまった。

両親を食われた虎に算数(九九)を教わるわたし・・
なんという拡散か。これは現働的な様態ではない。夢だ。
さて。昨日のこと。
たまたまNHK-BSで(ワールドニュースのようだった)
子供が枯葉を食べる場面を目撃した。
食料がなく、枯葉を揉んで食べている。
その深刻さを報じた後、「次です」とキャスターは転じた。
「次」はエリザベス女王在位60年記念とやらの
豪華で晴れやかなニュースであった。
夢であってほしいが、こちらは現実的な様態である。
虎:算数=飢餓:記念祝典
僕の目の前で並列に展開されたふたつのことがら。
虎:算数より飢餓:記念祝典の対比のほうがすごい。
酷薄さにおいては、小説よりメディアの方が強度がある。



(NEX-7/ ヘクトール 28mm/ Hektor 2,8cm 1:6,3)

相米慎二『台風クラブ』

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ついにきたか。『台風クラブ』。ch239。
昨夜の初回放映を録画する。
三浦友和がゲストでエピソードを語る。

相米監督との出会いで自分が変わったこと。
最初、何だこの本は?と思ったということ。
ミスキャストだ、依頼は断ろうと思う。
が、その前に何で自分を選んだか監督に聞こうと、
小さな飲み屋で会ったそうだ。
相米慎二いわく「夢でみた」。

結果は承諾して出ることになる。
それはきっと正解だったと僕は思う。
あれで三浦友和の存在感を示した。

劇場で3度観た。その3度目は
エンドロールでBARBEE BOYS(バービーボーイズ)の
『暗闇でDANCE』など、使用曲をいそいでメモった。
『DANCE』は当時勤めていた学校で生徒に尋ねると、
すぐに彼がもってるCDを貸してくれた。
まあなつかしい思い出だ。

相米慎二の『台風クラブ』(1985)については
認知度は高いので、ここでどうこう言うことはない。
何回かに分けて自分のために
(僕がそのシーンを見たいときの引き出し、として)
印象的な箇所を登記しておく。

P.J. & COOL RUNNINGS の
『CHILDREN OF THE WORLD』が流れる
この長まわしの場面も印象が強い。
ヒトはこのように行動する。
情動とはこのように身体と並行=一体のものだ。
子供たちの情動は道徳に支配されない。
子供たちはむしろ、ワタシはこう、と
突如降ってきた倫理に触発されて運動する。
         
       

今日のパセアルセ

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今日のパセアルセ(pasearse)

いつもの土手を歩き始めるが、
道に毛虫がうようよ。踏み潰されたのも多い。
ウラジロの葉を喰う虫がいる。
ここは今日は歩けない、と思う。
多くの人は気にするふうでもなく歩いている。
だが僕は毛虫アレルギー。よって踵を返す。

さて。そこから思いをめぐらせる。
もともと「散歩」には作用者と受動者の閾はない。
僕のイメージは毛虫に占められ、咄嗟に向きを変える。
そういうことだろう。
イメージ(イマージュ)の中で僕は作用者でもあり、
受動者でもある。そこでの主体(僕)は、主体としての
判断をして、身体は歩きの方向を転換する。

イメージの中で主体を獲得している。
主体の中に散歩のイメージがあり、それに呼応して
身体が運動しているの「ではない」。
この日の散歩の途上に生起した事実は、それを物語る。

同時に次のことが言えよう。
身体と精神が並行して運動していることである。
身体、についてはおわかりでしょう。
このからだ、形相です。
スピノザ的に言えば「身体の観念」が及ぶ形相、
ということかな。
精神は、まあ、観念でもいいし、思惟でもいいでしょう。
ここで厳密にすることはない。
だからイメージ、でもいい。

ふたつめ。
身体は表象されるもの、身体として刻印されたもの、
とスピノザはいうが
僕は非十全だから少し違うように感じるのです。
身体には秘密がある。精神にも秘密がある。
身体の秘密はまず身体によって隠されている。
また身体の秘密は精神によっても隠されている。
同じように、
精神の秘密はまず精神によって隠されている。
また精神の秘密は身体によっても隠されている。
そのように思う。
さまざまな属性には秘密のにおいがする。
パラドキシカルな継起、変様もそうだ。
そのような結節点において自己の構成を果たしている。

みっつめ。よってパセアルセは
オートマトンのある種の概念と似るかもしれない。
定かではない。
「十全な観念」(スピノザ)をもてないから、
秘密の匂いに今日も惑うのだろうか。(笑)
仕方ない。それが実情ですから。
「内在の平面」とドゥルーズがいうものが
ここでも稼動していることは間違いない。

(注)パセアルセは、ジョルジョ・アガンベンが
『絶対的内在』の中でスピノザにある概念として
示したもの。「自分を散歩につれてゆく」。

スピノザ 自己の構成

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ドゥルーズのスピノザへの入れ込みは相当なものだ。
ニーチェ、カフカ、さらにはフーコー、思えば彼らの死は、
みな「普通の死」(老衰とかの)とは差異をもつ死だ。
そんなフィギュアの肩を持つのがドゥルーズなのだ。
さて、パセアルセ、オートポイエーシス、思考イメージ、
これらは「外在的」とはいいがたい。
外部から到来するものがあるが、
「内在」とのアレンジメントで構成されるものだろう。
だが、「自己構成」とはいったいなんだろう?
アガンベンの『絶対的内在』にことは詳しく説かれているようにも
思える。だがここはアガンベンの元にもなるスピノザを
ドゥルーズを介してみてみよう。ただし以下のテキストには
スピノザの『エチカ』そのものの引用があり、
しかも境界が不分明であるゆえ、諸氏は『エチカ』それをも
索引する必要があることを念のため申し添えます。
ドゥルーズが特異の「概念」を用いず、こんなふうに
哲学を語る。もっともそれは『エチカ』に負う、と僕は思う。
以下はドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』より。
///////////////////////////

 ところがアダムは原因について無知なために、
神はただたんにその木の実を摂取すればどういう結果になるかを
彼に啓示しているにすぎないのに、
神が道徳的になにかを禁じているものと思いこんでしまうのだ。
スピノザが何度もくりかえしこれを例としてあげるのは、
一般に私たちが(悪)〔悪しきこと〕としてとらえている現象は、
病いや死も含めて、すべてがこのタイプの現象、
いいかえれば悪しき出会い、一種の消化不良、食あたり、
中毒であり、つまりは構成関係の分解にほかならないからである。

 ともあれ〔たとえ身体と毒が結合するような場合であっても〕
つねにそこには、全自然の永遠の法則に従い、
それぞれの秩序に応じて複合・合一をとげる各個の
構成関係のすがたがある。そこには(善)も〈悪)もない。
〔場合に応じた個々の具体的な〕 いい・わるいがあるだけだ。
「善悪のかなたに〔・・・〕、とはいってもそれは(いい)
(わるい)のかなたにということではない」。
(いい)とは、ある体がこの私たちの身体と直接的に構成関係の
合一をみて、その力能の一部もしくは全部が
私たち自身の力能を増大させるような、
たとえばある食物〔糧となるもの〕と出会う場合のことである。
私たちにとって(わるい)とは、
ある体がこの私たちの身体の構成関係を分解し、
その部分と結合はしても私たち自身の本質に対応するそれとは
別の構成関係のもとにはいっていってしまうような、
たとえば血液の組織を破壊する毒と出会う場合のことである。
したがっていい・わるいは、第一にまずこの私たちに合うもの、
合わないものという客体的な、
しかしあくまでも相対的で部分的な意味をもっている。
また、そこからいい・わるいはその第二の意味として、
当の人間自身の生の二つのタイプ、二つのありようを
形容する主体的・様態的な意味ももつようになる。
いい(自由である、思慮分別がある、強さをもつ)といわれるのは、
自分のできるかぎり出会いを組織立て、みずからの本性と
合うものと結び、みずからの構成関係がそれと結合可能な
他の構成関係と組み合わさるよう努めることによって、
自己の力能を増大させようとする人間だろう。
(よさ)とは活力、力能の問題であり、
各個の力能をどうやってひとつに合わせてゆくかという問題だから
である。
わるい(隷従している、弱い、分別がない)といわれるのは、
ただ行き当たりばったりに出会いを生き、
その結果を受けとめるばかりで、
それが裏目にでたり自身の無力を思い知らされるたびに、
嘆いたりうらんだりしている人間だろう。
いつも強引に、あるいは小手先でなんとか切り抜けられると考えて、
相手もかまわず、それがどんな構成関係のもとにあるかも
おかまいなしに、ただやみくもに出会いをかさねていては、
どうしていい出会いを多くし、わるい出会いを少なくしてゆくことが
できるだろうか。
どうして罪責感でおのれを破壊したり、怨恨の念で他を破壊し、
自身の無力感、自身の隷属、自身の病、自身の消化不良、
自身の毒素や害毒をまき散らして
その輪を広げずにいられるだろうか。
ひとはもう自分でも自分が
わからなくなってしまうことさえあるのである。

 かくて〈エチカ〉〔生態の倫理〕が、
〈モラル〉〔道徳〕にとって代わる。
道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして
生のありようをとらえるのに対して、
これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、
それをタイプとしてとらえる類型理解の方法である。
道徳とは神の裁き〔判断〕であり、
〈審判〉の体制にほかならないが、
〈エチカ〉はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。
価値の対立(道徳的善悪) に、生のありようそれ自体の質的な差異
(〈いい〉〈わるい〉)がとって代わるのである。
こうした道徳的価値の錯覚は、意識の錯覚と軌を一にしている。
そもそも意識は無知であり、
原因や法則はもちろん各個の構成関係や
その合一・形成についても何ひとつ知らず、
ただその結果を待つこと、
結果を手にすることに甘んじているために、
まるで自然というものがわかっていない。
ところが、理解していなければ、
それだけで簡単にものごとは道徳と化す。
法則にしても、それを私たちが理解していなければ
たちまち道徳的な「……すべし」というかたちをとって
現れてくることは明白である。
三数法(比例関係a:b=c:dの三つの数値から
第四項をd=bXc÷aで求める計算法)も、
その法則を理解していなければ、
私たちはただたんにそれを適用し、義務として遵守するにすぎず、
そうすべきだからするというだけになってしまう。
アダムの場合も、その間題の木の実と出会えば
自分の身体がどうなるかという構成関係の法則を
理解していないから、神のことばを
禁止命令として受けとるのである。
ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』 第2章 (鈴木雅大訳)

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「自同律の不快」は大江健三郎の朝日=文芸時評で
知る。90年代初頭と思う。
時評は単行本にもなったが、自分の書架にさがせない。
たしか司馬遼太郎か五木寛之かそこいらを批判していたと思う。
根拠になったのが「自同律の不快」。

つまりはそれは「主体」=「視点」が不動で
自己同一化に向けた策、回収の為の自己模倣・・
そんなときにでてくる感情だろう。
それは「不快」でしょう、と思ったものだ。


ベルクソンの円錐で、先端Sの「様態」は、
常に差異をともない出現するものでしょう。
これに対して、
「自同律の不快」はSを疑似的=意図的に固定させて
作家が安定的な主語=定点として物語ることにある、
とでもいいうるだろうか?
「記憶」と「自同律の不快」を30代から思い続けてきて
いままた、ドゥルーズ周辺を読むことで改めて考える。

大江健三郎といえば、3月11日の震災に関連して、
「ニューヨカー」に寄稿してます。ググれば読めます。
文中「記憶」という術語が現働の有効なバネとして、
用いられている。

-その人たちの記憶があることによって、
政治的現実主義の名のもとに
核兵器の破壊力を軽んじることができません。-
and their memory prevents us
from minimizing the pernicious nature
of nuclear weaponry in the name of political realism.

もうひとつ大江健三郎について思い続けてきたこと。
20年くらい前でしょうか、小説をやめる、と宣言しました。
で、スピノザを読む、と。
ふむふむなるほどと当時思ったものです。
その後小説のほうは再開したようですが
スピノザのほうはどうなったのでしょうね。
生活のなかに実践的に導入してるのでしょうね、きっと。

カフカとの対話

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「では老年が、あらゆる幸福の可能性を締め出すのですね」
「そうではない。幸福が老年を締め出すのです」
彼は微笑みを浮かべながら、
すくめた両肩の間に埋めようとでもするように、
頭を前に傾けた。
「美しいものを見る能力を保っていれば、人は老いぬものです」
グスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』(吉田仙太郎訳)
(組画像あり)


どういう経緯か知らぬが
国見高校で除籍され、寄贈されたもの。
こちらも借り手は少ない。
10年ぶりの外泊だ。

ドゥルーズは言う。
「書くとは、みずからの思い出、旅、愛や喪、
夢だのファンタスムだのを物語ることではない」

が、たとえドゥルーズにそう難詰されようとも、
人はそれらのものを書き綴る。
もとよりそうすることが、眠る、食べると同じように、
人に欲望されているからにほかならない。

浮遊するシニフィアン

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福岡の人にはなじみの風景でしょう。
国体道路の春吉・南新地あたりに
「ウコンの力」がある。
バス窓から見る3枚。
もっとも画角はそれぞれ違う。
16-35の試し刷り、です。







こんなサムネールほどの絵でも
バス窓の反射・映り込みがハッキリわかる。
さて、そんなときフィルタは?・・フードは?と
アナタ、おっしゃいません?(笑)

フィルタを使って「効果」を出すならば
それを使わないのも「効果」であるわけですよね。
ぼくはこれが好きなのです。

ドゥルーズが構造について語るなかに、
空虚な桝目の循環による効果、というのがある。
バス窓の映り込みを排除する狙いは「効果」です。
それはまさに浮遊するシニフィアンです。
それ自体がまた移動します。
いわくゼロ価、国王の位置、です。
(『意味の論理学』第11セリー 小泉義之訳)

もちろん僕の方法・好みだってミメーシスだし
クリシェを免れえません。
でもね、
その場合でも、現実にはつねに差異の線が出るし
トポロジーの形状は変化します。
定型的な技法にかまけて
かえって愉しむ瞬間を奪われる、それが
僕には不都合なんです・・。審美的じゃないんです。

シネマ1 運動イメージ

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ドゥルーズの「シネマ」につては
「シネマ2」の後に「シネマ1」が訳された2008年暮れの
「現代思想」12月号に詳細が知れる。
それぞれの翻訳者の対談が組まれてある。
宇野邦一と財津理は当然のことながら
「シネマ」がどれほど重要なテキストであるかを
熱意・強度を駆使して語る。
(と、僕には思える)

県立図書館から僕が住まう市の図書館に回してもらい
「シネマ1」を恣意的に選択して読む。
順序は第9章「行動イメージ-大形式」
第6章「感情イメージ 顔とクロースアップ」
弟12章「行動イメージの危機」
ついで第1章「運動に関する諸テーゼ」と
第2章「フレームとショット、フレーミングとデクパージュ」だ。
貸し出し期間は2週間なので、こんなところか。

さて、それほど重要なテキストなのか?
悪いが僕はそれほど「感じなかった」。
テメー、数章読んだだけで、ぬかすな!
ま、そういわれてもいたしかたない。(笑)
でも、そうなのだ。
そう言いつつ期間延長したりしてね。
「シネマ2 時間イメージ」も借りたりするかもしれない。
ま、もう少しは生きていたい。(笑)

今日はウチの近くのマックで
涼みがてらワイヤレスゲートをしているが、
エアコンが省エネでぬるい。
汗ばむほど。
熱入れて言うほどのことはないけど。

あ、そうだ。
「シネマ」はドゥルーズが言及するフィルムを見なくても読める、
と、どこかで誰かが書いていた。
けれど、まあできればシナプシスだけでも・・が人情だろう。
現代はyoutubeがあるからいいよねえ。
グリフィスの「イントレランス」だってちゃんとある。
原題で検索かけるといい。
いい時代だ。

緒形拳

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「俳優~脚本家・池端俊策が見つめた緒形拳~」をみる。NHK広島放送局制作の「帽子」の現場を通して池端俊策が緒形拳を語る(偲ぶ)という流れ。役者冥利ですなあ。役者って、いつまでも「現役」でシゴトしたいだろうねえ。痛い、といえば痛いよね。
そしてどんなに惜しまれた俳優でもガンには勝てない。けれどこの番組をみるかぎり緒形拳にパラノ・ドライブ特有の切羽詰まったところは少しも感じられなかった。↓下の絵は「打ち上げ」に集まった時の素顔だ。このあとカレは「じゃ、さよなら・・」とスタッフらに言い残してその場を後にする。「お別れ式」の写真はまるでユニクロのモデルみたいにクールなスーツ姿だった。

ワルラス均衡

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 学生時代のことだが、プリンストン帰りの教授から「ワルラス均衡」やら 「パレート最適」やらの講義を受けたとき、 「ほんとにそうなんだろうか?」と半信半疑だった。経済全体を見渡すメタレベルで、神の手が動き、均衡や最適をもたらす・・腑に落ちない気持ちがした。だけど僕の小さなアタマで反論なんてできっこない。(笑) 今思うにこれは、若いころ言語について言語で語るしかない矛盾を感じたことと同軸の居心地の悪さだった。
 自己を語る困難性は 自己を語るためのメタレベルが存在しない、ということに由来する。言語は実は自己を明かせないでいるのに自己を明かさないでは生きてゆけない。不問に付さないで済ませる「自己」などありえないのに言語は、コトバは、自己を語る十分なツールたりえてない・・こんな考えは高校時代からの僕の重大な悩みだった。

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地上の夜の天使たち