つげ義春のこと

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 少し長いがインタビューの記事を紹介。

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 後のキリスト教団は嫌なんですけど、イエスの言葉は深いなあと思って。一例を挙げると、「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである」という言葉に出合ったとき、直感ですぐ理解できたのですが、後年の研究では貧しい人とは「乞食」のことだったのですね、乞食は社会の枠組みからはずれ、関係としての自己から解放されています。自己意識も消えて、生も死も意識されることがなくなり、生きていることの不安も消える、その状態こそ神の国、天国ではないですかね。

 「夢の散歩」は偶然出会った男女が泥のぬかるみの中でいきなり性交をする話ですが、そうなるまでの二人の関係や必然的な理由などはぶいて、ただ唐突な場面を即物的に描写しただけなので意味がないんです。そうすると意味を排除したシュルレアリスムのように夢の世界に似た印象になりますね。現実もあるがままに直視すると無意味になりますが、夢はさらに無意味を実感させてくれるので、リアリティとは無意味によってもたらされるのではないかと考えているのです。
 この作品のタイトルは「夢の」としていますけれど、こんな夢を見たわけではなく、リアリズムから発展してこんな風に……。でも駄目ですね、説明をするのが難しくて。
 ところがその後カフカを読むようになったら、やはり出来事の描写だけで意味がなく、同じ方法をやっていたんですね。でも自分はカフカ流のマンガでは食っていくことはできないので、結局この虚構世界を超える意味でのリアリティから後退して、もとの私小説風に戻ってしまったんです。
 ただし、私小説風にすると、自分のことも適当に入れるので実話のように誤解されることがよくありますね。それもひとつのリアリティなのでしょうけれど。(引用終り)
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 つげ義春は「事物」の本質をしっかりつかんでいる。ヒトは「誤認」するものではあってもそこがわかってらっしゃる。そういうジンブツなのですね。小学生のころ、名はしらず「床屋」で読んでいた。「おばけ煙突」のおぼろげな記憶がある。(あとで補強されたイメージの可能性もある)でもなんで「床屋」に貸本があったのだろう。ウチにも貴重な「ガロ」やら「夜行」やらが「蔵」(!)にあるとおもう。インタビュー記事を読みたくて図書館から「藝術新潮1月号」を借りてきた。映画化などもあってブームが再来したらしいけど、彼がどんな暮らしをしているのか知らなかった。(知ってどうする)
 記事で知ったその他のこと。①眼が悪くて絵は描けない。描かない。息子が引きこもりで、その世話と家事に追われる。②マキさんがガンで逝ってから精神科に通う。③「忘却されるのはひとつの身辺整理になりますから、死ぬ時は未練が残らなくていいんじゃないんですか。自分の著書にもまるで愛着がない。」とおっしゃる。④250台あったカメラはほとんど売って今は20台くらい。

 さてシュナイダーのComponon 1:4/35で撮った「藝術新潮」。(絞り開放)


(α7R/Componon 1:4/35)

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このページは、が2014年2月21日 12:12に書いたブログ記事です。

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