シネマ1 運動イメージ
ドゥルーズの「シネマ」につては
「シネマ2」の後に「シネマ1」が訳された2008年暮れの
「現代思想」12月号に詳細が知れる。
それぞれの翻訳者の対談が組まれてある。
宇野邦一と財津理は当然のことながら
「シネマ」がどれほど重要なテキストであるかを
熱意・強度を駆使して語る。
(と、僕には思える)
県立図書館から僕が住まう市の図書館に回してもらい
「シネマ1」を恣意的に選択して読む。
順序は第9章「行動イメージ-大形式」
第6章「感情イメージ 顔とクロースアップ」
弟12章「行動イメージの危機」
ついで第1章「運動に関する諸テーゼ」と
第2章「フレームとショット、フレーミングとデクパージュ」だ。
貸し出し期間は2週間なので、こんなところか。
さて、それほど重要なテキストなのか?
悪いが僕はそれほど「感じなかった」。
テメー、数章読んだだけで、ぬかすな!
ま、そういわれてもいたしかたない。(笑)
でも、そうなのだ。
そう言いつつ期間延長したりしてね。
「シネマ2 時間イメージ」も借りたりするかもしれない。
ま、もう少しは生きていたい。(笑)
今日はウチの近くのマックで
涼みがてらワイヤレスゲートをしているが、
エアコンが省エネでぬるい。
汗ばむほど。
熱入れて言うほどのことはないけど。
あ、そうだ。
「シネマ」はドゥルーズが言及するフィルムを見なくても読める、
と、どこかで誰かが書いていた。
けれど、まあできればシナプシスだけでも・・が人情だろう。
現代はyoutubeがあるからいいよねえ。
グリフィスの「イントレランス」だってちゃんとある。
原題で検索かけるといい。
いい時代だ。