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Results matching “差異と反復” from 新地のドゥルーズ

ベビーイコンタ。ZEISS IKON Ikonta 520/18。1931年製。知人工房のM42改造。Tessar 5cm 4.5。α7sで絞り開放。











50mm(5cm)の快、です。若い時は広角レンズの使い手だった。老いて「標準レンズ」の妙に出会う。M42改造ともなればまさに引けば広角寄ればマクロですからね。美のツールです。ファインダ越しに毎日女神と相対するわけですから幸せの一言に尽きる。50ミリついでに蛇足を。先日はM42改造のズミクロンでこんな絵を作る。



雑誌AERA=今祥雄のシャシンをテーブルに置いて。この手法は実際に図書館ができるずっと前からイメージとして僕のなかにあったもので、デジャヴを自己模倣しているようなもんだ。差異と反復、何度もやる。自動機械、オートマトン、なんと称されようがひたすら。検索エンジンでここに来る方がほとんどだから僕の反復が飽きられる懸念はまずない。まちがっても○○○図書館なんてキーワードを記事に入れない。ここ撮影禁止だから。しーっ。

NEOKINO

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SONYα7sとNEOKINO。
すべては効果だ、といったのはドゥルーズです。どこで?と言われてもちょっと。w
シャシン行為も効果です。差異と反復それ自体が効果になります。爺はせっせと通い、粘着する。
何の益体もないことでもそこに効果が存在する、というわけです。



でも上の絵はシャシン行為の効果というよりこのようなディスプレー行為の効果が先行しますね。アタマが下がる。NEOKINOはそれに気持ちよく同調する。







ヒト(人)を「ホモ・ファーベル=homo faber」(工作する人)ともいえば、「ホモ・ルーデンス=homo ludens」(遊ぶ人)ともいう。当たり前だが工作する人は遊ぶ人でもある。その身体と精神には言及できない存在平面があり、出来事が生起する。だが工作する人のそんな事象もギルド世界のようには受け継がれない。差異と反復で多様性を極めた技量・・それが容易には他者に伝授されない。その人限りで終わることだってさいさいある。その目撃者(身内ではなく第三者である場合もある)はたまたま遭遇した狭いジャーゴンの中で、技量を鋭敏に「感受」するしかない。
僕の所有する改造レンズは「製造元」である知人=工作人の手になるものだ。僕は彼の総体的な技量をはかり知ることはできない。僕が「感受」したものはたとえばこういうことだ。彼は「工作」の過程で、対象と「対話」している。これは農民が(農民でもないのになんでわかるんだ、ごめん)生育する作物と対話することと同義だと思う。その「対話」こそ工作人のだいご味だと思う。「おお、これはいい」とか「もうチョイだな」とかね。対象を加工しながら無生物の対象と異種間の会話が成立する。

いっぽう僕は機械工作を学んだ高校時代、製作が実に下手=不器用で周囲に笑われた。だが現在、古いレンズ(対象)を通して光や影の綾、はては収差や解像度の美うんぬん・・やはり無生物との「対話」をしているのではなかろうか。
フーコーなら笑うだろう。「君ね、それは単に誤認に過ぎない想起だよ」と。
スピノザが学問のかたわらレンズ磨きをしていたことは有名だ。手先が器用で人々は競うように彼の製品を買い求めた。(どこまで事実かわからない)おお、そうなんだ。思考しながら「工作」しなきゃならんのだ。

とかなんとかやかましいな今日のジジイは。w さあてEL-NIKKOR 40mmf4。最初はF8。あとは開放F4。引き伸ばしレンズで開放はないだろう、という勿れ。最後だけは拡大を横1200にしています。傑作です。(α7R)









eBay US NAVYの出物

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知人の工房にてLCDプリズムと呼ばれる単体をEOS5Dと24-70mmで撮ったのは8月5日。



F4,1/30秒,ISO=800,50mm。

「プリズム」部をラバーべたつき(今夏の高温で)の430EZをEOSにつけてマニュアル発光で今朝(8月17日)。



これはPhotoshopCS5のCameraRawのプレビューです。データが知れます。上の絵、下のストロボ絵、こんなのを偏愛する。奇妙という意味では村田沙耶香=「コンビニ人間」です。それはまあいいです。さて、上の絵は8月5日。その時こんな絵も撮りました。下部にはプリズムも写り込んでいます。



US NAVYの出物。torpedo,これがなんのことやらその時はわかりませんでしたが「魚雷」(トーピドー、とでも発音しときましょ)。eBayの出物には実にユニークなものがありますな。で、知人はこれをパノラマ撮影のマガジンとして流用しカメラを実際に製作する、とおっしゃる。おおまかな図面も見せてもらいました。
小生は思わず「さすが!○○さん!」と讃嘆の叫びをあげました。いやはや。差異と反復、それらの「効果」を引き寄せながら生きる、それがニンゲンなのです。それがダヴィンチでありベラスケスなのであります。US NAVYの魚雷用マガジンがパノラマカメラに変貌する・・ダヴィンチの成果と効果を僕はひたすら見守っているわけです。うむ。

生きる技芸

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(NEX-7/Summaron f=3,5cm 1:3,5/SILKYPIX/ at Kobe)

正倉院展(奈良国立博物館)
興福寺国宝館展
エル・グレコ展(国立国際美術館)
北斎展(大阪市立美術館)
大エミルタージュ美術館展(京都市美術館)
ザ・大阪ベストアート展(旧出光美術館大阪)
マウリッツハイス美術館展(神戸市立博物館)

奈良・大阪・京都・神戸、と歩く。
何度言ってもいいが、人には旅に出る必然性はない。
まったく、ない。
しかも人は旅に出る。
そうすることで定住地を後にする。

シニフィアンとか記号とか象徴とかいうものなのか、
人の精神と身体に帯電するのは。人はそれを放出しなければ
おさまらないようなのだ。よって動くのだ。
磁場は鎮まるかのような偽装をとる。
その節は、人は水面から顔をだした時のような
新しい空気を吸う。しばし平面を歩く。
やがてふたたび襞が生じ波動があらわれる。
差異と反復が人の現働なのであり生の技芸なのです。

ドゥルーズの転回

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『ドゥルーズ/ガタリの現在』の中には
「ドゥルーズ哲学における <転回> について」
-個体化論の転変
という檜垣立哉の一文がある。
これは檜垣立哉の持論のようなものだと思う。
後期のドゥルーズから個体化論が消えた、という話だ。
納得できる論攷です、はい。

僕はドゥルーズをその「後期」からはじめたからか
『差異と反復』『意味の論理学』の「現象の理路」を
取り込むことにまったく抵抗がなかった。
たぶん僕がいい加減なんだ。

今年の初夢は
背中に皮膚がんができた、というものだった。
「身体への配慮」を乗り超えようね、といいながら
夢ではしっかりうなされる。笑えるハナシだ。
夢はあれは無意識がなせるわざだ、とするなら
どのみち僕の範疇外のことだ。
夜中の3時だったので、もう起きようかとも考えたが、寝た。

夢の後先では「内在平面」に少しの差異が生じたろうか?
ちょっとわからない。
どちらにせよどうにもならない。
「内在平面」「存立平面」に関して言えば、
リゾームのひとことで僕は処理する。

さらに、個体化については「理路」を問わない。
いや実際は問うているのだと思う。が、深追いしない。
願望だが、個体化、すなわち「受肉」はこれを受け入れる。
願望だが、運命を受け入れる。
願望、ですよ。

「テクストは、超越への嫌悪とともに、内在平面の露呈に
繋がるかぎりでの実践として捉えられる。もはや、「主体」や
その知覚が成立することの理路が問われるのではない。
端的に動物になること、知覚しえぬものになることが重要である。
それは哲学ではなく、実践としての倫理なのである。」
檜垣立哉 前出「転回」

その通りなのだ。
大げさに言えば
ドゥルーズを生きよう、と思う者がいれば、
その者にとっては概念を超えたこれは「倫理」に他ならない。
とはいえ、僕はこれからも出来事の発生について
思い続けることに変わりはない。

世界が僕に殺到する

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財津理訳の『差異と反復』(河出文庫)の
これは下巻、第五章 感覚されうるものの非対称的総合
その冒頭2ページである。
ドゥルーズは40歳代半ばだとおもう。
彼がそんな年代だということを考えながら
ぼくは読む。
(拡大するとW1200dpiの別窓)

自分の意思にかかわらず向こうから波がやってくる。
そしてどこかに連れ去られてゆく。
僕は若い時分から常にそう感じてきた。
ドゥルーズのレトリックなこの2ページは
今も変わらず感じていることと符合する。

世界は、神が計算しているあいだに、「できあがってくる」。

差異と反復

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ピュイサンス=累乗の力=反復と第三の時間、
これは同じ謂いではないか?

「反復の中に抑圧がある」と、
ドゥルーズは書いてある。
どこにあったか探せない。
←とりあえずコレが似てる。

Twitter の人名検索機能で"村上春樹"と
タイプしてみた。村上のイメージ写真とともに
何人ものフェイク村上春樹がいる。
30000人のフォローを抱えて
自らは一人もフォローしてないという
完璧に「なりきった」村上春樹がいる。

カレのつぶやきは
反復であり、抑圧である。
そして幾分かのピュイサンスも。
カレ自身の目下の
いちばん重要な「ハビトゥス」でもあろう。

もし僕がフェイク村上で、
同じ状況が起きたとする。
僕には「快楽」とならないのだ。
僕は10人のフォロワーに対してですら
つぶやくことの自意識に
辟易することだろう。
「やれやれ」ではすまない。
他者への配慮としての
自作自演が楽しいだろうか?

もっとも「演じる」こと自体は
ストア派のような振りができよう。
が、僕には持続性がない。
飽く。倦む。ウツになる。
コピーのような反復はウツだ。

IT カテゴリですよ。ここからは。
mifes でタグ打ちで記事を書いた。
br タグを意識しなくても
適当に右折れしてくれる。
興味ある人はソース見てくださいな。

差異と反復

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GT-7000Uで120dpiで読み込むとまあこんな具合になる。

血腥い闘争を回避しなければウツになります。(笑)

概念化の場面だけならこれでもいいか。

だけど例えば職場の現実存在が

闘争すればオマンマ食えない。

それどころか、はなから「連携可能な差異」を求めて

「援用」しなくちゃならない。

そう突っ込みを入れたくなるが、

まあ相手はドゥルーズだからどうにもならない。

「否定的なものから独立・・」は了解できる。

差異を弁証法的にみるな、ってことでしょう。

だけど現実存在のシゴトでは再現前化こそが

目標となることが多い。 でしょう?

差異と反復

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さて、「一般性」では

Twitter実験も大団円。

僕はTwitterの機能全般にはいまだ「無知」です。

RT とかのコマンドの意味も使い方も知らない。

フォローについてはマナーはおろかしたこともない。

しかしドゥルーズはいう。

「再開不可能」なものを反復すること。

これこそが「パラドックス」だ。

それは「祝祭」ですらある。

一般性にはそのようなピュイサンスを

引き出すものがあらかじめ包摂されている。

(反復には抑圧が含まれるが)

僕に Twitter が反復(持続)されうることは

僕ですら否定できない。それが Twitter に

ここ1週間取り組んだ「一般性」だからなのです。

と、あらかじめ逃走の布石を。(笑)

SILKYPIX

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仕事をやめてから天神に5、6回出ている。

その都度、昼食をどこでとるかをWebで調べる。

今回は「禁煙スタイルβ」サイトで検索して、

天神2丁目の「中国菜館 福新樓」に決めた。

まあ、たのしめた。

・・・・・

この日、コンパクトのアスペクト比を3:2にして

ジュンク堂の指定席から外を。

SILKYPIXで「フィルム調K」で現像。

コダック系になる。黄味が独特。

↓サイズ640*427じゃ、どってことないけど、遊び。

フィルム調Kを「コダクローム」だというのをどこかで見たが

ほんとかなあ。この色はエクタじゃない?

KRのような気がしないのだが・・

それはともあれ

これをいつものPhotoshopでやると

こっちが自然か。

日本人向きの現像処理?

・・・・・

中公クラシックスでスピノザとライプニッツを用意して

席が空くのを待った。

ライプニッツは「モナドロジー」。

ドゥルーズがらみで両著の「さわり」を読みたかったからだ。

そのへんのあたりをつけることについては

経験上少々の自信がある。(笑)

小一時間もたったか、「香水?」らしき刺激臭で苦しくなった。

トイレにいって喉と鼻をすすいだが、どうもうまくない。

その場を退散するしかない。

これは持病で症状は年々ひどくなる気配だ。

・・・・・

先月、檜垣立哉の「ドゥルーズ入門」(ちくま新書776)を

この席でパラパラ読みしたことを記事にした。

後日ジュンク堂を訪れた時、再度パラパラ読みを始めた。

が、どうにも難渋する箇所が多い。

カバー掲載の檜垣センセのふてぶてしい顔写真にもひかれて

しかたなく買ってしまった。(笑)

先日読み終えたが、こいつは堪能した。ベルクソンとのつながりに

こだわるセンセの持論を納得するうえでは

まさに僕には檜垣「入門」となった。(笑)

僕は「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」

「哲学とは何か」の読者だ。

ドゥルーズ中期以降ともいうべきか。

一方「ドゥルーズ入門」はそれより前の

「差異と反復」「意味の論理学」を中心に論じられる。

いや、トシをとってもこんなホンに巡りあえるって、うれしいね。

いいもんは手放しでいい。

・・・・・

SILKYPIXに敬意を表して

フィルム調Kならでは、とおもえるひとつ、

「中国菜館 福新樓」↓

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地上の夜の天使たち