フーコーの「権力」

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フーコー・コレクション5
「10自由の実践としての自己への配慮」P316-317
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私は権力という言葉をあまり使いませんし、
ときどき使うときがあっても、それは「権力の諸関係」
という私がいつも使う表現を短くしただけのことです。
それにしても次のような既成の図式がありますね。
権力が語られるとき、ひとはすぐさま政治的な構造、
政府、支配的な社会階級、奴隷にたいする主人などの
ことを考えてしまいます。
私が権力の諸関係について語るとき考えているのは、
そういうことではありません。私が言いたいのは、
さまざまな人間関係において―それは
今しているような言語的なコミュニケーションであろうと、
恋愛関係であろうと、
制度的または経済的な関係であろうと―、
どのような人間関係においても、
権力はつねにそこにある、ということなのです。
つまり、一方が他方の行動を指揮しようとする
ような関係があるということです。
だからさまざまなレベルで、さまざまな形式において、
権力の諸関係を見いだすことができます。
権力の諸関係は可動的なものです。
つまりそれは変わりうるものであり、
一度に決定的に与えられてしまうような
ものではありません。
たとえば私が年上なので、
はじめあなたは怖気付いていたとしますね。
会話が進むにつれて関係が逆転し、
今度は私のほうが、年下の人間を前にしている
というまさにそのことに怖気付いてしまうこと
だってあるのです。
だから、こうした権力の諸関係は可動的、可逆的であり、
不安定なものです。
さらに、主体が自由であるかぎりにおいて、
権力の関係がありうるのだということも
指摘しておかなければなりません。
二人のうちどちらかが他方に完全に掌握されて
しまい、彼の物に、つまり彼が無限で際限のない
暴力を行使できる対象になってしまったとしたら、
権力の諸関係はありません。
したがって権力の関係が行使されるためには、
双方に少なくともある形の自由がなくては
なりません。権力の関係が完全に均衡を欠いていて、
一方が他方にたいしてすべての権力を
握っていると本当に言えるようなときでさえ、
権力が他方に行使されうるのは、この人がまだ
殺し合う可能性を持っているかぎりにおいて、
つまり窓から飛び降りたり、相手を殺してしまう
可能性が残っているかぎりにおいてなのです。
つまり、権力の諸関係においては、
かならず抵抗の可能性があります。
抵抗の可能性―暴力的な抵抗、逃走や策略による抵抗、
状況を逆転させる戦略など―がなかったとしたら、
権力の諸関係はまったくありえません。

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このページは、が2012年12月25日 20:36に書いたブログ記事です。

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