スピノザ 自己の構成

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ドゥルーズのスピノザへの入れ込みは相当なものだ。
ニーチェ、カフカ、さらにはフーコー、思えば彼らの死は、
みな「普通の死」(老衰とかの)とは差異をもつ死だ。
そんなフィギュアの肩を持つのがドゥルーズなのだ。
さて、パセアルセ、オートポイエーシス、思考イメージ、
これらは「外在的」とはいいがたい。
外部から到来するものがあるが、
「内在」とのアレンジメントで構成されるものだろう。
だが、「自己構成」とはいったいなんだろう?
アガンベンの『絶対的内在』にことは詳しく説かれているようにも
思える。だがここはアガンベンの元にもなるスピノザを
ドゥルーズを介してみてみよう。ただし以下のテキストには
スピノザの『エチカ』そのものの引用があり、
しかも境界が不分明であるゆえ、諸氏は『エチカ』それをも
索引する必要があることを念のため申し添えます。
ドゥルーズが特異の「概念」を用いず、こんなふうに
哲学を語る。もっともそれは『エチカ』に負う、と僕は思う。
以下はドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』より。
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 ところがアダムは原因について無知なために、
神はただたんにその木の実を摂取すればどういう結果になるかを
彼に啓示しているにすぎないのに、
神が道徳的になにかを禁じているものと思いこんでしまうのだ。
スピノザが何度もくりかえしこれを例としてあげるのは、
一般に私たちが(悪)〔悪しきこと〕としてとらえている現象は、
病いや死も含めて、すべてがこのタイプの現象、
いいかえれば悪しき出会い、一種の消化不良、食あたり、
中毒であり、つまりは構成関係の分解にほかならないからである。

 ともあれ〔たとえ身体と毒が結合するような場合であっても〕
つねにそこには、全自然の永遠の法則に従い、
それぞれの秩序に応じて複合・合一をとげる各個の
構成関係のすがたがある。そこには(善)も〈悪)もない。
〔場合に応じた個々の具体的な〕 いい・わるいがあるだけだ。
「善悪のかなたに〔・・・〕、とはいってもそれは(いい)
(わるい)のかなたにということではない」。
(いい)とは、ある体がこの私たちの身体と直接的に構成関係の
合一をみて、その力能の一部もしくは全部が
私たち自身の力能を増大させるような、
たとえばある食物〔糧となるもの〕と出会う場合のことである。
私たちにとって(わるい)とは、
ある体がこの私たちの身体の構成関係を分解し、
その部分と結合はしても私たち自身の本質に対応するそれとは
別の構成関係のもとにはいっていってしまうような、
たとえば血液の組織を破壊する毒と出会う場合のことである。
したがっていい・わるいは、第一にまずこの私たちに合うもの、
合わないものという客体的な、
しかしあくまでも相対的で部分的な意味をもっている。
また、そこからいい・わるいはその第二の意味として、
当の人間自身の生の二つのタイプ、二つのありようを
形容する主体的・様態的な意味ももつようになる。
いい(自由である、思慮分別がある、強さをもつ)といわれるのは、
自分のできるかぎり出会いを組織立て、みずからの本性と
合うものと結び、みずからの構成関係がそれと結合可能な
他の構成関係と組み合わさるよう努めることによって、
自己の力能を増大させようとする人間だろう。
(よさ)とは活力、力能の問題であり、
各個の力能をどうやってひとつに合わせてゆくかという問題だから
である。
わるい(隷従している、弱い、分別がない)といわれるのは、
ただ行き当たりばったりに出会いを生き、
その結果を受けとめるばかりで、
それが裏目にでたり自身の無力を思い知らされるたびに、
嘆いたりうらんだりしている人間だろう。
いつも強引に、あるいは小手先でなんとか切り抜けられると考えて、
相手もかまわず、それがどんな構成関係のもとにあるかも
おかまいなしに、ただやみくもに出会いをかさねていては、
どうしていい出会いを多くし、わるい出会いを少なくしてゆくことが
できるだろうか。
どうして罪責感でおのれを破壊したり、怨恨の念で他を破壊し、
自身の無力感、自身の隷属、自身の病、自身の消化不良、
自身の毒素や害毒をまき散らして
その輪を広げずにいられるだろうか。
ひとはもう自分でも自分が
わからなくなってしまうことさえあるのである。

 かくて〈エチカ〉〔生態の倫理〕が、
〈モラル〉〔道徳〕にとって代わる。
道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして
生のありようをとらえるのに対して、
これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、
それをタイプとしてとらえる類型理解の方法である。
道徳とは神の裁き〔判断〕であり、
〈審判〉の体制にほかならないが、
〈エチカ〉はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。
価値の対立(道徳的善悪) に、生のありようそれ自体の質的な差異
(〈いい〉〈わるい〉)がとって代わるのである。
こうした道徳的価値の錯覚は、意識の錯覚と軌を一にしている。
そもそも意識は無知であり、
原因や法則はもちろん各個の構成関係や
その合一・形成についても何ひとつ知らず、
ただその結果を待つこと、
結果を手にすることに甘んじているために、
まるで自然というものがわかっていない。
ところが、理解していなければ、
それだけで簡単にものごとは道徳と化す。
法則にしても、それを私たちが理解していなければ
たちまち道徳的な「……すべし」というかたちをとって
現れてくることは明白である。
三数法(比例関係a:b=c:dの三つの数値から
第四項をd=bXc÷aで求める計算法)も、
その法則を理解していなければ、
私たちはただたんにそれを適用し、義務として遵守するにすぎず、
そうすべきだからするというだけになってしまう。
アダムの場合も、その間題の木の実と出会えば
自分の身体がどうなるかという構成関係の法則を
理解していないから、神のことばを
禁止命令として受けとるのである。
ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』 第2章 (鈴木雅大訳)

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このページは、が2011年8月14日 12:23に書いたブログ記事です。

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