" href="http://hisaaki.net/mt/cgi-bin/mt-search.cgi?search=%E6%95%A3%E6%AD%A9&Template=feed&IncludeBlogs=2" />

Results matching “散歩” from 新地のドゥルーズ

α7sとライカヘクトール7.3cm。M42接続中間リング付き(工房製)。
撮影日=2023/12/08。拡大画像あり。時系列。















余談。妻が購入したホン。



妻は左は完読したが右のはすぐにほかした。新本だしちょっともったいないので自分が読んで「救済」してやろうかなと思っている。(笑)

リコーR1s eマウント改造

|
リコーR1s(1995年)についていた、30mmF3.5抽出レンズ。C-NEXの文字が見えますが、eマウント改造です。(知人工房作)絞りは固定でF11以上と推定。ヘリコイドはカメラ固有のものと思う。フルサイズでもAPS-Cでも使える。



今回は6300で。夕刻6時前に散歩ついでに。すぐに暗くなって最後はフラッシュを使用。







挽回をと翌日も。







LEICA Hetor 7.3cm

|
α7sとヘクトール7.3㎝。3月18日。散歩道の桜はまだ咲ききれないでいる。これはヨシノではなく異種の花だろうか。(不明)









ヘキサー7.5cm。ほぼ開放。1/200秒。自然光。
知人に頂戴したいわくつきのロレックス。
夕方の散歩。絞りは適宜。フレアが出る。











---------------


α7sとコダックVR35 K4=38mm 抽出。M42改造。このレンズが好きでけっこう使っている。
岸政彦と國分功一郎の討議。何度も読んでみる。「中動態」は國分功一郎の現在「売り出し中」のターム。『中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)』を読んではいないが、書評はあちこちで好評だ。そして僕はそれらの書評で、なんとなくわかった気でいる。w
というのも、もともとスピノザが使ったラディン語(古代スペイン語)であるというパセアルセ。pasearse とは「自分を散歩につれてゆく」というような意味。つまり「散歩」というかランブリング(rambling)は、自動詞的(自律的)なのかそれとも他動詞的(他律的)なのかどうもあいまいだ。
「徘徊」だってそうだ。「徘徊」の様態はどう説明すればよいか。意志をもって徘徊はしない。「中動態」に近いのではないか。
岸政彦といえば『断片的なものの社会学』の冒頭=犬のエピソード。あれを読んだ者はずっと記憶に残るだろう。ふたりの討議はおのおのの個性が滲み出ておもしろい。若い人の討議に参加するようにも読める。(國分43歳:岸50歳)

下は今朝歯科に通ったときに雑誌を。

来ましたね。この記事には驚きました。(拡大画像あり)



fMRIによる脳画像の応用は、ジョシュア・グリーンの「トロッコ問題」でも知られています。そのラボでは、道徳やら倫理はどこに由来するのか発生源を見極め、たとえば善悪を自己が認知・判断する瞬時(?)のシステムを脳科学的に解明しようとしています。
今回の京都大学のはさらに進化したものと僕には受け止められます。うむ。
「トロッコ問題」についてはWikiで知れますが、グリーン本人のサイトでは当の記事(英文)が、

ここで読めます。

このニュース、僕がまっさきに想像した応用例は、障害で意思疎通の困難なひとが自分の意思を外に向けて容易に出力できる、というものでした。

さて。「対象a」に触れて(触れることができるのか?)至福の時間を得る。精神分析をぬきにしては説明できないことがらも、ニューロンの作用ではなかったのか、時代の主流はそう僕を説得する。w
脳神経科学の成果はけっこうバイアスがある。これまでの言語論的知見の修正を迫る、とまあそこまできてます。

しかし、ゆっくり考えてみたい気もする。
これって単に「医療行政」やらひも付き学術系の罠かもしれない。しかも京都大学のスタッフすらそれと気づかない罠かもしれない。w
第一、そんなにMRIを脳に駆使していいものか。僕たちの国は世界一CTやらMRIを頭部にかけまくることで知られてる。
成果は認めるとして、散歩の折に咀嚼しながら考えてみましょう。
長文注意。
ビッグコミック11.10号。「医者を見たら死神と思え」(近藤誠監修)



ここをみて閉じた。この号は読み終えてはいないのだが即時処分することに決める。散歩に出る時間だ、そうしよう。その前に雑誌を届ける書店に電話。ビッグコミックを購読しない旨伝える。「ハイわかりました」。一件落着。
前立腺ガン全摘術を受けた僕にはこのマンガはよろしくない。みなければいいじゃん。いや怖いもの見たさでみる。ニンゲンはそんな風にできている。そすっと、オレもオペしなければよかった、と思うかもしれぬ。それらの思いは傷となる。ならば「君子危うきに近寄らず」(君子じゃないけどさ)。これが近年の僕が習得した技法といえばそうもいえる。イヤなものはとりあえず根元から切断する。いったん背を向けたら振り向かない。看過する・・。w

α7RにEL-NIKKOR40mmをつけて散歩に出る。向こうから自転車少年がやってきて通り過ぎる。逆光になるとにわかに乱れる。ピントはアブラススキの穂。開放撮影。SILKYPIXのトイ風現像。





F8です。こちらは。



NIKKOR-S・C Auto 50mm1.4

|
知人に会いに出かける・・。(中略)
帰りにお土産をたくさん頂戴する。
そのひとつ、NIKKOR-S・C Auto 50mm1.4をα7Rにつけて散歩に出る。









はじめの2枚はF2、猫はF5.6。部分100パーセントでシャープさがわかります。
たくさん撮ればよさがもっとわかるはず。日没近かったので今日はこれまで、というところですが、これはたぶんいいレンズだと予感しましたね。うむ。
ニッコールは左に回すのを思い出しました。モノクロで出したらもう一度20年前を思い出しました。いやはや。

セブンの安売り,NEOKINO

|


ウチの近くのセブンは3月になると限定商品の割引がある。
このシャンパンも500円引きだったので買ってしまった。開栓前の記念撮影。
撮影はNEX-7とNEOKINO。SILKYPIXのノーマル現像。

以下は夕方の散歩時。インパクト、存在感がある。遠景でもムーディだ。






ホドラー展

|
 α7s。コンタックスT3/35mmF2.8。
(拡大画像あり)



 ひさしぶりにこれ(ボード上の紙記事)をやるなあ。中央の美白のおばさま(あばあさま)は浜美枝という女優です。
若い人はまあ知りませんよね。僕も記事をみて、そうそうと思いだしたくらいだ。植木等のスーダラなんとかシリーズの映画にでていた。
 この方、悠々とした老後を生きてらっしゃる。ストレッチと7000歩のウォーキング。美術館めぐり(他人にも勧める)。たまに特定の男性と食事。ふむふむ。
そうか、もう周りが騒ぎ出すことはないわけだ。うむ。同時代の男たちも次々と老いてきたわけだよなあ。

 その美術館めぐりといえば今、上野の西洋美術館では「ホドラー展」をやってるんです。で、これが来年は西にやってきて、兵庫県立美術館で1月24日から。いきたいなあ。
兵庫県立美術館って安藤忠雄の設計らしいですね? 写真をみればなるほどと思える。ここんところいろいろ批評(激しい批判)されていますね。直島のベネッセの美術館も彼ですね。僕はいいと思いましたがね。穿って「読む」と違うそうじゃない、となるわけですね。
あ、ホドラーですよね。『木を伐る人』の。
ちょっと待ってください。散歩に出ます。
 フジカ35EEからの抽出=フジノン45mm/F1.9。
抽出(改造)フジノンについての詳細は当時の記事をどうぞ。
(クリックで当時の記事が出ます)



 さて、朝のゴミ出しのついでに撮った定点観測=雨上がり12月初旬版。
なんの変哲もないフツー過ぎる絵。w







次は昨夕散歩時のフジノン。出だしはまだ明るかった。







つげ義春のこと

|
 少し長いがインタビューの記事を紹介。

//////////////////////////////
 後のキリスト教団は嫌なんですけど、イエスの言葉は深いなあと思って。一例を挙げると、「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである」という言葉に出合ったとき、直感ですぐ理解できたのですが、後年の研究では貧しい人とは「乞食」のことだったのですね、乞食は社会の枠組みからはずれ、関係としての自己から解放されています。自己意識も消えて、生も死も意識されることがなくなり、生きていることの不安も消える、その状態こそ神の国、天国ではないですかね。

 「夢の散歩」は偶然出会った男女が泥のぬかるみの中でいきなり性交をする話ですが、そうなるまでの二人の関係や必然的な理由などはぶいて、ただ唐突な場面を即物的に描写しただけなので意味がないんです。そうすると意味を排除したシュルレアリスムのように夢の世界に似た印象になりますね。現実もあるがままに直視すると無意味になりますが、夢はさらに無意味を実感させてくれるので、リアリティとは無意味によってもたらされるのではないかと考えているのです。
 この作品のタイトルは「夢の」としていますけれど、こんな夢を見たわけではなく、リアリズムから発展してこんな風に……。でも駄目ですね、説明をするのが難しくて。
 ところがその後カフカを読むようになったら、やはり出来事の描写だけで意味がなく、同じ方法をやっていたんですね。でも自分はカフカ流のマンガでは食っていくことはできないので、結局この虚構世界を超える意味でのリアリティから後退して、もとの私小説風に戻ってしまったんです。
 ただし、私小説風にすると、自分のことも適当に入れるので実話のように誤解されることがよくありますね。それもひとつのリアリティなのでしょうけれど。(引用終り)
//////////////////////////////

 つげ義春は「事物」の本質をしっかりつかんでいる。ヒトは「誤認」するものではあってもそこがわかってらっしゃる。そういうジンブツなのですね。小学生のころ、名はしらず「床屋」で読んでいた。「おばけ煙突」のおぼろげな記憶がある。(あとで補強されたイメージの可能性もある)でもなんで「床屋」に貸本があったのだろう。ウチにも貴重な「ガロ」やら「夜行」やらが「蔵」(!)にあるとおもう。インタビュー記事を読みたくて図書館から「藝術新潮1月号」を借りてきた。映画化などもあってブームが再来したらしいけど、彼がどんな暮らしをしているのか知らなかった。(知ってどうする)
 記事で知ったその他のこと。①眼が悪くて絵は描けない。描かない。息子が引きこもりで、その世話と家事に追われる。②マキさんがガンで逝ってから精神科に通う。③「忘却されるのはひとつの身辺整理になりますから、死ぬ時は未練が残らなくていいんじゃないんですか。自分の著書にもまるで愛着がない。」とおっしゃる。④250台あったカメラはほとんど売って今は20台くらい。

 さてシュナイダーのComponon 1:4/35で撮った「藝術新潮」。(絞り開放)


(α7R/Componon 1:4/35)

MINOX minotar 35mm

|
 MINOXのminotar 35mm続報。α7Rに取り付けた図と殻のMINOXです。


(NEX-7/E1.8/35 OSS)

 作例、まずは近接グルグルボケ。

(α7R/Color-Minotar 1:2,8 f=35mm改)

 次は悪条件の逆光遠景。フレアが出ます。絞っています。よく撮れる。


(α7R/Color-Minotar 1:2,8 f=35mm改)

 最後は順光。近景。ランプシェードにピントを置いている。風が強く体が動く。


(α7R/Color-Minotar 1:2,8 f=35mm改)

 ふむふむ。オールドレンズのチカラを、フルサイズ実作で実証的に「検証」できること。これがデジタルの利得です。ただし、フィルムで撮影してもこうだ、とは言い切れない。なにごとにも「差異」が存在しますからね。解像度だけに着目すれば、フィルムを凌ぐ鮮鋭さの実証をα7R機体によって得られた、といえるかも知れません。minotar、いいじゃないですか。お散歩カメラとして不足はない。なにより「コンパクト」です。近場はピント合わせを慎重に、というのが個物を扱っての実感。

NEX-7 GR28mm改造

|

 暖冬=1月4日のこと。昼ごろNEX-7にGR28mm改をつけて近くの漁港を散歩。波止場にはいろんなブツがころがっていてたのしい。GR28mmはα7RにつけるのもいいがNEXでもいい。換算44mmというのもお手頃。Hektor 2,8cm/6,3では接近はできない。GR28mm改の出番だ。


(NEX-7/GR28mm改/SILKYPIX)

 これをハードコピーで処理するとこれがまたおもしろい。デフォルトでこうなる。

プラトン主義の転倒

|

 出来事は理念的である。ノヴァーリスが語ったことであるが、理念的な出来事と現実的で不完全な出来事の、二つの出来事の列がある。例えば、理念的なプロテスタンティズムと現実のルター主義である。しかし、この区別は、二種類の出来事の間にではなく本性的に理念的な出来事と事物の状態の中での空間的-時間的実現の間にある。出来事と事故の間の区別である。出来事は、〈唯一の同じ出来事〉において交流する観念的な特異性である。だから、出来事は永遠真理を有しており、出来事の時間(=時制)は、決して出来事を実現して実在させる現在ではなく、出来事が存続し存立する限りないアイオーン、不定形である。出来事だけが理念性である。プラトン主義の転倒とは、先ずは、本質を解任し、それに代えて特異性の噴出としての出来事を取ることである。二重の闘いの目的は、出来事と本質の独断論的混同を阻止することと出来事と事故の経験論的混同を阻止することである。(引用終わり)
(ドゥルーズ『意味の論理学』第9セリー 小泉訳 河出文庫 P106)

 そうなのです。中村哲の「三無主義」を「プラトン主義の転倒」とみるとどうなるか。彼の諸活動にはなにか人を惹きつける永遠真理のようなものがある。それは彼がヒーローイメージの「本質を解任」しているからだと思うのです。出来事を現在の時制に実現させることも重要だがそこにしがみついてはいない。そんな気がする。出来事は事故にとどまらない。無思想、無節操、無駄、というのはプラトニズムの理想と縁を切る、すなわち「本質の解任」を意味する。そこに無意識の戦略がみてとれる。中村哲はアイオーンを生きているのだ。そしてロマン派でもあるか。先日、散歩しながら考えてみよう、と言ったのはいわば戦略としてのプラトニズムの転倒のようなものを思っていたのです。中村哲氏の戦略、というのではありませんよ。出来事の系列(セリー)あるいは個体化のことを思っているのです。

中村哲の三無主義

|

 会員向け「ペシャワール会報」を読んでいたら、中村哲という人に「三無主義」というのがあるそうだ。いわく「無思想」、いわく「無節操」、そして「無駄」。ふむふむ。日本人らしい。がりがり信念の塊魂ではないのだこの人は。この夏、福岡天神でアジア文化賞大賞のニュースをたまたま知った。時の人でもある。会報には発足当時=彼の若き日の風貌が知れる記事がある。そのなかには、やはり天性の強い諸線が垣間見える。そこに惹かれて、無縁の者たちが支援を続けるのだろう。
 うーむ。それは、無思想を標榜する思想、無節操を偽装する節操、方便としての無駄、という複数の表情をもつひとつの顔のことではないのか? 仲間内の伝説=ジャーゴンではないのか? と、ツッコミをいれたくなるような情動がわいてくる。(笑)。
 いかなる言説も多様性と多重性を内に孕んでいる。なぜそれらの言表となったか、どんな規則がはたらいてそのような言表になったのか・・ゆっくり散歩でもしながら考えてみてみよう。そうそう、僕には大牟田市の料亭「山査子」=せいろ蒸しのこともしっかり記憶に残ったが・・。



(EOS5D/TAMRON 28-75 F2.8/SILKYPIX hardmono)

時間 出来事

|

 今日8月7日は立秋。
 1週間ほど前のことか土手を歩くとアカネが乱舞していた。前日まではいなかった。そのさらに1週間ほど前にはカナカナが桜の木を渡っていた。クマゼミのなかにいた。今朝もまだクマゼミは鳴いている。だが季節は推移している。
 推移する、っていえば、時間とか出来事とかをかんがえる。今この時点を基準にして、アカネとかさらに以前のカナカナとか言う。九月になったら旅行でもするか・・とか言うこともできる。ところでジョン・マクタガート(John McTaggart )的にはこれらのことは時間のA,Bどちらの系列なのか、僕にはよくわからない。文脈上(おなじ構造での表現上)アカネとカナカナは推移律が成立してる。(とおもう)一方、旅でもしようか・・というのは別のセリーのように思える。僕が主体となって思うことだ。これは現在・過去・未来のA系列のようだ。
 「時間」はよくわからない。マクタガートは、時間はない、という。そんな気もする。散歩するたびにそんなことを思う。つまり「出来事」をおもう。散歩=パセアルセの中途、そのなかで「出来事」を思う。思っている時空もすでに出来事だ。推移している。自動的だ。非対称だ。



(土門拳:高島屋/EOS5D/MACRO-ELMARIT-R 1:2.8/60/Photoshop CS5.5/拡大画像あり)

NEX-7 E20mm/2.8

|

 朝は大雨で、この日の予定を変更せざるを得なかった。が、午後は晴れてくる。気晴らしに髪を切る。帰りに雲がが出ていたので定点観測。NEX-7に20mm付けてのお手軽散歩風味。(拡大画像アリ)

 (NEX-7/E20/2.8/f11AE -0.3EV/SILKYPIX モノクロ2)

大村市 白鳥

|

 前回の仕切り直し。当地のコブハクチョウの親子。NEX-7にズマロンサンハン。近くにいたのでよくみえる。27秒。Any Video Converter Gold です。平和なひとときです。(笑)ま、散歩ついでですから。

    
       

大村市 白鳥

|

 NEX-7/E16mm F2.8 SEL16F28/Any Video Converter Gold での動画。45秒。当地のコブハクチョウがまたも子を産む。以前とは別の場所に3羽! 散歩がてらに行ってみた。いい場所を選んでいる。学習するんだねえ。一気に3羽とはやりますなあ。ママの手前でからだを寄せ合って寝ています。(みえませんね)次回はまともなレンズ持って行ってみよう。



小泉=ドゥルーズの哲学

|
小泉義之の『ドゥルーズの哲学』は
ドゥルーズって誰?というお方には推薦の書です。
僕のは綴じがほつれるくらい傷んでいます。
中ほどの140ページでバラバラになりかけています。
じゃその140ページてのを「読んdeココ!」に
OCRしてもらいましょう。

///////////////////////////////////////////////

私たちは、身体の力と精神の力について
本当に何も知らない。何も知らぬまま効能にすがる。
ところが効能は、身体の力と精神の力を当てにしている。
療法が効果を現す場合があるのは、
専門家のおかけでもなく、援助やケアのおかげでもなく、
何よりも身体の力と精神の力のおかげである。
そんな力の認識だけが幸福なのだ。
スピノザは『エチカ』の最後で、
身体の観念である精神には何か永遠なものがあり、
それを認識することが最高の幸福であると書いた。
ドゥルーズは、何か永遠なものの認識を、
自然哲学・生命哲学と解した。

だからこうなる。いかに鬱屈していても、
人間が鬱屈するように世界がなっているという
不可思議を認識することだけが、
鬱屈解消で得られるはかない快活とは
比較にならぬ幸福をもたらす。
どんな療法を受けようが、人間は苦しみ病んで死ぬ。
そんな運命の不可思議を認識することだけが、
最高の幸福をもたらす。
「こんな希望を捨てるわけにはいかない」。

///////////////////////////////////////////////

いやはやこの痛快なこと小泉センセ面目躍如である。
これだから小泉センセはやめられない。
運命の不可思議を認識すること、それは「あきらめ」に
似ないとも限らぬ。
すなわちそれもまた「ルサンチマン」と言えよう。
しかしそれは最高の幸福をもたらすルサンチマンなのだ。

妻の歯科治療を待つ間、シグマの8mmをAPSに
つけて散歩した。フードが見当たらず、すっぴんで
使った。板塀の看板を下から仰ぎ見るような絵。
秋の空。(拡大画像あり)

今日のパセアルセ

|
今日のパセアルセ(pasearse)

いつもの土手を歩き始めるが、
道に毛虫がうようよ。踏み潰されたのも多い。
ウラジロの葉を喰う虫がいる。
ここは今日は歩けない、と思う。
多くの人は気にするふうでもなく歩いている。
だが僕は毛虫アレルギー。よって踵を返す。

さて。そこから思いをめぐらせる。
もともと「散歩」には作用者と受動者の閾はない。
僕のイメージは毛虫に占められ、咄嗟に向きを変える。
そういうことだろう。
イメージ(イマージュ)の中で僕は作用者でもあり、
受動者でもある。そこでの主体(僕)は、主体としての
判断をして、身体は歩きの方向を転換する。

イメージの中で主体を獲得している。
主体の中に散歩のイメージがあり、それに呼応して
身体が運動しているの「ではない」。
この日の散歩の途上に生起した事実は、それを物語る。

同時に次のことが言えよう。
身体と精神が並行して運動していることである。
身体、についてはおわかりでしょう。
このからだ、形相です。
スピノザ的に言えば「身体の観念」が及ぶ形相、
ということかな。
精神は、まあ、観念でもいいし、思惟でもいいでしょう。
ここで厳密にすることはない。
だからイメージ、でもいい。

ふたつめ。
身体は表象されるもの、身体として刻印されたもの、
とスピノザはいうが
僕は非十全だから少し違うように感じるのです。
身体には秘密がある。精神にも秘密がある。
身体の秘密はまず身体によって隠されている。
また身体の秘密は精神によっても隠されている。
同じように、
精神の秘密はまず精神によって隠されている。
また精神の秘密は身体によっても隠されている。
そのように思う。
さまざまな属性には秘密のにおいがする。
パラドキシカルな継起、変様もそうだ。
そのような結節点において自己の構成を果たしている。

みっつめ。よってパセアルセは
オートマトンのある種の概念と似るかもしれない。
定かではない。
「十全な観念」(スピノザ)をもてないから、
秘密の匂いに今日も惑うのだろうか。(笑)
仕方ない。それが実情ですから。
「内在の平面」とドゥルーズがいうものが
ここでも稼動していることは間違いない。

(注)パセアルセは、ジョルジョ・アガンベンが
『絶対的内在』の中でスピノザにある概念として
示したもの。「自分を散歩につれてゆく」。
小学生の時分から外を歩き回っていた。
兄弟はなく、遊び相手もいなかったので、
野山を歩くのは習いの性であった。

僕が小学・中学を過ごした離島僻村の町には
家から1時間も歩けば上がれる丘陵があった。
砂地の丘で、頂上からは見事な砂浜と防風林が
眼下に臨まれた。春ともなればそこに行った。
後年、このことをしばしば思い起こす。何なのだろう?

高校に行くようになっても下宿を出ては
市街をほっつき歩いた。まるで物色する泥棒だね。(笑)
大人になって山や裏通りを歩くようになるのは
これらとは事情は少々異なるだろうが、動力は同じ脚だ。
定年後も波やうねりはあるが、
歩くことは続く。「散歩」と称するのだろう。
好きだからやるのだろうが、何とも不思議だ。
ヒトはなにゆえに歩くのだろう?
(ヒト、とはいってもこんな疑問は男にしかない)

歩いている時を思い起こしてみてください。
何か考え事をしているでしょう。きっと。
でも身体は指令を受けなくてもどこかに向けて進む。
カントやベートーヴェンもそうだったのでしょうね。
歩く(散歩する)状況下では
考え事の当のもの「概念」と「内在」、
いまここ、の「現働性」さらには「出来事」も、
ワンパックになっているでしょう。きっとね。
カメラを手にして大阪の裏通りを歩くスタンスと
夕方になればハビトゥスとして出る散歩とのあいだに
違いはあろう。が、経験からいうと
街撮り(写真撮影)の間にもあいまいな自己が動いている。
その経験・様態をコトバで現前させるのは不可能だ。
さて、今日のタイトル。「パセアルセ」。

アガンベンの『絶対的内在』に出るコトバ。
(「現代思想」2002 8月号 多賀健太郎訳)
もともとスピノザが使ったラディン語。(古代スペイン語)
pasearse とは「自分を散歩につれてゆく」ということらしい。
この場合「散歩」は
「作用者と受動者が絶対的な不明瞭性の閾に入りこんでいて
判然とは区別しがたい」
というのである。

そうです。
「散歩」の実相とか様態はあいまいなゾーンなのです。
ことは散歩に限らない。
今やアガンベンの独壇場である「むき出しの生」ならずとも
いまここ、のこの生は、作用者も不分明なら受動者も不分明、
あいまいなゾーンで動く。動くものは説明できない。
現前させてもそれは事後のイメージを繰っているにすぎない。

こうして今日も僕はパセアルセをやるだろう。
「自分を散歩につれてゆく」だろう。

Another Heart Calls

|

NHKのMLB放送も松井秀喜の驚嘆すべき活躍で

NYYがワールドリーグを制覇して終了した。

放送のエンディングに鳴り響いた定番 "Another_Heart_Calls" を

もう聞けないかと思うとさびしい。

ラスト30秒をmp3にエンコして

Dewplayer (はじめて使うツール)で、どぞ。

ま、だけどMLB中継が無関係のお人にはどうでもいい曲かな。

ぼくはですね、この " ill never ask for anyone but you, woh ho ho " を

(まちがってたらゴメン)

映像とともに反芻しながら散歩したりする。

F906i 歩数計

|
ぼくのケータイ(F906i)には歩数計がついている。いわゆる「万歩計」みたいに腰に付けておく必要はない。(あたりまえか)きょうは散歩の途中でコートを脱いだ。腕を曲げ、片手にもったコートの内ポケットのなかでもどうやら歩数計はまっとうに作動している。上下2軸のセンサーではなくもっと複雑なアルゴリズムで計測する。(というのがうたい文句)バッグの中でもいいのだ。車のダッシュボード内では動かない。(たぶん)
F906iには「いきいき歩数」てのがあってこれは毎分60歩以上で連続3分以上歩かなければカウントしない。てことはデスクワークで動き回ってもカウントされない。(総歩数には出るけど)いやはや・・・ここまで進化してるんですよねえ。

女の座

|
 散歩の足を延ばして、土手をよくよくみるとオオイヌノフグリやらホトケノザが咲き乱れている。やはり異常気象か、これも。脱力感をそのままにあてもなく30分ほど歩く。むなしい一日といえばそうもいえる。それを受け入れるしかない毎日だ。
 成瀬巳喜男の「女の座」(1968)はそんな僕の気分の延長線上にあるような作品だ。小津の「東京物語」を思い浮かべながら見ることになるのはいたしかたないか。コレ、中学時代に見たかなあ・・・いや、タイトルに「おんな」がついてるから入れなかったかもね。(笑)それにしても豪華なキャストだ。正月映画?ラストシーンがなんともいいねえ。年寄ってけっきょく「受け入れる」んよね。↓絵が斜めになっちまったが、スカパーの「日本映画専門チャンネル」のロゴもあることだし・・・そのまま


WoooにはSDカードを差せる。ので、TSをキャプチャできないか 調べたけど、できそうにない。

photo pages

photos

地上の夜の天使たち