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いずれもアンジェニューの35mm映画用ズーム35-140mm(知人工房作SONY Eマウント改)とα6300で撮影した画像。
左は爺、右は若向きの企画なのでしょうか?(笑)











α6300とe35。AF撮影。図書館が休みに入るので数冊借りてきた。「もう死んでいる・・」は金原ひとみの「今年の3点」のひとつ。その金原ひとみはコロナに罹った、と。











アメリカ紀行 千葉雅也

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万人にまるで死の灰ででもあるかのように上から降りてくる「標準化」、ノーマライゼイション、その中で生きるぎくしゃくとした生きにくさ。・・そんな千葉雅也の姿がここにも立ち現れる。しかし真摯なオトコです。
(α6300=F.Zuiko 38mm)











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までメールください。工房主と相談してお譲りします。
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今季の芥川賞を「のがした」『オーバーヒート』と、「満場一致」で川端康成文学賞をとった『マジックミラー』、両作品を読む。(新潮2021.6号)
カミングアウト、と思っていたらそうではない。岩波書店の『フーコー研究』も驚くことはなかった。
『アメリカ紀行』(2019)のP44には「プロフィールではゲイであることを明らかにしている」なんてちゃんと書いてる。おいらが知らなかっただけなのだ。



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処分するPCのHDDをフォーマット中。EOS5DMk2+キヤノンマウントのタムロン28-75mm(A09)にて撮影。NECのMY30AEZのWesternDigital160Gを通常フォーマット。(クイックではなく)
正面PCが処理機で、右の横にしているのがNEC。MSIのマザボ。





千葉雅也と仲山ひふみが出来する。どうも終活にはなじまない。

α7sとコンタックスT3抽出レンズSonnarで撮った今朝(2018/03/13)のヘッドライン。



されど僕に大事なのはこちら。千葉雅也の論攷が目に留まると(コラムの類も含め)すべてチェックします。
いまをときめく(もはやそうではないという声もあるが)「思弁的実在論」をこのコラムで理解するのは少し酷だが、いいコラム。とはいえ、メイヤスーやガブリエルの論旨までは知り得ない。それはやはりそちらにあたるしかない。



α7sに市販のLEICA R-NEXアダプタ、純正エクステンダー、カナダライツ製のMCRO ELMARIT-R 60mmF2.8の順につけている。全長はこうです。先日知人からエクステンダーを頂戴したので使ってみようと。MCRO ELMARITであればエクステンドしなくともいいのだが、「超常現象」をしたくてですね。w



「現代思想」は「コミュ障」特集。中に、國分功一郎と千葉雅也の対談があります。ここはラストの部分。意外やヘーゲル、人倫、ディーセンシィ(decency)が出てくる。
30代(千葉)と40代(國分)ですからたのもしい。内容は豊富で、オープンダイアローグ、貴族論、コミュニケーション障害のこと、教育論・・。拡大画像で読めます。上段と下段。





さて。すいません少し自分のこと。僕自身、「コミュ障」を飼いならしつつ生きている。「さ、一緒にやりましょう」は苦手。今をときめくオープンダイアローグ論は傾聴している。オープンは実は垂直方向でもある、そうでなければ意味がない。たとえば僕が自身の病のことをオープンの場で語るとする。それを他者がふむふむと聞く、それだけでも自己に作用する効用がある。しかしそれで終わるはずがない。他者は自分自身の病のことに思いをはせ、自己の奥深い場所に下りてゆく。そこが「ディーセンシィ(decency)」なのだ。
「人倫」とはしたがって「ディーセンシィ(decency)」に関与する。
アイザック・ディネーセンの「ディーセンシィ」を引用した大江健三郎を忘れることができない。『河馬に噛まれる』の最終章にある。僕は当時、直接ディネーセンの原本にあたって確かめた。(昭和60年)
少し長くなるが作中の大江訳で、タイピングします。

バークリー・コールと私とは、私ら仲間うちの言葉で立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)と品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)とをはっきり区別し、私らの知っている者たちを、人間であれ、動物であれ、この原理にしたがって区分けしていた。私らは家畜を立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)に、野生の動物を品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)ととらえた。そして前者の存在と特権は、かれらの共同体(ルビ:コミュニティ)との関係で決定されるけれども、後者は神との直接の接触のうちに立っている、と考えていた。

私らは自分たちを野生の動物の側に登録していた。共同社会つまりは譲渡抵当にサインするほうへ復帰することが、私らにはなしえぬことを悲しく認めながら、しかし周囲による最高の評価をかちとるためですら、神との直接の接触を断念することは、私らに可能でないと確認して。私らが河馬やフラミンゴとわけ持っている神との直接の接触を。

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