自同律の不快

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先日「福新樓」で食べた後、大名を歩く。



疲れる。「ジュンク堂」にまわり、シアトルズベスト側の席を確保。
船木亨=放送大学を読む。(3度目)。だが睡魔が襲う。
読み始めたんだが、頭のなかは他のことを考えていた。
ジョン・バースの『酔いどれ草の仲買人』のどこかに
ヘンリー・バーリンゲームの言、「私とは私の記憶にすぎない
もひとつ、同じころ大江健三郎=朝日文芸時評の「自同律の不快

当時から気になっていた。
当時というのは1979年あたり。30歳になったばかりか。

これらはいうまでもなく「同一性」、「存在」、「時間」うんぬんの
諸問題である。よって目下の諸問題でもある。

バースを知る人は少ないかもしれない。ググってくださいませ。
植草甚一スクラップブック17=『アメリカ小説を読んでみよう』に
丸谷才一・佐伯彰一との鼎談がある(1970年)。拡大画像アリ。

ここの朱線部が『酔いどれ』のことです。
『酔いどれ』が野崎孝の名訳で日本に紹介される10年前には
JJこと植草甚ちゃんは唾つけていたのですね。さすが。
『酔いどれ=THE SOT WEED FACTOR』自体は1960年の作品だから、
日本には20年遅れてやってくる。まあ妥当でしょうか?

バースは、集英社版「世界の文学」で日本デビューをした。
これがその集英社の企画です。拡大アリ。


まあ、すごいもんです。圧倒的です。
この38巻は、捨てずにいまだに保有してます。(笑)
これくらいエポックメーキンな企画はない、とすら思う。
(いや、ま他にもありんすよ)

なんだなんだ、僕は今日は
「私とは私の記憶にすぎない」と「自同律の不快」について
ベルクソンやドゥルーズにからめて「表象」したかったのに・・
眼痛がしてきた。ちょっと次回にします。ごめんなさい。

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このページは、が2011年5月29日 11:28に書いたブログ記事です。

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