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Results tagged “内在平面とは” from 新地のドゥルーズ

内在平面とは

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『哲学とは何か』には
ドゥルーズにとって重要な概念である「内在平面」の
章が立てられている。「3 概念的人物」がそれに続く。
この箇所の移り行きは蠱惑的だ。
さて、ドゥルーズのセンテンスといっても、
それは「翻訳」されたものであり、
その意味では財津理氏に負うことが多いわけだが、
実際のイメージの塊りは翻訳者の仲介を意識することなく
内在に萌芽し育成もされる。
そのうえで言うのだが、たとえば『哲学とは何か』の
「2 内在平面」の最終部分を読むとき、
そこに「内在平面」が要約されている、と
思ってしまう。それは錯覚か?
僕は実際にはあらゆるページに「錯覚」してしまう。
それが正直な、つまり「告白」なのです。(笑)

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絶対的な外とは、あらゆる内面的世界よりもさらに
深い内部であるがゆえに、あらゆる外面的世界よりも
さらに遠い外である。すなわちそれは、内在であり、
「《外》としての内奥、息詰まる貫入へと生成した外部、
両者の相互反転」である。
〔内在〕平面の絶えざる<行ったり-来たり> -無限運動。
それはおそらく、哲学の至高の行為である。
すなわち、内在平面ソノモノを思考するというよりは
むしろ、内在平面ソノモノが、それぞれの平面において
思考されないものとして現にあるということを示す、
ということである。
内在平面を、そのような仕方で、
思考の内部にして外部たるものとして、つまり、
外面的ではない外部、もしくは内面的ではない内部として
思考することが必要なのだ。
思考されえないにもかかわらず
思考されなければならないものとは、
キリストがかつて、不可能なものの可能性を
そのとき示すために受肉したように、
かつて思考されたものなのである。

したがって、スピノザこそ哲学者たちのキリストであり、
そしてもっとも偉大な哲学者たちでさえも、
この神秘から離れていたり
それに接近していたりする違いはあるにせよ、
その使徒にすぎないと言ってよいだろう。
無限な<哲学者への-生成>、スピノザ。
「最善」 の、すなわちもっとも純粋な内在平面、
超越的なものに身をまかせることはなく、
超越的なものを回復することもない内在平面、
錯覚を、悪感情を、知覚錯誤を鼓舞することの
もっとも少ない内在平面、
これを、スピノザが示し、打ち立て、思考したのである・・・・。

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いかがです?
プリントアウトしてお便所に貼って、
毎日にらめっこする。と、すっとわかっちゃいます。

猥雑な電線がこの国の「文化」ならば、
それを「卑近美」として絵にすればいいのだ。
大阪=なんば。

内在平面とは

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「内在平面」はドゥルーズの重要な概念です。
それがどのようなものかも論じられてもきた。
ドゥルーズ自身さまざまな場所で触れている。
ここでは『哲学とは何か』から抜粋する。

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思考するということは、
一般的な無差異〔いずれの側にも傾かないこと〕の状態を
引き起こす。それでもなお、思考することは
ひとつの危険な営みであると言っても間違いではない。
無差異の状態が止むのは、もろもろの危険が
明白になるときだけであるとさえ言えるのだが、
しかしそれらの危険は、しばしば隠れたままである。
ほとんど気づかれず、企てに内属しているからである。
ところで、内在平面は前-哲学的なものであり、
もとより概念によって作動するわけではない。
だからこそ、内在平面は、一種の手探り状態の実験を
折り込んでいるのであり、内在平面の描出は、
ほとんどおおっぴらにできない手段、
ほとんど適切でなく合理的でない手段に依拠して
いるのである。それは、夢、病的なプロセス、
秘教的な経験、酩酊あるいは過度といったレヴエルに
属する手段である。
ひとは、内在平面の上で、地平線に向かって走る。
そしてひとは、たとえ精神の目であっても、
自分の目を真っ赤にしてそこから戻る。
デカルトでさえも、おのれの夢をもっている。
思考すること、それはいつでも、
魔女の飛翔の線を追うことだ。
たとえば、猛り狂った無限運動と無限速度をそなえた、
ミショーの内在平面。
たいていの場合、そうした〔内在平面の描出の〕手段は、
結果のなかには現れないものである。
というのも、結果は、もっぱら結果そのものにおいて
かつ冷静に把握しなければならないものだからである。
しかしそのとき、「危険」は別の意味をもつ。
明白になった諸帰結ばかり問題にしているときにも、
純粋内在がオピニオンのなかに
或る本能的な強い拒絶を引き起こし、
創造された諸概念の本性が
さらにそうした拒絶を激化させるということだ。
それというのも、ひとは、思考するときには必ず、
他のものへと、何か思考しないものへと、或る獣へと、
或る植物へと、或る分子へと、或る粒子へと生成し、
それらのものが、思考に回帰し、思考を再始動させるからである。

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上記の箇所こそが適切な抜粋だとは思わないが
僕にはこんな言い回しが一番わかりやすいのだ。
なによりドゥルーズらしい表現だと気に入っている。
ちょっと乱暴かもしれないが、

1.内在平面は「概念」とは区別される。
2.内在平面は内在平面そのものの脱領土化へと向かう。
3.内在平面は摘出できない。

そのようなものと理解しているのです、僕は。
子どもたちが社会を震撼させる事件を起こしたときに
教育業界者さんの常套句となる「こころの闇」。
それこそは「内在平面」の諸問題だと思ってきました。
「こころ」といえばまだすむものを「こころの闇」という。
それがものごとを台無しにしている。
「闇」なんかではない。
だれにでもある「内在平面」の諸問題なのだ。
ドゥルーズは難解なことを言っているのではない。
「こころ」はあまりに手垢がつきすぎた概念だ。
新しく「内在平面」や「思考のイメージ」と言い表すことにより
私たちに現に今生きられている生の秘密を解き明かそうと
しているのです。
描出=摘出=表象できないplan(平面)について
実際のところ何も知ってはいないのではあるが。

庭にやってきたアサギマダラ。


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