" href="http://hisaaki.net/mt/cgi-bin/mt-search.cgi?search=%E3%81%B2%E3%81%A8&Template=feed&IncludeBlogs=2" />

Results matching “ひと” from 新地のドゥルーズ

ELMARIT 1:2.8/90

|
ひと月半ほど前、長崎での撮影。歩きすぎて腰を痛める。ELMARIT 1:2.8/90。1709***(1959年)。
撮影日2024/02/16。α7sと。時系列。拡大画像あり。その1。





















長崎市岩川町。撮影日=2023/12/05。タクシーの左に緑色のバケツをもった老人がいる。そばに人ひとり通れる路地があり僕が5歳くらいまでいた家がある。写真の最奥には鳥居が見える。山王神社の一本鳥居である。階段周辺で遊んだ記憶がある。

さて。この日はシャトルバスを出島で降り、浦上を皮切りに住吉、長崎駅前、浜町と電車で移動する。タフな一日だった。コダックレチナ=ヘリゴン。工房M42改=Heligon 1:2 f=5cm。これとα7sで撮影。まずは浦上地区。時系列。拡大画像あり。その1。























ウチには知人工房作のニコノス35mmF2.5が2個存在する。一つはSONYのEマウント、もうひとつはM42マウントである。
今日のは373***のEマウント。フルサイズで使うとケラレが出るがそのまま掲示する。長崎市住吉。最初のここには70年代は消防署があった。初代α7sと。撮影日=2023/11/03。時系列。拡大画像あり。











>







帰着後自転車置き場からこれが15時55分。

ライカA エルマー50mm

|
海上空港の長崎空港と大村湾の対岸=時津(ときつ)を結ぶ航路にのってみた。天気はいまひとつ。
最初のモノクロは時津港であとは住吉(すみよし)近辺。15歳の頃からの「馴染み」の地、それだけでいとおしい。笑。
撮影日。2023/09/18。小一時間歩き回った時系列。旧ライカA抽出の知人工房作エルマー50mm。初代α7s。その1。



















火曜日なのに県立図書館はお休みだった。
池澤夏樹「また会う日まで」。一気に読んだ。
70代後半の作家が大叔父の歴史を書くことになった理由(ワケ)がいまひとつわからない。家系の自慢話なのか?
天気がすぐれず陽光が乏しいと、ツワモノのレンズでもパッとしない。絞りF4の画。

ライカと村田沙耶香

|
ライカと村田沙耶香。妙なタイトル。両者には関連性はない。
SONYの初代α7sとエンラージャー(引き伸ばし)用のKominar-E 7.5cmでの撮影。絞りF8。撮影日2023/09/05。背後がちょっとうるさい。



さて。
①群像6月号で村田沙耶香の新作を読んだ後、続く岩川ありさとの対談「村田沙耶香の20年」を読む。と、これが20年前の群像新人賞作品「授乳」から始まる。当方は不知なのでいったん中断し図書館に返却。「授乳」を借り受けて読む。そのあと、も一度借り受けしようと出向くが、今度は「群像」が貸し出し中。結局、ひと月以上の渉猟であった。

②ライカ1cに、知人の工房でライカAから抽出したElmar50mmを取り付けて、遊びです。こんな容姿のライカはどこにもありません。
Leica 1cはファインダも距離計もないカメラで2個のシューにそれらを付けて使うんだと思う。使いたくなるような雰囲気がある。
ちなみにライカはナンバー458160、1949年生まれ。僕と同い年です。レンズはというともっと古く、1925年から1932年までのいずれかの年ということになります。いやはや。

ユリイカ 大江健三郎

|
寝っ転がって読んでます。ここんところずっと。



分厚いので難儀する。中身は同時代の柴田翔から始まる。赤門をくぐって構内に入ると「東京大学新聞」の五月祭特集、当選作、大江健三郎「奇妙な仕事」。それをみて新聞を買い読んで衝撃を受ける。…から始まる。微笑。
次は原広司の1979年のバリ島旅行の記事。井上ひさしの飛行機には乗らない、や武満徹が歌う「錆びたナイフ」。
(註:石原裕次郎の歌。砂山の砂を指で掘ってたら…)
老人には懐かしくうべなわれる逸話です。これまた微笑。

さて一方、こちらは昨日の朝日。ポートレートの相貌がいい。もひとつ、横尾忠則の書評。著者が邦人の書き手だったらこの「酷評」はなかったんじゃないかと思われる。ちょっと残念。





大江健三郎ついでで長くなりますが、同じ日の「ひもとく」。この人を読む(下)中野好夫。そこに1971年30代半ばの若き大江健三郎。
しかるにひとはみな老いてそうして死んでしまう。死んでしまえばオシマイで生きてるうちが花というわけです。うむ。絵はすべてα6300とペン38mm。(拡大画像あり)

α7Rとコダックの引き伸ばしレンズEktar100mm(工房M42改)。大晦日。天気が悪くどうにもならないひとときであった。集魚灯のときだけはうっすらと陽が射してどうにか絵になっている。
陽光(ひかり)はやっぱり要(かなめ)なのかなあ。





ジャクソンひとり

|


僕はある時期から金〇ひ〇みの小説を読まなくなった。彼女の書評もパスする。ところがたまたまこの日は大好きな横尾忠則とモロに並んで掲載された。えいっ!っとばかり読んでみる。案の定うまい。その気にさせる。自家薬籠なんだろう。当地の県立図書館を検索してみる。やはり貸し出し中だ。
一方、「絶筆」の書評はどうだ。最後尾には彼=横尾忠則の石原慎太郎スタイル、生き方そのものへの懐疑が感じられる、‥僕の勝手読みかもしれない。

絶対悲観主義

|
文藝春秋10月号の巻頭随筆から。



同名のホンも出てるので図書館に申し込む(現在貸し出し中で予約一位)。
蛇足。ペンタックスのK20DとTAMRONのXR DiⅡSP 17-50mm 1:2.8で撮った絵をもうひとつ。

α6300とe35。AF撮影。図書館が休みに入るので数冊借りてきた。「もう死んでいる・・」は金原ひとみの「今年の3点」のひとつ。その金原ひとみはコロナに罹った、と。











競争と性 鴻巣友季子

|
検索でこられた方、ここはシャシン(写真)サイトでもあるんです。書店で『文藝』秋季号を手にした折に背後から「こんにちわ」と店員に声をかけられた。爺はここを密かにしかも無断で取材に利用する。なので声をかけられると怯えてしまう。遠野遥を買うとフラグが立つ、そう考えてそそくさと退散した。その遠野遥を紹介する鴻巣友季子です。「競争と性」。拡大してお読みください。



記事全体に惹かれる。これはドゥルーズ、とりわけフーコーを読む感性、抒情とピタリ一致する。
もうひとつ。15-blade irisのcomponon1:4/35というレアなレンズで撮影してます。三脚使用。精細に撮れる。それはまたいつか。

当サイト紹介のレンズを使ってみたい、譲って欲しいと思われる方は、



までメールください。工房主と相談してお譲りします。
(メールアドレスは画像です、コピペできません)

リンホフ 220

|
リンホフ220は異色の中判カメラです。サーチすれば知れます。レンズは95㎜。ローデンシュトック製。工房M42改。ウチの宝物のひとつ。α7Rと。











屋上屋。KOMATSUのクレーンを草を刈る前にヘクトール7.3㎝で撮ったのがあります。(カメラα7s)



当サイト紹介のレンズを使ってみたい、譲って欲しいと思われる方は、



までメールください。工房主と相談してお譲りします。
(メールアドレスは画像です、コピペできません)
長文です。
昨日の記事(朝日_2021年2月20日)。朝日さんスキャンご容赦ください。



県立図書館をサーチすると、ある。さすがだ。まだ誰も借りてない。すぐに出かけて借り受ける。哲学棚に配架される前の新着棚から。
11時ジャスト。土曜日。すでに閲覧席はひとつおきに満杯。高校生に席巻される県立図書館。

フーコー検索でここに来られた方、ここの主(ぬし)はシャシンをもたしなむ男で、今朝は(今朝も)ボツ記事だと思います。すまんこってす。
さて。日頃よりフーコーを読んでる向きには上の記事はすでに耳になじんだことどもです。やっと出ました、というわけです。原型フーコー、翻訳者、評者、記事を読む我、それらを一本貫いて手渡される現象のこれは何というんでしょう。
ドゥルーズもそうですが、僕にとってフーコーはかけがえのない思想家でした。そう思ってしまう気配があるのです。フーコーが生きた年月を越えたあたりからは当の自分も変容していることに、あとになって気づきます。こんなことを言っちゃあなんですが、フーコーは実に愛おしい男です。やってることが真摯すぎて可愛らしい。(と、こんなことをぬかすのは70過ぎの爺の横着な特権です、これまたすまんこってす)

僕はこの日はα6300に知人工房作のベアなM42改=Planar 1,8/50(1,8です)を持って出ました。図書館現場でセルフタイマやりました。リモコンもなしに思い付きです。レンズの首が垂れるので小銭入れを当ててもたげる。Mモード1/125 ISO2000で一発で決めました。ワンショットで決められたら気持ち良くなりました(笑)

長文注意。
ライカA抽出のM42改=Elmar5cmと初代α7s。知人工房作のエルマーは僕の宝みたいなもんです。
さて。最初の絵。左が村田沙耶香、右が今季芥川賞の宇佐見りんです。ふたりそろってぽっちゃりで(すいません)なんだか姉妹みたいにみえてしまう。これは読み終えた「かか」が掲載された文藝2019年冬号の受賞記事。「受賞」とは文藝賞のこと。
爺は宇佐見さんとはジャスト50歳の年の差。作中「うーちゃん」が新宮駅に到着するシーンには自分の経験を重ねてしまいました。中上健次ゆかりで新宮駅に降り立つ者はある種の効果に身を包まれている。それはひとり中上健次のオーラにとどまらず、熊野や那智の地霊みたいなものの加勢もある。21歳の宇佐見さんが中上健次を好むというのにはちょっとした「雰囲気」を感じる。エルマーはF6.3通し。









今季芥川賞。綿矢りさ、金原ひとみに次ぐ若さ、ということだろう。ライカA抽出エルマー5㎝。開放、自然光。α7s。









柄谷行人。島田裕巳の著書「捨てられる宗教」の評。で、柄谷そのひと、島田そのひとが脳裏にイメージされる。僕にはすこし不思議な現象であり、つまり不思議な評なのだ。
わけがわからないでしょうからこのことはおしまいにします。記事を読んで僕と同じイメージ彷彿ってあるのかもしれない。以上。





その実深夜の実験。備忘メモ。最初は日東光学の暗室用レンズKominar-E,7.5cm。次はリンホフ=Linhof 220 6x7の95mm。
1.いずれも三脚使用。2.下=Linhof中央部は白っぽいか?内面反射なのか。カメラはα7s。

そうそう、Kominar-EやLinhof 220検索でココに至った方のためにレンズの姿を。左Linhofは工房での抽出改造ですから原型は窺えない。絶縁テープでのフードが笑えるがもちろん僕の作業。必死ですな。

YOGA-SMART-TAB

|
MINOLTA AF 50mm1:1.4(22)と初代7R。今年のリンゴ。緑の黄王。ひと月待ったLenovoのYOGA-SMART-TAB。





遠野遥「破局」

|
もうひとつの今季芥川賞=遠野遥「破局」。読み始めて最後まで一気に。いいです。今季は2作ともに佳作で「収穫」ですね。ありがたい。

新潮社の昭和44年版に続き、35年版も全部読む。



当サイトで「石坂洋次郎の逆襲」=ブログ内検索すると今回の出来事の悉皆調査(?)ができまする。
「若い人」「青い山脈」「陽のあたる坂道」の長編、「やなぎ座」「草を刈る娘」「霧の中の少女」「婦人靴」「乳母車」「ある詩集」の短編を読んだことになる。
石坂洋次郎が性の作家だったことを知る。性はほぼすべての短編に潜んで匂う。それらは僕が幼い頃から全身にくすぶらせていた性と重なる。懐かしい。
出来事それじたいは終わる。今回の「逆襲」も一段落だ、ひとまず。「決着」とはいわない。
Ultron 50mm/1.8。シンガポールローライ。上位モデルの50mm/1.4については当方は不知。
検索を間違って来訪しているのではないかと思うくらい毎日ウチのウェブサイトにみえる。M42改造だからかな。工房製。あげます、といって知人から頂戴した逸品。僕の愛用品のひとつ。APS-Cのα6300につけるのもアリです。



バッグのジッパー。ファイル名「0619_63_Ultron_F4about」が端的にいつどれで撮った、を推測させる。ラガシャのバッグもSONYのカメラを入れてだいぶ外に出た。6年前に大丸(福岡)でゲット。ネットで調べるとあまり変わらない感じで現行品がある。価格も同じくらい。0619に注文し0621に届いた。



以下もα6300とUltron 50mm/1.8。シーンによっては風景にも使えます。







コンタックスT3 Sonnar35mm

|
T3からレンズを取り出す、世界にひとつもないでしょう。
これがOSCILLO-RAPTAR 88mmで撮影したコンタックスT3より取り出したSonnar35mm。ごろん、としてます。
(知人工房作=M42固定絞りF8相当)



論より証拠。以下はα7sとSonnar。映りはパーフェクトといってもいいでしょう。















八九式活動写真銃関連=Hexar7.5cm。開放にて撮影。三脚使用。α7R。
21面の記事をひとつ。





以下もα7RとHexar7.5cm。





しばし若いヒトは付き合いきれないテキストです、はい。
検索をよける(かわす、が標準語かな?)ために施設の固有名はなし。図書館です。この位置はいつもは高校生が占める。コロナウイルス規制で現在児童生徒は入館できない。

知人工房改造のライカミニルックス抽出SUMMARIT40mmはピントストロークが繊細で、ピーキングで撮るとピントを外す。よって拡大してヨイショとなるが、スナップにはちとてこずる。
手前テーブルのホン。ぐちゃぐちゃな映りだが(それにしてもきたないなあ)右は高橋源一郎「今夜はひとりぼっちかい?」左が東浩紀「テーマパーク化する地球」。

いやなかなか衝撃的でしたよ。うーむ。やっぱり世の中すっかり変わっちまったんだ。といってもそれは団塊世代老人にいえること、いまのヒトにはフツーなんですけどね。東浩紀はそういえば今なにやってんだろう?と思って読んで読後了解。やっぱり僕なんかは「批評空間」=柄谷行人的、疑似的には「現代思想」的なんだなあ。根っこは長谷川一夫=忠臣蔵であってアニメじゃない。岡田斗司夫とは線で分けられる。アニメ的ではなく少年画報的なのだ。高橋源一郎でいえば、椎名麟三、ドストエフスキーなぞは認知ゼロ。椎名林檎のカンケイですか?とくる。いやはや。以下の絵はα7sと。





一月七日、雨。図書館は今日から。朝にメールが届く。



ひと月ほどにもなるか、カウンタで申し込んだが当日は探し出せなかった。ひょっとしたら閉館休暇中に探したのか?まさかねえ。池内訳の「ミレナへの手紙」。









絵は全部α6300とPZ16-50です。妻が購入したアガサ・クリスティーを一気に読む。秀逸。記念撮影。w

追悼 中村哲

|
追悼中村哲。





以下は私的感想です。
僕は中村哲が称した自身の「三無主義」のことがずっと気になっていました。「無思想」「無節操」「無駄」のことです。彼の実際の営為とは真逆のことのように思えたからです。
彼は自分のヒーロー性みたいなもんを自分の手で打ち消し続けてきたように思える。独自の謙虚さ、といえばそれまでだが・・。僕は彼のそんな「特異性」を世にいう「プラトン主義の転倒」と考えてきた。このひとはなぜこうなのか、の不思議に僕はそんな感じで見守っていたように思う。
寂聴のこの記事に中村哲に僕が感じた同じような感慨があることを発見した。そして彼女も事務局を訪ねている、ああ、哲さんを慕っていたんだなあ、と感じた。それが滲みでているコラムだと思うのです。
(朝日さん自炊ごめんなさい。)

池内紀「記憶の海辺」

|
せんだって、池内紀の「記憶の海辺」を読む。(同時に金村修=タカザワケンジの「挑発の写真史」)これは「記憶・・」のページから。SONYのPZレンズで。上はカフカ(ん?海辺のカフカ?)。下はレニ・リーフェンシュタール。うーむ。



感じるお方は直接池内紀に当たってみてください。僕はというと現在「カフカの生涯」(白水Uブックス 2010) を読んでます。
惰性PZレンズでもうひとつ。今日のランチ(ウチは昼がメイン)とグリンコープの五段重ねの回転焼き。w



α6300につけたTRICOR35mm f3.5。Mercury Univex社 (米)のハーフカメラ。ⅠとⅡ型があってf3.5が初代。1940年代のカメラから抽出。知人工房作。



以下α6300とTRICOR35mm f3.5で。













最後の絵、背景の収差はものすごいですね。設計者にはわかっていたんでしょうが。(どうかな)TRIというからトリプレット構成のレンズなんでしょうか。まあ当時のガラスとレンズ構成です。これは愛嬌。貴重な資料、というべきでしょう。w

金原ひとみ。「クラウドガール」に続き「アタラクシア」を読み終える。爺だから最後のお付き合いかもしれぬ。ちょっと寂しい気もするが。
あ、それと最初のは7sとG.ZUIKO28mmで撮ってます。



α6300とE 1.8/35。MXPのクルー今季モデルMX38303、ネイビーとグレー。ゴールドウィンから購入。
(撮影後)さっそくネイビーに首を通してみる。あれーっ?ちょっとゆるい。頭がちっこいので鏡でみてもルーズ感がみなぎっている。妻に言わせるとピチッとしてるのはトレンドではない、ということ。そいでもねえ。
で、一夜明けて返品。アマゾンペイなのでいったん引き落とし翌月以降に返金される。年を越すかな。2017年まではメーカーはサイズ変更に応じていたが現在はサービスを廃止している。よってSサイズを再注文することになる。やれやれ。前モデルではあるがSは少し袖が足りない。僕の体格が中途半端なのだ。困る。さてシャシンには金原ひとみの「アタラクシア」が見えます。今半分くらい。「クラウドガール」に続く新作。
今朝はそんなわけで9時前にはヤマトで荷を出し一息ついて新聞。朝日の「窓」。うーん。金原ひとみも酷薄だけど、この記事も一見リアルにつらいハナシだ。男性記者だからこんな記事になるのか。女性の立場ならこれは普通(当然)なのかもしれない。金原ひとみ、綿矢りさ、上野千鶴子、金井美恵子あたりはこの男性(あるいは記者のスタンス)をどう読むか。ちょっと不甲斐ないハナシじゃないか。まあナルチシストは男の別称だからねえ。α7sとエルマー5㎝。(撮影者の影が。すいません)

α6300 E1.8/35mm

|















当地に県立図書館が移転するということが分かった時点から、それが実現した暁には俺の晩年は変わるな、と予感した。w
まだひと月にも満たないけれど実際それ以上の「効果」を感じている。なにしろ歩いて15分の場所だ。村上春樹の若き日に神宮球場がすぐそばにあったのと同じ距離です。図書館はドゥルーズのいう「効果」そのものだと思っている。そのうち色も褪せてくるだろう。僕としてはできるだけその褪色を引き延ばしたいとは思うがそうはいかないのが人生ってものだろう。
老人のささやかな愉しみなので、せめて検索にヒットしないようにと図書館の固有名は使わぬことにした。ミューズの取扱説明書は自分の手で作るしかない。
長文注意。
前記事の末尾に「クラウドガール」、金原ひとみはずっと気になる、てなことを入れた後サーバーサイトの挙動に(Movable Type のバージョン4!)何かしら異変を感じはした。が、放置していた。記事フォーマット内でblinkしてる箇所がある。タグをみるとそこにディビジョンdivが挿入されている。コピペで入れミスしたかも。うーんそうかなあ?いや違うような気がする、なんだろうこれって。で、とりあえず身に覚えがないディビジョンタグを削除して→そして保存。→3カラムスタイルが崩れる。この修正再構築に朝から30分。
原因究明。思うに、デフォルトで一記事内に画像10枚てことになっている(真実は不詳・忘却)。で11枚目になった時点でDIVISIONが強制挿入される、バランスを仮に保っていたのに、バカがdivタグを外したせいで見栄えテンプレートが総崩れ、ということかなあ。11枚目を削除したらば復旧する。すいませんMovableType関係ない人もいるのに。これは自分のための備忘記事です。さて、金原ひとみ、ですね。



7sとFLEKTOGON20mmでPhotoshopのBleachBypassを使っています。何のことはない「銀残し」です。Photoshopのカラールックアップです。



これはCrispWinter。なるほど制服の青がくっきり寒い。



削除した前記事の「クラウドガール」。ILCE6300とBiogon35㎜で。
このテの小説が好きなんですな。

次のも同じ機材。10月28日。8時。

6/22朝日=大西若人のコラム。大西に添うカタチで現場を想像する。よって記事は記事として、脳内は自分の世界となる。
「現代思想」連載中の磯崎新についてはいつも曼荼羅を見せられるような感慨を抱く。ちょっと非凡な磯崎に僕なんかついていけない。これはなんだと首をかしげていたりする。そんなわけで浅田センセの「お言葉」には同意してます。祝賀の席を「けむに巻く」くらいなら固辞すればよい。(といっても、煙にまいていた、というのは大西の感慨)
なんだかヘンな「界隈」ヘンな「業界」だなあ。そのひとたちにはこんな集会が大いに需要ありなんだろうか。w
すいません、悪く言ってるのではありません。大西はいわゆる「提灯記事」でもなく、といって嘘くさい感じでもなく、朦朧としているじゃありませんか。アホクサ、って感じてたかも。とかなんとかぜーんぶ当方の脳内!
(絵は7sとM42改SUMMICRON-R50mm)



うーん。拡大画像でも小さくて読めないかなあ。

こちらに記事だけ大きく切り抜いてます。
Photoshopの新機能動向とかを気にせず過ぎた5年(もっとか?)。「カラールックアップ」もそのひとつだろう。Fuji REALA 500D Kodak 2393は時々使う。
元は映像系カラー。コントラスト、黒の迫力、アメリカならではの色合いです。



この絵に処理を施すと



まあこうなります。以下もそうです。





風景はNEX-7とComponon35mm。フーコーは7sとE20mm。
カラールックアップだが、FuturisticBleakというのもいい。以下は5年前にα7RとHektor28mm6.3で撮影したもので原画は周辺はマゼンタまみれだが、 FuturisticBleakを施すとそれが消えなんとも古色な画像となる。参考までに。

2019年、元旦。
昨年暮れに届いた一月号。
で、初撮りはα7s=CZJのSonnar 5cm F1.5である。
①F2、F4、F5.6と続く。F4でかくもシャープ。個体差があるかもしれないが、このガラス玉はいいですよ。好みです。
②体験版Photoshop CC 2019で現像。リサイズしてWeb用書き出し。一切の補正なし。Camera Rawの処理は満足できる。
③朝日は12月31日のもの。左下にいわゆる2050年問題が垣間見える。ニッポンはインドネシア、ブラジルに抜かれる。世界の中心は中国、インド、米国。あとはわからん。うーむ。
④仲山ひふみ、なるお方がいるのか。爺にはこの方は新人です。それにしてもウチでは、今年ものっけから障々介護、老々介護で明けた。人文科学はなんにも役にはたってないよ。しかし爺は読む。いとなみ、のひとつだから。小泉センセは風格がでてきましたなあ。





朝日。10月14日。池澤夏樹。映画「判決、ふたつの希望」。自炊、ごめんなさい。



スキャナはそろそろ20年にもなるエプソンGT-7000U。いいっすねえ。こんなに長く使えるなんて。
で、これをWindows10で使う正式なドライバはありません。裏技は、イメージングデバイスとして、GT-X970のドライバを転用することです。

自炊に続いてキャプチャ。(たまたまです)次のはMacgo Windows Blu-ray Playerで桑田佳祐=「ひとり紅白」でオックスの「スワンの涙」(1968年)をやってるシーンのキャプチャ。イヤーモニターが僕には補聴器に見え、親近感がわくのだ。あはは。w

NiKKOR 35mm F2.5 NIKONOS

|
α7RにM42の17-31mmヘリコイド。NIKONOS抽出のNIKKOR35mm2.5。
拡大画像は大きめ横1840あります。
描写はごらんのように隅々まで精緻。周辺光量の問題もない。α7Rと上記のヘリコイドチューブ、それに工房製作改造レンズ=3者のベストアレンジメント、とは当方の経験的な実感。
これもまた世界に誇れるレンズのひとつだと感じる。「ニコンS時代の35mmF2.5をリファインした水陸両用レンズ」ということだが詳しくはニコンサイトで知ることができます。「改造」ゆえにデジタル時代でもなお万能を標榜できるレンズだと思う。





最短撮影(およそ15cm)。開放F2.5。(拡大画像920*614)



大黒岳彦『情報社会の〈哲学〉』読了。

これまで大黒岳彦を「現代思想」でいくつか読んできた。AIとか、コミュ障とか。
で、先の「現代思想の316冊」の「不可視の社会を如何にして・・」ですね、特にP37以降のグランドセオリーについてのキーワード①以降の「まとめ方」にぐっときた。
情報社会(世界社会、社会の社会)のシステムを哲学のイシューとして提示してくれる。僕にはこれが嚆矢だ。

さて、本題には関係ないことをひとつ。
大黒岳彦の文には特徴がある。たとえば、括弧やルビが多いこと。哲学ゆかりの古代ギリシャ語が多いこと、うんぬん。
それがこんな結果をもたらす。見本のスキャン画像ををふたつ。





上が『情報社会の〈哲学〉』、下が去年の「現代思想」8月号の「コミュ障」のもの。
どちらも2行目に注目。行の割り付けが変でしょう?
推測ですがこれは、テキストをQuarkXPressに流し込むときに、なっちゃうんですよね、たぶん。
これは校正でなんとかならないのですかねえ。些細なことです。でも眼に立体的に(3次元の効果となって)飛び込んでくる。うーん。
いつだったか、池澤夏樹と世界の果て「パタゴニア 冒険の旅」、てのをNHKBSでみた。
これはそのときWooo画面をショットしたもの。





ドキュメンタリーの中で彼は、こんな旅に残りの人生を使ってもいい、みたいなことを言う。ふむ。そうなんだ。
池澤個人編集の石牟礼道子でたいそうな財産を頂戴した。たまたま同じ時期にイサム・ノグチ評伝の「石を聴く」を読んだことも偶然とは思えない。
自己のための備忘メモをひとつふたつ。

①石牟礼道子は、字義通り石の牟礼(山)とつながる。祖父は水俣で石を扱う人だった。それがもとで一家は零落する。
②五島(長崎)でつかう「みじょがる」(かわいがる)「そこんにき」(そのちかく)「ちんちろまい」(てんてこまい)などなどの方言が、五島、天草、水俣などの沿岸に船を介して伝わっている、と想像する。はやい話が、「椿の海の記」の地名、うまわりのとも=「大廻りの塘」である。ぼくらは、うーまわり、と言った。
③香川県高松市牟礼町牟礼にはイサム・ノグチ庭園美術館がある。まさにイシムレである。
④イサム、石牟礼、池澤らの異能は、生来のもので出自に由来する。

⑤存在は生成(構築)の「効果」なのだ、それもこんなに不可視で微分的な。われもそうなんだが、イサム、イシムレ、イケザワのThree I を知るにつけてもそうした感慨にいたるのです。


水田マリは16歳。わけあって高校を3日でやめる。そして花王=KAOのようなメーカー工場で柔軟剤をパウチに詰め込んだりするバイトを、「真面目」にやる。やっつけ仕事はやらないピュアな子だ。
段ボ、ツケマ、レンチンなどのタームを推測解読しながら読み終えた。
マリが、朝日の評者=斎藤美奈子期待の「ヒーロー」であるかどうかはわからない。これがJKの現実の様態かどうかもぼくには不明。だが確かに斎藤のいう現代の「プロレタリア文学」なのかもしれんぞ・・とも思うのだった。ともかくマリの輪郭がしっかり描きあげられている。現実離れしているストーリー(そう爺にはおもえるのだがまちがってるかもしれん)も、なにげにリアルに感ぜられる。
初めてだけど、宮崎誉子という作家はちからのある書き手なのかもしれない。リトルモア作家なんだね。

さて。当市の図書館新入荷の第一号の借り手がぼく。(黄色の間紙に注、次の予約がある)で、一晩で読み上げ、さっそく返却。(団塊世代にはシコシコ励むつつましいオトコもいるもんなんだよ。ww)
絵は7RとNEOKINO65mmで。

NEOKINOは35mm映画用のプロジェクションレンズ。65mmは稀少というかネットでもみたことがない。もうひとつ絵を。知人から頂戴したニンニクの芽。しゅんは旨い。
調理する前の束を撮っておくんだった。後悔先にたたず。

若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』を終えて、今期芥川賞の2作目=石井遊佳(ゆうか)の『百年泥』を読み終ゆ。α7Rとオリンパス・ペン抽出の28mm。

「写ルンです」のレンズ2枚を向かい合わせに(対面)組み合わせた球体(球面)レンズは製作工房の新作、これが完成品です。

新たに絞り環が組み込まれた新しいバージョンになる。先だって訪問した折に、絞りの機構を見せてもらった。当然のことだがそれは現行の製品ではなく、フィルム時代のものでたまたま工房にあったものだという。キヤノンのライカマウントのレンズに付いていたものではないか、と話しておられた。
同じものができるということもないだろう。ひとつひとつの製品がそのつど差異を含んだ新機軸といえる。そんな意味では、「世界にひとつ」のアイテムです。

直下がα7sに取り付けた姿。拡大画像で辛うじてわかりますかね、かなり絞っているシーンです。ヘリコイドは組み込まれています。



さきほど触れた「絞り環」は中央のこれです。



以下は作例です。絞って撮影。あえて一切の補正なし。そのまま、です。























さて。絞りを開くとソフトフォーカスになる、と製作者は言っていた。
なるほど。直下が開放近く。このあたりが(15㎝くらいか)最適ピント。全面ソフトフォーカスですね。



同じ場面で絞ると、最適ピントは少し後ろに。

朝日新聞 寂聴 まなほ

|
今朝(12月24日)の朝日。(都市部では夕刊配信かな)
ええなあ。こんな老人、千人にひとりもいてないと思うよ。シアワセすぎる。それにこの女の子も幸せだと思う。
人生、「めぐり合い」でまたひとつ分岐する。こんな記事はある種のクリスマス・プレゼントですね。若者と老人への。



さて僕は、こんな隅記事にことのほか眼が向くタイプです。(拡大画像なし)

kominar 4cm M42改造 ブリー

|
僕はどうでもいいシャシンをする。
昼ごはんとか、そこいらのアイテムやフィギュア。「メモ写真」です。
シャシンの初めは「記録」でしょうから、メモ写真もアリなんでしょうね。もっぱらNEX-7とかα7sとかでやる。たまたまこれらはここ数日(今日12月23日も)α7sにkominar4cmが付いたままだったのです。
そもそも「ブログ」はWeb_Logを語源にしていたと思う。僕のは身辺のWeb_diaryなので「ブリー」の造語が似合う。毎日ひとつのブリーをものにする。









最後の絵。ヘリコイドM42-NEX 17-31mmと知人製作M42改Kominar4cmの最短。15㎝くらいでしょうか。スーパーで消費期限を迎えた今日、半額だったそうです。残り1枚てのを妻が買ってきた。昼に一人で食べるが214gは多すぎた。(妻は牛肉を食べない)
銘柄を記録するためにシャシン。妻は佐賀牛というが、こうしてみると、どこにも「佐賀」とは書かれてない。
「長崎和牛」と比べるに霜降りが少なめで、あっさりしている。そこがよかった。
さて。
どうすればこのような「僥倖」に巡り会えるだろうか?
何を考えているんだろう。馬鹿だなあ、この爺さん。w

こういうのはどうでしょう?
商品の「消費期限」をあらかじめ調査しておく。そしてその日の午前10時ごろ行ってみる。もしかしたらそこに干し草を食んでる和牛のような「幸運」がのんびり寝そべっているかもしれない。

あはは。だめですかね。
出会いがしらの「交通事故」みたいな「僥倖」なんですな。滅多につかめないから「僥倖」なのです。はい。
2017/12/20 2:22a.m.深夜。ここんところ『現代思想』12月号=人新世を寝物語に読む。
なぜか寝付けない。で、着込んで起きる。エアコンと加湿器を入れる。30分が勝負。エアコンがのどに来る。α7s,NIKONOS35mm=M42改。
3枚撮る。スリッパの先が見えるのがあったのでそれにする。CORONAの左端「省エネセンサー」の文字が流れる。NIKONOSの特徴が知れる絵ですね。



IMEで、ひとしんせい、が一発で出ない。それは今夜の「慰安」だ。
人、新地、世界とタイプしてDELする。(単語登録したくない。w)
フェミニズムばりばりの論攷もある(鼎談「誰が人新世を語ることができるのか」飯田・北野・依田)。そして言わずもがな、ダナ・ハラウェイのナラティブが顔を出す。
もう30分を過ぎようとする。今エアコンを消す。モットンマット(湯たんぽOK)=ベルメゾン・フレーム=ジャパネット羽毛というこれ以上ないシェルターに潜入する。このあと眠れるか。
α7sに富士フィルムの「写ルンです」抽出のSONY=Eマウン組み込みレンズ。
①固定絞り=F8あたり。
②固定焦点=約1.5メートル。
③画角は35ミリ換算で30mmくらい。
知人工房製作のこれを早速試用。ピントは中央。おおまかに約1.5メートルを維持して撮影。ピーキングをたよりに撮影しているので少しピントをはずしているものもひとつふたつある。最初の一枚は別ですが、2枚目以降ずらりと。但し2と3枚目は車窓から。当然1.5メートルではありません。曇天。アオリ加減ですからケラレも出ます。
4枚目からは暗い店内をAモード,1/60秒で。





































結論から申せば、うん、なかなかのものです。確かにデジカメでも十分「写ルンです」。


上の絵はNEX-7とCONTAX TvsのVario Sonnar 3.5-6.5/28-56のEマウント改造レンズで撮影しました。α7sに取り付けている塩ビのチューブでくるまれたレンズはミノルタのレンズです。抽出したM42改造のレンズです。
裏面はこうなっています。



いやはや。ここまで手の込んだ作りには恐れ入る。だいぶ前に僕が改造を依頼したブツのひとつらしい。表のツラと裏面のこのタイポグラフィーをみて、このカメラだったかもしれない。1983年-84年のミノルタAF-Sシリーズ。(ごめんなさい。次の絵は借り物です。拡大画像はありません)



固定絞りですがなかなかのものです。近々絵をご紹介します。
今日のところはコンタックスTvsのVario Sonnarの絵で閉じます。
Tvsの絵はすべて開放で撮ってます。



リコーR1s

|
リコーR1sから取り出した30mmF3.5 MC MACRO。 庭。





ひと月ぶりかな、コーヒーショップ。カップの中に明かりと窓が。







大黒岳彦「情報社会の<こころ>」(現代思想8月号)を折につけ読み直す。
吉本隆明の「対幻想」を現代的に援用する。それがとても新鮮だ。
この僕は、いまここでもネット社会への参列に手を挙げ、露出し、体よく情報社会に「回収」される、そのようなニンゲンなのだろう。「秘密」はどこへいったのか。「暗部」は、そして「残余」は。「至宝」(というものがあるとして)が安売りされる。大黒岳彦のいう「社会幻想」(一種の共同幻想)から逃れるには、ツールとしてのネットから離れるしかないのか。

外に出て、ファインダで風景を切り取る。そこには「身体性」が付随する。街を小一時間スナップするとわかる。こころが汗をかく。それらの絵をアップロードするその過程(プロトコル)は、明示的で、毒もなければ秘密もない、消毒された自己が記述される。(かのようだ)
まあ、でもさ。僕のばやいは、しょせん「備忘メモ」じゃんか。w
僕ははなっから、自己満足をもくろんで「垂れ流し」しているのです。ちょっと言い過ぎかもしれない。すいません。ネタ探しの渉猟も、楽しい慰安をもたらすひとときがある。家に帰ってSILKYPIXのアイコンに、その日のファイルをドバッと上乗せして一覧する。気に入ったのがあるとしびれる。それだけでもシアワセと感じる。
以下は6ページ連続の抜粋です。ですが一部です。







山の日 涸沢カール

|
明日8月11日は、「山の日」というんですか。今日知りました。とぼけたニンゲンですね、僕は。お盆休みにつないでいるわけですね。
山にちなんでplustekのスキャナでスライドをひとつ。



涸沢カール。ここいらで2300メートル。涸沢小屋側から撮影。向こうが涸沢ヒュッテ。15年位前でしょうか。カメラはGR21っぽい。フィルムはフジ。僕のテントも中央にあります。

ブログ表象の空間というのは特有で、いろいろあっても日常そのものをベタには書けない。
羽根のついたアリみたいなのがベッドに2,30匹舞い降りて散々な目にあう、刺されて赤く浮腫みたいになって痒さがハンパない・・というようなことはまあネタとしても書けはする。w
けれど検索からわざわざ読んでくださる方に対して、「日記」をお見せしては失礼になる。媚(こび)ではないが、ある種のポライトネスをもって記事を・・それくらいの謙虚さは片隅にある。レンズ越しの絵は、それにもかかわらず能天気なので、すいません。
老妻は昔々作っていたもの、カレーライス、ポテトサラダ、シチュー類とか全く作らなくなった。どうしても食べたいときは頼むことになる。ふだんはこんな茶系統色のたべものが多いのでありんす。

郭允の写真

|
朝日新聞の郭允の写真は弁別されて視界に入り込む。そのとき僕は自分を「眼のひと」なのだと改めて自覚する。
これも絵を見て直感し、撮影者を確認した。最近はフロントランナーにも登場しませんものね・・。


(α7R/1963年SUMMICRON-R 50mm)

W=1840dpiですが、ぜひ拡大して絵をご覧になってください。文も読めます。(僕は読んでませんが)
ときに、撮影機材は何でしょう。4×5か?でも今時なあ。独特です。いい絵ですね。

さて。2017都議選から一夜明けた朝。α7R/1963年SUMMICRON-R 50mmで。
一番下ですが、その前の絵に写り込む鉄塔(8.2km先)の等倍。(拡大画像はW=530dpi)

奥にあるのはEP578というナショナルのマッサージ機です。いつだったか動かなくなったのでメーカーに修理してもらった。3万円くらいかな。「使っていませんね」と言われた。使わないで駆動部が固着していたそうだ。ついでに「もみ玉」も交換した。
それでも月に一度使うか・・。そんな始末。



最近「ベルメゾン」のフレームに「モットン」のマット、という組み合わせでベッド生活にした。一気にじぶん寝室が手狭になった。こいつをパソコン部屋の窓際に強制疎開。
これに寝そべると正面視界はこうなる。





リコーのプリンタの上にパイオニアのブルーレイ・プレーヤ、その上はシャープのLC-16E5。リコーとパイオニアの隙間からちゃんと排紙もできます。
このマッサージ機、ネット渉猟してみた。何と英文のサービスマニュアルが出る。取扱説明書ではありませんよ、サービスマニュアルです。全32ページ。ビス一本にいたるまで詳細に記載されてます。ニッポンメーカーの律儀な姿が垣間見える。

もうひとつある。20年もなる古手のマシンをいたく重宝し「最高」と絶賛しているお方のブログに出会いました。彼(たぶん)もメーカーの修理を受けている。が、半年後に故障する。よって自分で直した、とある。解説写真付きで。こんないいマッサージ機は今はない、と言い切っている。ううむ。
もっとも彼が当のサービスマニュアルを参照したかどうかは不明。



二日間で読み終えた小玉武=開高健を、返却する前に「記念撮影」。



これまで知らないことが多かった。さっそく次なるホンを県立図書館に借り受け予約。
高恵美子「ヨーロッパの白い窓」と、こう書けばピンとくるお方もいるでしょう。一方、佐々木千世「ようこそ!ヤポンカ」は稀覯本で国立国会図書館はじめ有数の図書館にしか見当たらぬ。当県では無理のようだ。
シャシンはすべてα7sとニッコール28mm 1:2.8(非Ai,70年代) 。設定を間違えて、下のはなんと1/4秒で撮影していた。絞りF5.6。



電子シャッターだからできたことだろう。次なる爺さんは1/8秒。リモコン操作の右腕が揺れている。



お昼、自分用に「鴨南そば」。鴨をたっぷり投入する。出来がよくうまかった。暗室シャッターを開け、窓際でまたも記念撮影。



参考までにレシピ。そばはもともとは生協のざるそば用「出雲そば」(つゆ付き)。これを僕はホットで食す。
ダシは、いりこと鰹。いったんとったダシに、鴨の脂身を少し紙袋に入れてもう一度。このときちくわをいれる。(ちくわの風味がでる)
味付けは塩とみりん。酒はなくてもよい。塩は生協の岩塩、みりんもなんちゃらの妻がこだわるみりん。そばに付属する「つゆ」も入れる。チョーコー醤油(といっても知りませんよね)の京風だしの素をほんの少し。これが完成つゆ。
さて鴨肉は固くなるのを避けるため、完成つゆにざるでさっとつけて引き上げる。10秒くらいか。盛り付け時に投入。あとはネギ、わかめ、おぼろ昆布。七味唐辛子。
だし用の鴨と食す鴨を分けて使う、というのが僕流のキモ。ただし、ここが最後のポイントですが、ひとそれぞれ、です。

あ、そうだ、これが「出雲そば」です。鴨はついてませんよ。鴨は有機農法でお米を作っている方から年契約で購入してるんです。今日は何を記事してるんだか・・。

6月2日。鷲田=折々のことば。松浦寿輝。



松浦寿輝といえば僕には詩集「冬の本」につきる。小説もするし表象論も多い。「退職」てのは「退官」と別物か。みなトシをとったんだ。

ついでに自己顕示をひとつ。17時。α7Rとコダックのエクトラ(F5.6で)。PM2.5か光化学か場所の汚染か、マスクが必要。サングラスは緑内障+白内障の爺には必携。よって欲望はこうなる。

来ましたね。この記事には驚きました。(拡大画像あり)



fMRIによる脳画像の応用は、ジョシュア・グリーンの「トロッコ問題」でも知られています。そのラボでは、道徳やら倫理はどこに由来するのか発生源を見極め、たとえば善悪を自己が認知・判断する瞬時(?)のシステムを脳科学的に解明しようとしています。
今回の京都大学のはさらに進化したものと僕には受け止められます。うむ。
「トロッコ問題」についてはWikiで知れますが、グリーン本人のサイトでは当の記事(英文)が、

ここで読めます。

このニュース、僕がまっさきに想像した応用例は、障害で意思疎通の困難なひとが自分の意思を外に向けて容易に出力できる、というものでした。

さて。「対象a」に触れて(触れることができるのか?)至福の時間を得る。精神分析をぬきにしては説明できないことがらも、ニューロンの作用ではなかったのか、時代の主流はそう僕を説得する。w
脳神経科学の成果はけっこうバイアスがある。これまでの言語論的知見の修正を迫る、とまあそこまできてます。

しかし、ゆっくり考えてみたい気もする。
これって単に「医療行政」やらひも付き学術系の罠かもしれない。しかも京都大学のスタッフすらそれと気づかない罠かもしれない。w
第一、そんなにMRIを脳に駆使していいものか。僕たちの国は世界一CTやらMRIを頭部にかけまくることで知られてる。
成果は認めるとして、散歩の折に咀嚼しながら考えてみましょう。
むかし『やっぱりおおかみ』を買って子供に読んでやった。
鷲田清一、佐々木マキは僕らの同時代の男。拡大画像無し。
フン!の意味で、けっ!という捨て台詞が、やっぱり、の前についていたと記憶する。



記事には関係ないがレンズをひとつ。ついさきほど届いた知人製作M42改造。拡大画像あり。
1950年代のAsahi-Kogaku,Takumar 1:2.4 f=58mm。



作例。やわらかい。





いつも(勝手に)撮影させていただいているおミセでお義理と感謝を胸に秘め、村田沙耶香を買った。w

以下は『現代思想』3月臨時増刊号「知のトップランナー50人の美しいセオリー」から。
茂木健一郎の「美しいセオリーはない。」の一部。

 時間に関する現存のセオリーのすべては、時間に関する私たちの最も根本的な疑問に答えるものではない。
私は子どもの頃よく煤を追いかけていた。少年の日、梢から漏れてくる太陽の日差しの中に、アオスジアゲハやゴマラダチョウを見上げた、あの時間はどこにいってしまったのか。
 今この文章を書いているこの瞬間もなお、時間が不可逆に流れていってしまうという事実を、どのように考えるべきなのか。私たちの一人ひとりが、それぞれの体験という私秘的な領域に閉じ込められ、そこから逃れようもないこと、その個人的体験の中で、時間が一方向に流れていってしまうこと、その厳然たる事実の下では、すべての営為、たとえば、このようにして雑誌『現代思想』に「美しいセオリー」というテーマで文章を書いていることは、すべて茶番であり、究極的には意味がないこと、それでもなお、私たちは何かをしなければならないこと、だからこそ、私はこうして、編集部の注文に応じて「美しいセオリー」というテーマの文章を綴っていること、今この瞬間もなお地球上では、それぞれの私秘的な体験に閉じ込められて、何十億という人々が個々の時間の流れの中にあること、そのようなむき出しの現実に比べたら、どんなに「美しいセオリー」も、児戯に等しいと私には思えるのである。

うむ。脳科学者もこんなことを思うのです。
①まさに時間論ですね。とっさにドゥルーズの発明品であるかの「アイオーン」を想起しました。「アイオーン」の線のただなかにいて茂木健一郎センセイは七転八倒している。(と言ってはいけません。w)
②言外にパラレルワールドを感得する。時間にもいくつかの系列(セリー)があるのではないかというのはファンタジーの世界だが楽しい。
③芭蕉の「隣は何をする人ぞ」を考えてみた。物理学で説明されても隣の人にはその人なりの時間がある。隣を想起する自分の時間も同じ時空内のいまここにある。一方であなたとわたしの(皆それぞれの)「アイオーン」をもからめとる現象がある(きっとありそうだ)。
時間はない、と言ったほうがよほどすっきりする(ような気もする)。時間のことを考えるとどうにも混乱する。

記事とは関係ない絵をひとつ。知人に頂戴したM42改造のNIKKOR28mm。ストリップ状。



左がニッコール28mm、右のはズミクロン-R50mmです。コンパクト。
記事はJPEG画像で読めます。下のはPDFにしています。





いいですねえ、これ。
「拾得物・・」は秀逸。これを発見するこころがアートそのものでしょう。これひとつでその場限りであったにせよ、ひとは感慨を得る。そして救済される。アートの力。「拾得物・・」は創作のアートではない。だから「発見」が肝要になる、と僕はおもうのだ。
多くを語りたくはない。人をして救済に向かわせるのは(自己慰安にすぎぬにせよ)アートの力だとおもう。
築地市場の掲示板は「出力」そのものともいえる。アートのチカラを、だからアナタも「出力」してほしい。あれやこれやで困難を強いられる若い人には特に「出力」することをやり続けてほしい、と願う。
その名に雑誌や新聞で出くわすと必ず読む、ということはある。けど、大江健三郎や、村上春樹などは雑誌や新聞に露出すること自体が稀だ。
小説は、近頃読む機会が多いが、それは措いとく。「思想」関係でいえば、僕の場合は、思いつくままに並べると、柄谷行人、見田宗介、橋爪大三郎、新宮一成(精神分析)、上野修、小泉義之、浅田彰、大澤真幸、檜垣立哉・・このあたりは見過ごさない。(大体年齢順にやったが違うだろうな)
「社会学」は〇〇社会学、××社会学、といろいろあるけどおかまいなく、アンテナにひっかかるものは読む。
岸政彦は『断片的なものの社会学』だったっけ、違っていたらゴメン、沖縄での取材先で、聴き取り中に犬が急死、あの犬はその後どうなったのか気になる、うんぬん。それがきっかけ。立岩真也。このひとには目が離せない。文体が独特。川を堰き止め、佇む。また流れを変える。と思いきや支流のそれも遠くまで行ってしまう。しかし本来の流れは把持している。
爺がこんなことくだまいてもビッグデータの一隅を照らすことはない。爺はアーティストなのだ。w
きょうび「現代思想」3月号を記念撮影してお茶を濁す。大澤真幸の双子のはなし=コミニュケーションのことだが、感じた。どこに? それは省略。w。α7sとminilux抽出 SUMMARIT 40mm。



赤ん坊が生まれるまでいた上馬のアパートの階上(4階)には、子豚を買っていたひとがいた、そしてその前はあのトータス松本が店子として関西から越してきた。ちょうど奥田民生と組んでたころで、「イージュー★ライダー」をお風呂でうたっていて、それを階下の風呂でうっとりきいていた・・。子供の頃は下北の家の近くにシーナと鮎川が家の前で楽しそうに話していてそれはすてきな大人だった・・。うんぬん。うん。たのしめた。吉本ばなな、を好きになれます。図書館借り物。(LINHOF-TECHNIKAR 1:3,5 f=95mm,開放/SONY α7s)

今(2017年2月)NHK_BSでやってる「刑事フォイル」は先の大戦時代のハナシだから、これはライカだけど、戦前のモデル。演出が凝ってる。α7RとMAMIYA-KOMINAR48mm/F2でWooo画面を撮る。



ビューファインダがいわゆる「片流れ」タイプというんだそうだ。
最初スローシャッターダイヤルのねじ山を、あれ?と思った。ふつうここはつるんとしている。で「調査」。はい。黒ペイントだがたぶんこのモデルだと思う。(ごめんなさい、絵は借り物です)レンズも同じSummarの5cmっぽい。みるひとがみればすぐにわかるものだとおもう。



これは自分のライカ。
シャッター音を耳元で聞くだけでもシアワセになる。これもα7RとMAMIYA-KOMINAR48mm/F2。開放撮影。



もう一枚。α7sとSchneider Pro-Cinelux 45mnmで。

Z200 Raid解除 BIOSTAR TH55B HD

|
この正月に、PCを2台組んだ。HDDをSSDに換装したのを含めば3台やったことになる。そのうちのひとつ、BIOSTAR TH55B HD(Socket1156 ) のLED Indicatorsが光ってる。電源、マザボ、メモリ、CPU、CPUファン、すべてヤフオクの寄せ集め。CPUはプロセッサー・グラフィックスのついてるi3-540。グラボが不要。64GのSSDにはOSのみ入れる。用途は決まってない。ついでにインジケータ関連ページ。





ところでこれはちょっとしたキモだけど、Windows10のUSBブートができるか。結論、できる。
メモリを差し込んでからBIOSにDELキーで入ると、このようにHDDとして認識する。おお、これは知らなかった。僕はWindows7から突入したのです。さきほどハッケンしたのです。このことがどれほど重要であることか。ううむ。



後で元に戻す。フロントのUSBが効かなくなるので。



一方、こちらはHPのZ200 SFFのSSD換装。Amazonで2個買う。Transcendのロゴが。
Transcendは取り付け金具が付属する。で、内部には外ねじをつけヘッドで幅を調整してはめ込んだ。拡大画像の真ん中、緑のタブそばにネジ頭がみえますか?けっこううまく収まった。



以下自分のための備忘メモ。Z200 SFFはRAID+AHCIがデフォルトだったので、RAIDメニュー内の右3番かな、Reset Disks to Non-RAIDとかなんとかを使う。ただし、その前に赤字エラーのディスクをスペースバーかなんかで選択しておくこと。(左端に右向き三角マークが出る)これは肝心。

哲学とは何か

|
長文注意。
ドゥルーズを「出来事」の哲学者、といったのは誰であったか。事象をまさに「出来事」ないしは「事件」として感じ取ること、それは僕にもさいさいある。あきらかにドゥルーズを知る以前にはそのような感慨はなかった。既存の概念の配置(布置)を変更する。そこに新味の視界がひらける。そこに新たなプラトーがみえてくる。それが「生成」なのだろう。きっかけは特異点なのか、襞に潜む電子なのか、シナプスを飛び交う言い表せないものなのか・・。

インダスター。これはいわゆるゼニット型のレンズだと思う。バリエーションは豊富。60年代なのだそうだ。知人の手になる改造をじっくりみていただこう。前面の前玉。シリアルのそばに突き出たピン。これが絞りを制御。



裏面の後玉です。取り付けのM42リングには、ASAHI PENTAX JAPAN の刻印があります。



側面。パンケーキです。



ドゥルーズの「アジャンスマン」はまさに組み合わせのことです。偶然で、潜勢的なものが支配する。手近のパーツからこれかな、とアレンジするがしかしそこには「偶然」「記憶」「経験」とイマージュがひしめいている。製作過程にはすべからく「差異」がある。彼の作り出す個物には「再生産」がない。使用者には「同一性」から解放された新規の驚きが待ち受けている。

僕がこんなことを書くと他者は、「もちあげている」と思うかもしれない。そうではないことを知っているのは僕なのだからその誤解を解くすべはない。実際、当の製作者からして(知人ではあるが)、布置の変更による「効果」を十全に賞味しないうちに手放すものと思われる(ごめんなさい)。製作されたレンズの「効果」はもっぱらそれを使用した者に発生するから・・。
(製作者は使用者と異なる場で、使用者と異なる「効果」を獲得している、ということは言うまでもない)

諸氏よ。ここに「哲学」が暗躍するのです。
「哲学」は身体と精神を駆使して生きる営みです。哲学史を読み解くことではありません。とりわけ自己の生の最終局面に近づくと強く感ぜられるのです。
ドゥルージアンのあなたならお分かりでしょう、僕がファインダに見出すものはむろん「効果」です。それはあの「結晶イメージ」につらなる身体と精神の様態そのものです。現働と潜在に翻弄されるがごとき「効果」です。ここブログ言表には宿りきれない「経験」です。
「エチカ」でスピノザは、わたしたちは身体と精神のことについて何も知らない、と言ってます。そう。知らない。何か「出来事」のなかで飛び去るかのように過ぎてゆく身体と精神、そこに生息するしかない。

作例をひとつ。解放での撮影。テッサー型の特徴があるかな。

動画の切り出しではありません。7sとSchneider Pro-Cinelux 45mm(1.8")。TVモニタ撮影(これが好きなのです)。ワールドシリーズ開幕。 米国歌独唱レイチェル・プラッテン。カブス第一戦先発のレスター(打たれたが)。SILKYPIXのハードモノクロとノーマル画像。レイチェルの背景が流れるのはキャメラマンが回っているから。
同じことをしている方はきっと気付いている。
ひとつ。静止画でしか手渡せない(受け取れない)情動がある。
ひとつ。RAW記録媒体のデータはアプリケーションによって抽象概念にまでメタモルフォーゼする。











EL-Nikkor40mm

|
いずれもα7sとEL-nikkor40mm。稀なるレンズ。精度がいい。雰囲気もまあまあ。
カブスがNLCSを制覇。街のひと=Wooo画面。続いてセザンヌの塗り残しサント·ヴィクトワール山。これもWoooキャプチャ。レストランで飲み干したグラスを照明にかざす。





長文注意。
「大丈夫。火はついとるから、心配するな。今は燃え上がるための準備をしとるだけや。煙がずっと続いているやろ。火のないところに煙は立たん、言うやないか」
「血のないところにちんぽは立たん、言いますね」
「あのな、お前な、そういうこと以外に考えることないんか?」、三宅さんはあきれたように言った。
村上春樹「アイロンのある風景」

僕はしばらく村上春樹を読まない時期があった。ここ数年「その間(かん)」の読み物をもっぱら古本で集めて枕元に置いている。あれこれのホンを手にしてはあっちゃこっちゃを拾い読みする。気づいたことがひとつある。「アイロン」にもあるように性的表現が一見して「露骨」というかストレートに出る。何も「アイロン」に限ったことではない。名古屋の広い道路(どうしてあんなに広いのだろう)の中央分離帯の草ぼうぼうで付き合ってきた女の子のアソコを思い出す場面とかね(東京スルメクラブ。確か、あったでっしょ?)。
「アイロンのある風景」は1999年。「震災後」の物語。(もちろん阪神・姫路地震)。村上=40代最後あたり。知性のある作家が作品のなかであるとはいえ「ちんぽ」なんて率直に描くことに、しかしほとんど抵抗がない。これがノーベル賞作家=大江健三郎であれば「ペニス」なのだが、血のないところにペニスは立たん、じゃサマにならない。w。
さて。「アイロン」は『神の子どもたちはみな踊る』のなかにある。所収の筆頭は「UFOが釧路に降りる」という秀逸の作品。そのなかにこんな箇所がある。

小村はコーヒーに砂糖を少しだけ入れて、スプーンで静かにかきまわした。そして一口飲んだ。コーヒーは薄くて、味がなかった。コーヒーは実体としてではなく、記号としてそこにあった。

先日はじめて入ったコーヒーショップで「記号コーヒー」の経験をした。たまたまこの箇所を読んでる最中のできごと。思わず「記念撮影」。偶然だけどボブ・ディランが文学賞をとった日(ということは村上春樹がとり逃がした日ということだ)『神の子どもたち・・』をバッグに入れて博多に行った。OIOIのこの場所も初めてというわけだ。(すべて7s,EL-NIKKOR40mm)



噂のVRを見に天神のソニーショップに。博多も天神もかぼちゃだらけだ。





制服(コスプレ?)で装った背の高いきれいなお姉さんがふたり、中年のデブった男性の相手をしていたが、中年男はただゴーグルをつけて体をくねくねしていた。Webで予約した者のみ体験できる旨の表示があるが他に客らしい姿はない。店内にはカメラ、スマホ、PC, 4Kテレビと勢ぞろいなんだが肝心の客がまばら。爺さんが(おいら)入っても誰も気づこうとしない。(最後まで声もかけてもらえなかった、うん。w)ああ、かつての「世界のSONY」はここまで凋落しているんだ、と身をもって感じた。寂しいじゃないか。ニッポン変だよね。4年先のオリンピックに踊っている場合かよ。働いている派遣社員にちっとも気合を感じない。あ、爺さんがきた、と気づく店員がいない。店全体を見回すコンダクターがいないのだ。150万もするようなレンズを並べているのに団塊世代の爺さんのハートを掴めない。ありゃダメだね。こんなかっこうしてたからかな。どうみても上客にはみえない。





日立のプラズマテレビWooo P37-HR02(2008年製)の裏蓋を開いたところ。立てている赤○のファン(下のケースに収まっている)、これが不調。「ほこりがたまっているので電源を切ります」というようなメッセージ。おいおい。で、清掃。それでもファンが回ってない。分解してベアリングに注油。オーケー。と、思いきや2日目にダウン。要するにファンがへたってる。電源を落とすというのは回転を検知しているわけだから、60mm、15mm厚、3000rpm,赤○のパルスセンサー付きをキモにして、アマゾンでOwltechを購入。1000円くらいだが、送料がゆうパックだから1625円。コネクタが合わない(緑○)。元コネクタを活かしてリード線どうしをつなぐ。色は違うが黒がアース赤がプラス残りがパルスセンサーと勝手に決めて。設置の上下もいいかげん。だいたい風量なんて鼻毛が揺れるくらいしかない。何のためにあるんだろう。ちょっと疑問だ。結果的に動きました。2,3日様子を見てエラーが出なければこれでオーケーでしょう。ダメだったら記事を書き直します。

(訂正)
ひと月もちませんでした。
先端はシュナイダー,ダースト,Componon 105mm f5.6。(M42改)PixcoのM42-NEXとNO.3を加えて無限遠が出る。ただし最短は2メートル近く。



テーブルフォトするにはもうひとつ付け加えることになる。これは7sとComponon105mm。

最大伸長状態の二つのM42-NEXアダプター。手前のレンズはL39-M42リングをつけた日東光学、Kominar-E 1:3.5 f=7.5cm。


(α7s,EL-NIKKOR40mm)

アダプタは左がフルサイズ用。右はAPS-C用。(フルサイズで使用するとケラレが出ます)口金あたりの違いがわかると思います。Pixcoのこれひとつで無限が出ます。最短は0.5mくらいですか。今日入手したばかりですが、ヘリコイドのグリースが出まくる。拭いて使用。以下α7Rにつけて。下の2枚はF5.6。





F8にして対面(琴ノ尾岳,451m)の山頂を。



撮影地点から山頂までは、Googleマップ上の直線距離で計測すると8.28キロ。その鉄塔が等倍でこのように鮮明に。空気が澄んでいるとはいえ見事。非凡なレンズです。

自作カメラ

|
といっても、僕ではない。知人の出来事です。ひと月ほど前にこんな絵を上げました。



US NAVYの出物で魚雷=torpedoのマガジンです。知人が入手したものです。その折、これをもとにパノラマカメラを自作する、という話を聞いていたが先日ほぼ完成したカメラをみせてもらった。





驚きましたね。まったく。この方の技量と想像力には敬服します。下の雑誌と比べれば「大きさ」が想像できると思う。シュナイダーのレンズ、確かマミヤやハッセルの名も上げてました。適したパーツを使ったり自家工作であったり、詳細は僕にはわかりません。(聞いてても正確には理解できない。w)
光漏れや意匠の若干の修正があるそうだがいずれ「実写」がくるだろう。ついこちらまで夢見心地になるではないか。
(長文注意)
Windows10 Anniversary Updateてものが公開された。(8/2)
これは早い話、一度でもW10を導入したことのあるPCに限り、何度でもクリーンインストールができる、というもの。そんなISOファイルがある。(すでにバグも指摘されているが)
家には、W7→W10→W7のPCが一台ある。でそのPCのハードディスクを換装してW10をクリンインストすることができる、とまあそういうわけだ。うーむ。いいねえ。ただしまだ実証はしてない。



「御守り」USBメモリ。これに入れました。永久保存のメモリになりますなあ。作成に1時間以上かかった。これでBIOSからするりとW10がインスコできるってんだからたまんない。
Windows10の無料アプデが7月29日をもって終了した。その後は一切できない、というのがMicrosoftの公式アナウンスだった。いよいよ次にはW10のパッケージを買うのかなあという思いがあった。実際パッケージは2万前後で出ているし。反面、MSはなんらかの対応策を打つ、とにらんでいた。だって、W10にアプデしたあと故障したPCはどうやって救済するのかという課題は最初から分かっていたはずだ。
寄せ集めパーツの自作PCが知り合いや友達の家にある。これらもいつかはトラブルを起こし、いつかは終息する。そのときOSをどうするか気懸りではあった・・。うん、これで安心。

α7sとベルチオの開放。台所のごちゃごちゃはぜーんぶ溶かす。快感。w
ベルチオの開放=近接撮影は芯を残して溶かす。隠れたイッピンです。

(追記)ベルチオ開放をいまひとつ。エビのかき揚げを作ってもらう。あとは自分でだし取りからシコシコ励む。麺類が好きな男に「飢え死に」はない。

フジカ35EE

|
すべてα7sとフジカ35EE取り出しのフジノン45mm。けっこう絞って使いました。





以下2枚、お題は「夏のパラソル」でいけそうですな。w
今日は雲があるのになぜかこのシーンにはない。船外機の横に赤い縞模様、あれは人です。炎天下に点検をしています。





妻が不調でお昼をひとりでトンカツ。「ラオス」を携えてその「ラオス」のパートを読んだ。(たまたまそこらあたりだった)1時半ころ行ったので空いていてのんびり読書する。



今日の雲。



コダック PONY アナストン

|
youtubeアップロード映像からの切り出し。現在、1280*720のサイズにTMPGEncでエンコしたものをそのままアップロードしている。その映像からの切り出しなので拡大画像は1280*720となります。
コダックPONY828(バンタムカメラ)からの抽出。Anaston 51mm/4.5。優秀だと思います。当サイトでもAnastonで検索かければ作例がみれます。ヒマなひとはどうぞ。





なおyoutubeアップの映像は

ここでみれます。

EOS5D EF24-70mm2.8

|
WAO!5Dを1年ぶりに使う。枕元(不眠ゆえ)。テーブルならずピラーフォト。酩酊かつ酔眼。今日処方してもらった新しい目薬。ん?クラビットかあ。強烈かもね、効果は。



PC部屋に行きもうひとつ。

朝日の「ひと」。村田紗耶香が芥川賞。
読むのが楽しみだ。PDFで記事が読める。

ビッグ サラリーマン拝

|
α7Rとペンタックス macro50mm2.8。開放。



ポールは74歳。元気ですねホント。
僕が高校生のころビートルズがやってきた。
友達は「ポール・マックロトニー」とおちょくっていた。
まっこと古いハナシ。トシとったよオイラも。
ビッグコミックでは、ゴルゴも読むが「サラリーマン拝」を一番に読む。w

HPのZ210 WorkstationのRAIDがいきなり、POSTで赤字のFailedに。アレイに異常が。数日ハマってヘトヘトに。

これとは別にもうひとつ重大な案件を抱えていた。あまり手の内をあかせないが、レンタルサーバー内に不明なphpが置かれた。3週間ほど前。
これ以上は話せぬが、その対応でも疲れた。うーん。
denyすると猛烈にアクセスかけてくる。
ドミニカ!?そんな小さな島から、一日数千数万という攻撃がある。プロには勝てない。
サーバー会社から注意喚起のメールがくる。
まあ、もういつだってWebやめたっていいんだぞ、って思うしかない。w

そういえば今日の朝日の一面でも、佐賀県の17歳無職少年が県関連のサーバーを自作攻撃ソフトでハッキングし、情報を抜き取ったとして逮捕の記事がでていた。
こんなのみると、もう防御の方法はないですね。
KODAKのPONY828は1949年に作られたのですね。
僕が生まれた年です。828フィルム(バンタムフィルム)というロールフィルムを詰めていたらしいのです。Wikiで調べるとわかります。
コダックという会社はあきれるくらいすごい仕事をしてきたのですねえ。



これはPONYについていた抽出レンズ、Anaston51mm4.5をSONYのα7sにつけて撮ったものです。IDC現像でモノクロ設定。全倍にすると荒れた感じでモノクロフィルムをルーペで見ているような気分になる。後方にあるのが抜け殻のPONYです。写りの雰囲気が好きです。





ひと絞りくらいで俄然シャープになる。開放でもしまってます。





カラーの絵は色補正すれば明るくなりますが、あえて補正をしていません。α7sとコダックAnastonのできそのままです。現像はIDC。

NIKKOR-S・C Auto 50mm1.4

|
知人に会いに出かける・・。(中略)
帰りにお土産をたくさん頂戴する。
そのひとつ、NIKKOR-S・C Auto 50mm1.4をα7Rにつけて散歩に出る。









はじめの2枚はF2、猫はF5.6。部分100パーセントでシャープさがわかります。
たくさん撮ればよさがもっとわかるはず。日没近かったので今日はこれまで、というところですが、これはたぶんいいレンズだと予感しましたね。うむ。
ニッコールは左に回すのを思い出しました。モノクロで出したらもう一度20年前を思い出しました。いやはや。
村上春樹=特別寄稿「ベルリンは熱狂をもって小澤征爾を迎えた」(文藝春秋6月号)を読んでため息が出た。
どこまでもシアワセな男だ。
序曲エグモントがここまで届くがごときだ。ひとつひとつのエピソードに臨場感があり、しかもゴージャスなのだ。いやはやホントにうちのめされる。うらやましい。w
気になるかたは手に取って読んでみてください。

以下の絵はタイトルに関係ありまっせん。雲はきれいだし・・活字離れ=嫉妬心を解放=外へ。風車を動画にする。(いじましいw)
α7RとコンタックスT3抽出レンズ。
動画からAVCHDを切り出す。よって拡大画像は1920*1080。

アンジェニュー35-140mm3.5

|
曇天。いつかやってみようと思っていた。
NEX-7と35mmシネマ用レンズ、アンジェニュー35-140mmでのセルフポートレート。
着の身着のまま即現場へ。
自身のための撮影メモなれば要なき方は見ぬがよろし。w
それにしても短足の男だ。
顔はまるでビキちゃん(蛙)じゃないかよ。

①距離3.8メートル。(足元。ビニールひもが見えます)
レンズ刻印上の距離は2メートルを少し下回るくらい。
②画角35ミリワイド側。
③絞りF8。概ねしくじらない。
④ヘリコイドチューブを使うとがたつきが出るので、FOTGA M42-NEXアダプタを使用。
⑤セルフタイマ10秒後3枚撮りモード。
⑥三脚使用。マンフロット055。
⑦SILKYPIX現像。補正なし。



⑧全身を入れるとなるとワイド側になる。それでも換算52.5。距離を長くすればもっと風景を取り込めるがセルフタイマとの競争になる。
急ぎ走り、ニッと破顔一笑。人目にはほとんど人格破たん者ですね。w
上の拡大画像は長辺1200だが、NEX-7の等倍は長辺は6000ピクセルある。モンベルのロゴも首のほくろもきっちり写し込む。立体感がいまひとつだが、APS-Cだから中判と比較するわけにはまいりません。w


長文注意。
α7RとアグファSOLAGON50mmでの記念写真。
3月10日朝一番にポストに入っていた「文藝春秋」4月号。本日発売。
これからカッター入刀なので、まずはお姿を、と。w

さて。川本三郎の「一人旅」。
切り裂きジャックはこれを紹介したいのです。
まあ読んでみてください。PDFにしています。倍率は100%固定です。



閑話休題。
僕の場合、その一人旅ができなくなった。
花王の新しい「リセッシュ」がホテルに配備されるようになったのが原因。
美術館巡りの定宿にしていた(会員でもある)上野のMガーデンホテルからも、新しいタイプの香りを枕にかけてお休みください、とメールが来るではないか。
僕は花王の「リセッシュ」に、アレルギー症状があり、ミストが漂う部屋に入れない。

これがもとで20年間上京していた習慣を昨年やめた。
僕には川本式旅もできない。妙案はないものか。

だが、「リセッシュ」問題だけではない。爆買い外国人と宿を奪い合うような目にあいたくない。w
楽しみを別案に変更してもいいのだ。
人生におけるかかる問題はつまるところ「効果」の問題に過ぎない。効果の変換装置を刷新すればよい。
津島佑子の『黄金の夢の歌』を読んでみる。遠い気持ちになれる。それは旅の効果に似る。
そんなもんです。

もうひとつアグファSOLAGON50mm。

今季二人出た芥川賞、滝口悠生の『死んでいない者』を読む。
先の本谷有希子の『異類婚姻譚』もそうだし、前回の又吉直樹の『火花』・・。物語は今様の装いをまとって次々紡がれる。
六畳ひと間のようにも狭い世界のテリトリーで
そこにはしかし込み入った事情がある。日常の(非日常か)些事がハナシの中心に居座る。
社会学の聞き取り調査にふれるような気分で読むが、読んでる当人はそれで時間をつぶせる。ありがたいことだ。

若い生き物が現れるその傍ら古びた者らは去ってゆく。
津島佑子は68歳というから僕と同じ団塊の世代だ。少し早い死だとおもう。


(7sとRollei Sonnar2,8/40)


(7sとNEOKINO改)

Planar 35mm3.5

|
Planar35mm3.5。
当の個物写真は、

ここにあります。

α7sにつけるとこんな感じ。



作例。





マニュアル撮影しています。下の縦撮りのデータ。



もうひとつ。



「新しくなったBose」です。w
SoundTouchで、システムをWi-Fi化。インターネットラジオが聴けます。セットすれPCなしで使える。
今回のモデルチェンジの「ウリ」です。
モニタにある絵は、PCでプリセットしている場面。
日本発信のOTTAVAは当然入れます。あとはジャズ。
6個までリモコンボタンのプリセットができます。
遊べます。
カバー写真が誰の手になるものか気になっていた。
読み終えて、あちこちひっくり返したりして、アラーキーだと知る。なるほどね。



『三人屋』と併行して読み始めた。(そっちは済み)
途中からジジェク『事件』と岸『断片的な・・』が加わり26日には『ビッグコミック』もやってきた。w

村上春樹のコスモポリタン的な生き方がよくわかる。彼はずいぶんストイックなんですね。終始楽しく読めた。
たのしめる、といえば原田ひか=三人屋も同様にずんずん読みましたよ。じゃもひとつ別の作品を読んでみる?と問われれば・・ううむ。
いたしかたがないことですよね。

写真は7sとペンタックスマクロ50mm2.8。開放。横に「みせびらかし」みたいに鎮座するのはアンジェニューの35-140mm3.5。

コダック ポニー PONY

|




コダック、PONY抽出、Anaston51mm4.5。

ビッグコミックには太田和彦の居酒屋コラムがある。
サムネールから記事をPDFで配置しています。



以前、下関の居酒屋訪問をTVでみたことがあった。
こんなのは身銭を切ってやってんでしょうかね。w
先日、横浜は野毛の名店が店じまいする記事を読んで、ひとつはそれでビッグコミックを定期購読することにした。
困るのは、インキ(インク)のにおいがきつくてマスクをつけなきゃ読めないこと。うむ。

NIKKOR-H 48mmf2 Windows10

|


NIKKOR-H 1:2 f=48mm(Mマウント改造)の記念撮影。
こんな絵をすぐにも作りたがる変な男だ。w
α7sとSonnar85mm f=2(Contarex)にて。

閑話休題、拡大画像でわかりますが、Windows10のタスクバーに
新しいブラウザであるedgeのほかになじみのIEもありますね。
これは「すべてのアプリ」→「Windows アクセサリ」に折りたたまれて(隠されて?)います。
それを「タスクバーにピン留め」しています。
昨日、知人のPCにWindows10の手動インストを実施しました。その際この措置を実施。
帰宅後自分のPCにもやりました。

もうひとつ。
古いマシンはアップグレードのフラッグがたっても、結果は「すいません」と断られます。当たり前だといえばそれまでだが、思わず笑いました。
そんなら「案内」するなと言いたいかもしれませんが、
KB2952664やKB3035583、それにIE11のなせる自動的な罠ですから、白いフラッグがたつことは仕方がないのです。

<

planar 50mm 1.4 HFT

|
長文記事にご容赦を。



 7sとPlanar 50mm1.4 HFTの取り付け部。
意匠も奇抜な(!w)抽出・改造レンズ。
しかし性能にはなんの欠落もありません。
それどころか世界にひとつのアレンジメントです。
絞り調整は以下のように無段階。たぶんオリジナルとは別物だと思う。
①Pixco C-NEX(M42改造)
②PENTAX HELICOID EXTENSION TUBE
③Planar 1.4/50 HFT
④SONY 49mm_Cap



 ドゥルーズのいう「差異」はここにも。
差異が発生する、そうすると人は差異を生きる=反復する。
シャシン行為の情動とそれに続く様態は、かくて生きる哲学となる。
とすると、製作者の知人もまた、真正な「哲学の人」でないはずがない。

あはは。また大見えを切ってしまった。どすこい。

寫眞機商コウジヤさんの記事によれば、元は金属鏡胴のドイツ製です。

はい。作例。(拡大画像でどうぞ)







ええなあ。感じる。
IDC現像。モノクロもIDCのデフォルト。階調もなだらか。うむ。
ミセにモックを持ち込んで作画するなんてあつかましいけど・・。

以下は遠景。



M42-NEXアダプタ ケラレ

|
 2枚の絵の差異は近接撮影のケラレの有無です。
サムネールでもはっきりと判別できるので拡大画像はありません。
撮影はα7RとCOLOR ULTRON 1.8/50です。





遊びをしていて気付きました。
上のケラレなしはこのようにして撮影。(拡大画像あり)



で、下のケラレありはこのスタイルで撮影。(拡大画像あり)



 ケラレが出ないのはベローズを使ったから?
いやそんなことはないよね、と・・・。

これは、アダプタに原因があるのでした。
ベローズのアダプタの銘は、
FOTGA M42-NEX とあります。ヘリコイドはついてません。
もうひとつは
M42-NEX/M こちらはヘリコイド付き。
このヘリコイド付きのM42-NEX/Mをフルサイズ機で使うと、近場でケラレが出る。
レンズの鏡筒が長いほどケラレが多い。

そしてふたつのアダプタのEマウント取り付け部を比較すると、なんと形状が明らかに違います。
てすさびでこんな「発見」をするなんてラッキーです。何をいまさら、ですかね。w
M42-NEX/Mヘリコイド付きはもともとNEX(APS-C)時代のもので、フルサイズを想定してないのでしょう。
そういえばこのアイテムは最近ネットで少なくなったような気が・・。
一方のFOTGA M42-NEXは、名こそNEXですがフルサイズでもオーケーということでしょう。
調査したところ、世にはフルサイズ対応のヘリコイド付きのアダプタが現に出ているようです。少し値がはりますが。
いやあ、迂闊だったなあ。
八木一夫(陶芸家)についてはご自身で検索して人となりや作品を知られたし。
これはNHKのアーカイブから。1981年の「日曜美術館」。司馬遼太郎58歳ころか。

①八木は「センティメント」を造形化した。
②陶芸の歴史も「まねし」であるが、彼はどこにも属しないはざまのニンゲンだった。
③純粋哲学の偉い先生です、あ、そうですか、でおしまい。要は自分で考えるひとにならんと・・・うんぬん。
司馬遼太郎の 独壇場です、w。

6分半ありますがどうぞ。
なにかヒントがありそうな・・。
TS抜いちゃって、NHKさんホントにごめんなさい。

 ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化であり、絶対に歴史の一部ではないからです。
歴史から締め出されても変身という手段にうったえ、まるで別人のようになって再び姿を見せたかと思うと、まったく予想もつかなかった外観に隠れて、社会の領域をつらぬく逃走線に忍び込むあたりが、ノマドのノマドたるゆえんなのです。
ここに私たちとフーコーをへだてる違いのひとつを見ることもできるでしょう。つまりフーコーにとって、戦略でがんじがらめになった閉域が社会であるとしたら、私たちが見た社会の領域はいたるところで逃走の水漏れをおこしていたのです。68年5月は歴史のなかにひとつの生成変化がなだれこんできた特異な出来事であり、だからこそ、歴史学にはこれがさっぱり理解できなかったし、歴史にしばられた社会はこれを自分のものにすることがまったくできなかったのです。
(ドゥルーズ『記号と事件』第4章)

 シャシンしない日は「ほとんど」ない。
ドゥルーズやフーコーを読まぬ日は「まったく」ない。w
生成変化する現動態の生き物だから、ボクは毎日哲学をしています。
というか、ひとはみな、逃げてゆく「いまこの時」を鷲づかみにし、はたまた検証し、すなわち哲学のなかに生きています。
SNSやLINEなんかには及びもつかないスピーディなシナプスがわが小さな脳に生成し、進むかと思えば引き返し・・そうノマドを生きることになるのです。


(レンズSOLAGONを。7s/GR28mm改F5.0相当)

NEX アンジェニュー35-140mm

|
 アンジェニュー Angenieux 35-140mmをNEX7で。
組み合わせが久しぶりだ。(拡大画像あり)







 このレンズを使った者だけが知る世界がある、といえば
少し傲慢な謂いになる。
それくらい独特のものがある。そのひとつがシネレンズ特有の背景処理。
フォーカスのない場所は一気に溶かす。

GIFアニメのリサイズ

|


 α7sとGR28mm改#3(F8相当固定絞り)の最短撮影15cm。(拡大画像あり)

モデル=コニレット(Konilette:禁煙グッズのニコレットとは別物 w)。
ぼけはなだらか。いいレンズです。

もうひとつのモデルは「現場監督」。
こんな場所に配置して撮ると似合いますなあ。
SDC現像で、Photoshopで白黒化。ブルーフィルタをかけてます。
α7RとSTOKアダプタ+EF24-70mmにて撮影。



 さて。本日4/21のgoogleトップのGIFアニメ。
オリジナルをリサイズしてます。なんか楽しい。
(google著作権様、ゴメン、許して。)



 リサイズの方法ですが、
Photoshop使っている方なら、全レイヤーを選択してサイズを変えるだけでオーケー。
Web用保存の時にGIFを選択してくださいよ。w

Kodak Ektar 50mm F3.5改

|


α7RとKodak Ektar 50mm F3.5改で陽が差してきた前庭を。
テスト撮影みたいなもの。(拡大画像あり)

デジタルカメラとの組み合わせだから断定はできないが、
なにげに昔のコダックのフィルムを思い出させる風合いです。

下は猫アタマ部の等倍。



もうひとつ。



下は中央部の等倍。

NTT フレッツスポット

|
 Web認証方式のNTTフレッツスポットのこと。
「フレッツスポット 使い物」とググれば世評がわかる。
ホントに人気がない。評価はゼロといっていい。w 天下のNTTのWi-Fiなのにねえ。
かくいう僕も現場で(スタバ)チェックしてみた。
うーむ。ちょっと使いにくい。Web認証方式というのは、エリアでその都度ログイン画面に向き合う。

GMOとくとくBBの解約が決定したので、次なるモバイルをどうするか。トシだしこの際モバイルから勇退してもいい。

一昔まえ(といってもつい2、3年前だが)とは事情は明らかに異なる。今やのんきにセキュリティなしのフリースポットに接続することはできない。
スタバのSSIDはNTTWEST-SPOTではなくNTT-SPOT接続だ。(この現象がいまひとつわからん)
セキュリティ(暗号化)はWEPだ。WEPは現在「解読」可能ということになってる。NTTのアナウンスでも危険性について触れている。
NTTWEST-SPOTはWPA2-PSK認証でAES。まあ安心できる。

スタバなら店のWi-Fi(at_STARBUCKS_Wi2)があるじゃないか、と思いますよね。でもこれは素裸のWi2です。
まあ地図アプリくらいならいいけど・・いやそれも位置情報が・・うんぬんかんぬん。
NTTにも「設定不要」のWi2があります。怖い。w



(7R/STOK_EF16-35mm)

フーコー ギリシャ回帰

|
 1986年、フーコーの「自己の技芸」についての聞き手クレール・パルネに対するドゥルーズの言。
ドゥルーズがフーコーにどれほど直感的に惚れ込んでいたか、手にとるように読める。それにフーコーがその対談の場にいるかのような実に生々しい臨場感がある。そんなドゥルーズの様態、分析のテクネーも素晴らしい。
このブログ記事タイトルで検索がオモテに出るかな?でないだろうな。SEO的には僕の力量は明らかに不足してるもんなあ。
ま、ともかく「自炊」して原訳(宮林訳=これ改行なし)のままアップする。あなたがドゥルージアンで、さらにはフーコニストで、ついでに若き30から40代の男であれば・・ジイの「読んde!!ココ」自炊の労苦も悦びに変容するってもんですな。w
あ、しかし、以下のドゥルーズの言はカレの61歳時です。あるいはあなたがその年齢になればもっと「みぞおち」の理解が降りるのかもしれません。老婆心かな?

/////////////////////////////////////////////

パルネ
そうはおっしゃいますが、あれはやはりギリシア人への回帰なのではありませんか。そして「主体化」という言葉は、主体の再導入につながる曖昧な表現ではないでしょうか。

ドゥルーズ
ちがいます。ギリシア人への回帰などありはしません。フーコーは回帰というものが大嫌いでしたからね。自分で体験したこと以外を語ろうとはしなかったし、 自己の抑制、いや、もっと正確にいうと自己の生産は、フーコーにおいては自明の事柄だったのです。フーコーが、主張しているのは、ギリシア人は主体化を「創始」した、自由人の競合関係(競技会、雄弁術、恋愛など)という体制がそれを可能にしたのだということです。けれども、主体化のプロセスは並外れた多様性をもっています。キリスト教世界の様態はギリシアの様態とはまったく別のものだし、しかも主体性の生産は、宗教改革を待つまでもなく、すでに原始キリスト教の時代から、個人と集団の別を問わず、さまざまな道をたどってきたのです。キリスト教徒における新しい生存の美学を論じたルナンの文章を思い出すべきでしょう。ルナンが問題にしているのは、皇帝ネロもそれなりに助長してしまった、そしてアッシジのフランチェスコに最高度の表現を見出すことになる美学的な生存の様態です。狂気との、そして死との対決。フーコーにとって重要なのは、主体化はいかなる道徳からも、そしていかなる道徳的コードからも区別されるということです。
主体化は倫埋と美学にまたがるものであり、この点で知と権力の性格を帯びた道徳と対立するのです。したがってキリスト教の遺徳が存在し、もう一方にはキリスト教的倫理とキリスト教的美学の複合体が存在する。そして両者のあいだであらゆる種類の闘争が戦われ、あらゆる種類の妥協がおこなわれることになるのです。いまの時代についても同じことがいえるでしょう。私たちの倫理とは何か、私たちの審美的生存を産み出すにはどうしたらいいか、現行の遺徳的コードには還元できない私たちの主体化のプロセスはどのようなものになるのか。どのような場所で、そしてどのようにして新たな主体化はあらわれてくるのか。いまの共同体には何を期待すればいいのか。ですから、フーコーがギリシアまでさかのぼったところで、『快楽の活用』やそれ以外の本で彼が関心をよせるのは、いま現在おこっていることであり、いまの私たちが何者であり、何をしているのかということなのです。現代に近いものであれ、遠いものであれ、歴史的形成は私たちとの差異において分析され、この差異を点検するために分析されるにすぎないのです。私たちほみずからに身体を与えるけれども、それはギリシア的身体やキリスト教的肉体とどう違うのか。主体化とは、生存の様態を、あるいは生の様式を生産することなのです。
 ならば、「人間の死」という主題と、審美的主体化という主題のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。道徳の拒絶と倫理の発見のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。問題に変化がおこり、新たな創造がおこなわれているのですl。それに、主体化は生産されるものであり、「様態」なのだという事実をおさえておくだけでも、「主体化」という言葉のあつかいには相当の用心が必要だということはじゅうぶん理解できるはずです。フーコーは「自己そのものと正反対であるような自己の技芸」という言い方をしています。もし主体があるとすれば、それは自己同一性なき主体なのです。プロセスとしての主体化は一種の個体化であり、個体化は個人的であっても集団的であってもいいし、一個人についておこなわれても、多数についておこなわれてもいいい、そして個体化にはさまざまなタイプがあるのです。「主体」タイプの(それはきみ、これはぼく、といった)個体化もあれば、(事件)タイプの、たとえばそよぐ風、気圧、一日のうちのある時間、戦いといった、主体なき個体化もあるのです。ひとつの生や一個の芸術作品が主体として個体化されているかどうかは、まったくもって定かではない。フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。日常卑近な状況でも、すでにそうでした。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ気圧の変化とか、一種の(事件)、あるいは電界か磁場など、人間ならざるものに見えたのです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の世界に属するものではなかったのです。強度がいくつも集まったような状態。そんなふうであるとか、そんなふうに見られるということがフーコーを苛立たせたこともあります。しかし、フーコーの全作品がそうした強度の束によって培われていたというのも、やはり否定しようのない事実なのです。〈可視的なもの〉も、フーコーの場合には輝きやきらめき、あるいは稲妻のような、光の効果だった。言語は巨大な「ある(ilya)」が三人称に置かれたものにほかならないし、要するにこれが人称の対極に位置するわけです。フーコーの文体を成り立たせる強度の言語。これもシユレーターとの対談に出てくることですが、フーコーは「愛情」と「熱情」の対比を敷桁してみせ、自分は熱情の人であって愛情の人ではないと述べています。この文章のすばらしさは、即興の対話ということもあって、フーコーが愛情と熱情の区別に哲学的な意味合いをもたせようとはしていないところにあります。無媒介的な、生のレベルで語っているからです。愛情と熱情の区別は恒常性と非恒常性の方向でなされているのではない。いちおう同性愛と異性愛を話題にしてはいますが、かといって同性愛と異性愛の対比をおこなっているわけでもない。フーコーが述べているのは、むしろ、個体化はふたつのタイプに分かれるということなのです。一方の愛情は人称にしたがって個体化をとげ、もう一方の熱情は強度によって個体化をとげる。あたかも熱情が人称を溶解させたかのように。しかしそうすることによって未分化の状態に陥るのではなく、いつも相互に相手を包みあった、可変的で連続した強度の場に浸されるようになるのです(「それは絶えず動いている状態でしたが、かといって特定の点に向かうのではなく、力が強まる時期と弱まる時期がある。白熱して燃えあがる時期があるかと思えば、おそらく惰性からでしょう、とにかく理由もはっきりしないまま、不安定な状態がつづくこともあるのです。極端な場合にはしばらく自己を保ち、やがて消えていこうとする……自分白身であるということはもはや意味をもたないのです…」)。愛情はひとつの状態であり、人称や主体の関係です。これにたいして、熱情のほうは人の一生にも匹敵する長さをもつ人称以前の(事件)であり(「私はここ十八年来、誰かにたいする、そして誰かのための熱情の状態を生きているのです」)、主体なき個体化をおこなう強度の場なのです。トリスタンとイゾルデの関係は、たぶん愛情でしょう。けれども、いま話題にしているフーコーの文章にふれて、こんな感想を述べた人もいるのです。『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフは熱情だ、純粋な熱情であって、愛情ではない、とね。じっさい、『嵐が丘』は恐るべき魂の兄妹関係であり、もはや人間とは言いきれないものを表現している(彼は誰?―狼さ……)。情動のさまざまな状態を新たに区別してこれを表現し、それぞれに異なる情動を感じ取ってもらうのは並大抵のことではない。フーコーの仕事が中途でとぎれているという事実も関係しているでしょう。フーコーが生きていたならば、生の場合と同じような哲学的射程を、熱情と愛情の区別に与えていたかもしれないのです。ともあれ、フーコーが「主体化の様態」と呼んだものについて、大いに用心してかかるべきだということだけは、きちんと理解しておかなければなりません。フーコーのいう様態には、たしかに主体なき個体化が含まれている。これが問題の核心でしょう。それに熱情も、熱情の状態も、おそらく主体化の場合と同じで、(外)の線を折り畳み、生きうる線につくりかえ、呼吸する手段を身につけるという意味なのではないか。フーコーの死に直面したつらい気持ちをいだきつづけている人たちは、あの卓越した作品が熱情に呼びかけたところでとぎれているということで、悦びをおぼえてもいいのではないかと思います。

 閑話休題。これはα7RにKODAK Ektar 1:3,5 F=5cm No 107****の容姿です。





 せんに、フェリックス・ガタリの「集合的発話者」のことを記した。その前段を「自炊」しておきます。
「シニフィアンの体系を拒絶なさる埋由はどこにあるのか、答えていただきたいと思います」に応答してガタリが語る場面。

「それは、シニフィアンなんて何の役にもたたないからさ。
そう思っているのはぼくたちだけではないし、ぼくたちがそう言い出したわけでもない。フーコーをみればわかるはずだ。最近出たリオタールの本もそうだし。
ぼくたちのシニフィアン批判がわかりにくいものに見えるとしたら、それはシニフィアン自体がどんなものでも古めかしいエクリチュールの機械に切りFげる散漫で観念的な存在にすぎないからなんだ。
シニフィアンとシニフィエを分かつ排他的で拘束力の強い対立関係には、エクリチュールの機械とともに浮上してくるシニフィアン帝国主義の亡霊がつきまとっている。そうなるとどんなものでも文字に関係づけられてしまう。それこそ専制的超コード化の法則そのものなんだよ。
ぼくたちの仮説はこうだ。暴虐をきわめた専制君主の表徴(エクリチュールの時代)が後退して、そのあとに広野がひらける、そしてこの広野がミニマルな要素群と、要素相互間にはりめぐらされた一定の関係性とに分解される。こう仮定してみれば、暴君のように恐怖政治をおこない、去勢の影をちらつかせる、そんなシニフィアンの性格だけは、すくなくとも説明できるからさ。大規模な帝国につながっていくという意味で、シニフィアンというのはどうしようもない擬古主義だよね。
ぼくたちは、シニフィアンが言語を考えるうえで有効かどうか、それすら疑わしいと思っている。だからこそ、ぼくたちはイエルムスレウのほうに傾斜していったんだ。イエルムスレウは、もうずいぶん前に、内容と表現からなる流れがあって、シニフィアンなしですませることのできる、いわばスピノザ派の言語理論を構築していたわけだからね。つまり内容と表現からなる連続的な流れのシステムとして言語をとらえ、このシステムが、離散的で 非連続な形象を組み合わせた機械状アレンジメントと合致していると考えたわけだ。」

そのあとに「今度の本ではくわしく説明しなかったこと・・・」となるわけです。

絵はα7sにリコーGR28mm(F11相当固定絞り)。知人にゴミを除去していただいた7s。
(上)ピントは正面建物。いや、よく写すレンズだ。7sでこうだからねえ。
(下)ひとりでメシ喰う。茶碗にCubeのインジケータが写り込む。そんなシーンを偏愛する。w

kyocera yashica T4

|


イオンの「刑務所作業製品展」でこれを買う。小物入れだ。背の低いレンズだったら入りそうだ。帰りがけに車の中で思わず「ハイホー!」と裏声で叫ぶ。
もう一個、キャスター付きのレンジ台のようなものも。で、家で古いレンジ台をつぶした。どこかで再利用、と考えないように。w
「バカは死ななきゃなおらない」てのはボクののことで、しばらく妻がいないことをいいことに、あれこれ模様替えしている。やりすぎて、今さっきモーラステープを2枚腰に貼った。

さて。α7sとkyocera yashica T4の抽出レンズでイオンの定点で撮ってみる。2ヶ月ぶりか?。



僕にはおなじみの定点に鏡が置かれていた。拡大画像赤丸はゴミのひとつです。
嗤うなかれ。w
それにしてもまあ、いいレンズだ。うむ。

GR1 GR28mm 改造

|
 F5固定絞りのGR28mm_改では風景は無理なのか、というと全然そんなことはない。
(α7s/GR28mm_改 拡大画像あり)



でしょう?
中央電柱の横に小さな黒いシミ、烏です。そこがピント。
ところで、左右の画像の「流れ」が顕著です。
(前ボケなのかも知れないのですが・・)
もうひとつ検証用の画像を。



左右の下隅がはっきりしてます。
リコーGR1のフィルム撮影ではこんな現象はありません。ま、7s用に抽出して撮影するとこうなるのかもしれない。
シチュエーションによる場合もある。橋の上から俯瞰するような撮影。ピントは遠くに置いてあります。
次のシーンはあまり目立たない。



別のF11固定絞りの個物ではどうなのかというと、そうでもない。
差異に満ちている。
 天座(てんぞ)というは、台所をあずかる僧のことなり。
いっぽうこのひとは出家した作家。
先の朝日=文芸時評の記事がなければ、『死に支度』を読む縁はなかっただろう。瀬戸内晴美は新潮社の「純文学書き下ろしシリーズ」の『比叡』を読んだきりだ。それが1979年。
横の「仏像」のようなモデルさん(?)は1979年に生まれた。w
それやこれやで1979年は、忘れることはない。ま、ボケたら忘れちゃうけど。
91歳の寂聴が死に支度なんて言ってる。僕はまさかそんなに生きる筈はないけど、定年退職後なにかにつけ、死ぬ準備をしなきゃ、と呟いているが、そんなのは「身振り」というもんだろう。
「覚悟」というものは、得度し出家した寂聴ですら91歳で一冊のホンをものにしなければならないくらい離れた向こう岸にあるのものなのだ。
だから結論はこうなる。「その時」がきてはじめて支度する、それが死というものだ。「覚悟」、それは現実と切断されるその場所で生成する。(ボケてなければ)

いいレンズだなあ。F5固定絞りの方。(別にF11固定も有)
(α7s/GR28mm_改 拡大画像あり)

α7s CONTAX T3 Sonnar_改

|
「正常カラーバランス」7s_夜の部。w
まずは定点観測をひとつ。ISO=25600,1/60sec。7sの「絖」(ぬめ)を感じる。7Rの「解像度」はないが、シルキーな表現。



 以下屋外シーンを。













 最後の絵には「ハレーション」が出ている。7Rでも撮ったことがある場所だ。7Rでももちろんハレは出る。全体的な夜の雰囲気は7sには及ばない。
すると結論はこうなるのか。
旅には2台もって出かけなさい。

α7s APSのレンズ

|
 (お詫び):入手時の設定のまま7sを使い、カラーバランスが不自然です。(色温度が低い)
「色味」やカラーバランスについての記事は全面的に撤回します。
「設定リセット」を施して現在は正常に撮影できています。申し訳ありません。

//////////////////////////////////////////////////////////

 APSフィルムカメラからのレンズ抽出、APS-C用レンズをフルサイズで使う、という意味での記事です。脳内記事です。w
①フルサイズのカメラにアダプターを使ってAPS-Cレンズ=18-55mmあたりのズームをつけて覗いてみる。
②ケラレがなくなるのはどのあたりからか。推測23-24mmあたりではないかと。
③キヤノンのEF-Sを削るという情報がネットで散見する。
④CONTAXのTiX(Sonnar 28mm/f2.8)あたりがAPSの究極ではないだろうか。



 さて。これはコニカ、Konica RevioCLというものです。ヤフオクで本体99円+定形外郵便250円でゲット。アドバンストフォトシステム (Advanced Photo System, APS) のカメラ。電池を入れてレンズを繰り出した場面。(拡大画像あり)
 APSフィルムカメラで単焦点レンズのものは極めて少ない。これはその数少ないアイテムのひとつ。KONICA LENS f=25mm とある。仕様によればF6.7で3群3枚のレンズ。自分撮りのミラーがポップできる。w
「コニミノ」のサイトのRevioシリーズのPDFによれば、1997年から2001年まで6機種出しているようだ。RevioCL以外はみなズームレンズ。10年ひと昔ですね。 
愛らしいカメラだなあ。w

photo pages

photos

地上の夜の天使たち