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偉大な世界文学。小野正嗣=朝日=文芸時評、村田沙耶香「コンビニ人間」。



僕は小野正嗣の芥川賞作品『九年前の祈り』(2014年)を読んでいる。なのに内容は失念している。これだから老人は救われる。も一度読んでもいいかもしれない。げんに妻は若い時に読みつくしたアガサ・クリスティーを次々に買って読んでいる。ぼくもあやかってすでに10冊以上読んでいる。笑えます。

それにしても小野正嗣は村田沙耶香をかなり評価していますね。僕も最初に「コンビニ人間」を読んだときにこれはただものじゃない、と思いました。その気持ちはその後村田作品をあれこれ読んでもあまり変わらない。偉大な世界文学、そうなのかもしれない。
3月27日の記事。



①1992年からの大江健三郎=文芸時評は記憶している。
②次期は小野正嗣、とあるので当Web内を検索したらば、4年前の記事がある。芥川賞作品『九年前の祈り』てのを読んでいる。完璧に忘却している。
記憶は自分にとってのトピックでもある。事件性がなければ記憶に残らず、というところか。

α7sとガリレオ(Officine Galileo)レンズ銘=エサオギ Esaog 5cm F2。知人工房作=M42改。
今日の記事に関係はないが同じレンズでさきほど妻に頼まれて撮った蘭。7年ぶりに咲いたそうだ。

長文注意。1/27のフロントランナー。リーバイスの501を再現した社長。顔つきがいいですね。
ペンタK20Dと43mmF1.9。補正なし。



1/26の文芸時評の右半分。



村上春樹、金井美恵子、島田雅彦らに「頑なに芥川賞を受賞させなかった時期」。これがこの国の文壇(分断)だもんね。

むかしむかし、ラジオでヘレン・メリルの「You'd be so nice to come home to」を聴いたときバックのラッパは誰だろうと思った。が、当時はそれを調査するすべはなかった。おなじようにマイルス・デイヴィスの「It Never Entered My Mind 」のピアノは誰だろうとも思った。が、わかるはずもない。ジャケットで確かめるしかなかった。ずっと後になってトランペットがクリフォード・ブラウン、ピアノはレッド・ガーランドと知った。

おそらく今は、当時の芥川賞の選考委員やその長もネットで調べれば苦も無く知れるのではないか、と思う。が、そんなことをしてなんになる。芥川賞も消費されている。(僕もそうしてますが)マスコミの視聴率競争と同じ原理です。文藝春秋社の手前味噌な戦略でしょう。だから選考委員の丁々発止に踊らされる必要はないし、「選評」はちっともおもしろくない。僕は実利本位(暇つぶし。でも必要)で芥川賞作品を読んでいる。なかにはくだらない受賞作品もあります。書物に向かう様態は、若い時分とは異なっているだろう。それはかくも「トシ」をとったからにほかならない。今がいちばん読物(「文学」と呼称する必要すらない)をたのしんでいるのではないか。
いま思いだして追記するが、石原慎太郎は「僕は芥川賞をとって有名になったんじゃない、誰も知らなかった芥川賞を有名にしたのが僕なんだ」というようなことを言っている。その通りだと思う。
ホント、爺にならんとわからんことがヤマとある。

朝日新聞さん、個人趣味の借用(食用)ごめんなさい。これ、この通り。

朝日 文芸時評

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8月26日の文芸時評。拡大すれば読めます。
小説もやりづらいのだ。



Windows10に移行して、ついにエプのGT-7000Uが使えなくなった。
es27を書き換えると、ハッシュ値が違うと叱られる。
なるほど、Windows10はセキュリティが強化されてるんだな。
この画像はhp compaqを出して、WindowsXPで読み込んだ。うーむ。
 天座(てんぞ)というは、台所をあずかる僧のことなり。
いっぽうこのひとは出家した作家。
先の朝日=文芸時評の記事がなければ、『死に支度』を読む縁はなかっただろう。瀬戸内晴美は新潮社の「純文学書き下ろしシリーズ」の『比叡』を読んだきりだ。それが1979年。
横の「仏像」のようなモデルさん(?)は1979年に生まれた。w
それやこれやで1979年は、忘れることはない。ま、ボケたら忘れちゃうけど。
91歳の寂聴が死に支度なんて言ってる。僕はまさかそんなに生きる筈はないけど、定年退職後なにかにつけ、死ぬ準備をしなきゃ、と呟いているが、そんなのは「身振り」というもんだろう。
「覚悟」というものは、得度し出家した寂聴ですら91歳で一冊のホンをものにしなければならないくらい離れた向こう岸にあるのものなのだ。
だから結論はこうなる。「その時」がきてはじめて支度する、それが死というものだ。「覚悟」、それは現実と切断されるその場所で生成する。(ボケてなければ)

いいレンズだなあ。F5固定絞りの方。(別にF11固定も有)
(α7s/GR28mm_改 拡大画像あり)

 一週間前の朝日「文芸時評」の隣のコラム。
石橋美術館(久留米市)の収蔵品の大半が東京のブリジストン美術館へ行く、という話。
拡大すれば記事が読めます。




僕はここには10数回通っている。残念だが美術館の競争も大変なのだ。

改造 使い切りカメラ

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 自己への配慮=エピメレイア・ヘアウトウ(epimeleia heautou)といえば、フーコーの「性の歴史」です。
瀬戸内寂聴の『死に支度』を僕は読んでない。朝日=「文芸時評」の記事から、ふとフーコーのことを思い浮かべた。
記事をスキャンではなく、コニカの使い切りカメラから抽出したプラスティックレンズで「写して」います。知人製作のレンズです。ほぼ実物大です。



そして以下がが記事です。最下部を読んでください。



 瀬戸内寂聴の業の深さが見えてきます。ニンゲンみなこうなのだ、と思っていいでしょうね。悪あがき=ドタバタの顛末を書く、これが瀬戸内寂聴の真骨頂でしょう。
ストイックに死するも大騒ぎして死するも、五十歩百歩なのかもしれません。

「しかけ」ではないのですが、新聞記事には気になる別の見出しが見えます。

日本の現代文学

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 多芸のヒト松浦寿輝の朝日「文芸時評」の記事。来月から変わるらしい。それにしても「こんな面白い短編集を最近読んだことがない」というのはすごい。

 今朝(11月27日)の朝日=「文芸時評」。松浦寿輝。意外性はないけど、「ドゥルーズと現代」というタイトルなのでスキャンしておきます。(拡大すれば読めます)

 学者をはじめとするアカデミックなヒトは、巷間ではすでにつねにドゥルーズを生きている非アカデミックな群像を「観取」しているはずだ。(ジブンはそうでなくても)。ドゥルーズの倫理は、ドゥルーズを読まなくても生きられている。僕はそう思っている。松浦寿輝の時評に「意外性はない」とフツーに言ってるつもりです。

松浦寿輝と村上春樹

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 松浦寿輝の文芸時評。村上春樹の新作には「触れないわけにはゆかない」事情がつねに、すでに、ある。僕の子供は発売当日数件の書店を回ったが売り切れていたそうだ。何なんだろうね、この現象。さて。文芸時評。松浦寿輝がこんな感想をもっているとはね。村上流にいえば、「ふむふむ」となる。「書評」としてのこの言表は新作をよく「評価」していることにはなってない。さりとてあえてとりあげたからには何か言を弄せねばならない。そしてわれわれには、はやく切り上げたいときにこそ長々といとまごいを詫びなければならない場合がある。しばしば、ある。拡大すればちょうど原寸大で読めるようにしています。詩人としてはもちろん、作家としても、なにより思想家としての松浦寿輝が村上春樹に「苦慮」しているさまが感得される。いやしかし、この記事を読んでるあなたはまったく違った印象をもつかもしれない。わたしたちの「イメージ」なるものは実体でも観念でもない。(たしかベルクソン)。まあ、無根拠のイメージです。あなたの実感はまた別でそれを決めるのはあなたです。

「自同律の不快」は大江健三郎の朝日=文芸時評で
知る。90年代初頭と思う。
時評は単行本にもなったが、自分の書架にさがせない。
たしか司馬遼太郎か五木寛之かそこいらを批判していたと思う。
根拠になったのが「自同律の不快」。

つまりはそれは「主体」=「視点」が不動で
自己同一化に向けた策、回収の為の自己模倣・・
そんなときにでてくる感情だろう。
それは「不快」でしょう、と思ったものだ。


ベルクソンの円錐で、先端Sの「様態」は、
常に差異をともない出現するものでしょう。
これに対して、
「自同律の不快」はSを疑似的=意図的に固定させて
作家が安定的な主語=定点として物語ることにある、
とでもいいうるだろうか?
「記憶」と「自同律の不快」を30代から思い続けてきて
いままた、ドゥルーズ周辺を読むことで改めて考える。

大江健三郎といえば、3月11日の震災に関連して、
「ニューヨカー」に寄稿してます。ググれば読めます。
文中「記憶」という術語が現働の有効なバネとして、
用いられている。

-その人たちの記憶があることによって、
政治的現実主義の名のもとに
核兵器の破壊力を軽んじることができません。-
and their memory prevents us
from minimizing the pernicious nature
of nuclear weaponry in the name of political realism.

もうひとつ大江健三郎について思い続けてきたこと。
20年くらい前でしょうか、小説をやめる、と宣言しました。
で、スピノザを読む、と。
ふむふむなるほどと当時思ったものです。
その後小説のほうは再開したようですが
スピノザのほうはどうなったのでしょうね。
生活のなかに実践的に導入してるのでしょうね、きっと。

自同律の不快

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先日「福新樓」で食べた後、大名を歩く。



疲れる。「ジュンク堂」にまわり、シアトルズベスト側の席を確保。
船木亨=放送大学を読む。(3度目)。だが睡魔が襲う。
読み始めたんだが、頭のなかは他のことを考えていた。
ジョン・バースの『酔いどれ草の仲買人』のどこかに
ヘンリー・バーリンゲームの言、「私とは私の記憶にすぎない
もひとつ、同じころ大江健三郎=朝日文芸時評の「自同律の不快

当時から気になっていた。
当時というのは1979年あたり。30歳になったばかりか。

これらはいうまでもなく「同一性」、「存在」、「時間」うんぬんの
諸問題である。よって目下の諸問題でもある。

バースを知る人は少ないかもしれない。ググってくださいませ。
植草甚一スクラップブック17=『アメリカ小説を読んでみよう』に
丸谷才一・佐伯彰一との鼎談がある(1970年)。拡大画像アリ。

ここの朱線部が『酔いどれ』のことです。
『酔いどれ』が野崎孝の名訳で日本に紹介される10年前には
JJこと植草甚ちゃんは唾つけていたのですね。さすが。
『酔いどれ=THE SOT WEED FACTOR』自体は1960年の作品だから、
日本には20年遅れてやってくる。まあ妥当でしょうか?

バースは、集英社版「世界の文学」で日本デビューをした。
これがその集英社の企画です。拡大アリ。


まあ、すごいもんです。圧倒的です。
この38巻は、捨てずにいまだに保有してます。(笑)
これくらいエポックメーキンな企画はない、とすら思う。
(いや、ま他にもありんすよ)

なんだなんだ、僕は今日は
「私とは私の記憶にすぎない」と「自同律の不快」について
ベルクソンやドゥルーズにからめて「表象」したかったのに・・
眼痛がしてきた。ちょっと次回にします。ごめんなさい。

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