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Results matching “KODAK” from 新地のドゥルーズ

Sirio Firenze Sculptor 4cm 1:4.5

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Sirio Firenze Sculptor 4cm 1:4.5。イタリアの1940年代のカメラのようです。固着レンズを取り出して工房でM42に改造しています。



天気が今一つパッとしないがα7sと。撮影日=2024/04/07。拡大画像あり。時系列。



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Kodak Enlarging Ektar f:4.5 100mm

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初代α7sとコダックの引き伸ばしレンズEktar100mm。(工房M42改)
撮影日=2024/03/13。時系列。拡大画像あり。























KODAK Duo 620 1:3.5 F=7cm

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ちょっとした晴れ間に。KODAK Anastigmat 7cm_F=3.5(知人工房=M42改造)は実にレアなレンズで、検索するとそれが知れます。鋭意ググると戦前のKODAK DUO 620に7㎝モノがあります。当方の抽出レンズにはアダプタは重ねてハレーションを回避すべき、と前記事には書いてある。が今日は標準アダプタのみで撮影。開放に近い。ハレがみられるか?
撮影日=2024/02/11。拡大画像あり。色補正なし。α7sと。SILKYPIX Pro9ノーマル現像。







KODAK Anastigmat 7cm

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KODAK Anastigmat 7cm_F=3.5。知人工房のM42改造。アダプタを重ねて内面反射(かな?不明)を防ぐ。このツラ構えは検索しても見当たらない。



以下これと初代α7sで。











ハンチバック 市川沙央

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2016年の村田沙耶香「コンビニ人間」以来の佳作だと思う。ということは7年ぶりか。村田沙耶香以降の芥川賞作品を全部読んだうえでの感想だから、個人的には「大発見」に相当する。笑。α7sとKODAK Anastigmat 7cm_F=3.5で。

KODAK Anastigmat 1:3.5 F=7cm

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KODAK Anastigmat 7cm_F=3.5という一風変わったレンズ。知人工房のM42改造。



アダプタを重ねてハレーションを回避する。α7sと。












コダックの6×9カメラから抽出した単玉レンズ。知人工房によるM42改造。当方調査では正体は不詳。上は絞りを操作したシーン。下は裏側。取り付け部。
以下はこのレンズによる撮影。α7sと。100mm程度か。ソフトフォーカスでいわゆる「ボケ玉」です。撮影日2023_06_11。拡大画像あり。











KODACK Ektar 1:3.5 F=5cm

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KODAK EKTAR 5cm3.5とα7s。知人工房M42改。
4月2日。時系列。











初代α7sとコダックの引き伸ばしレンズEktar100mm。(工房M42改)撮影日2023_1_3。















エクトラ KODAK EKTAR35mm f3.3

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コダック・エクトラのEKTAR F:3.3 35mm。工房Eマウント改。α6300と。撮影日=2022年2月28日。







こちらはα7sと。同年3月3日。いずれも時系列。同じ場所を行き帰りに撮影しているものもある。





















コダックバンタムスペシャルについていたEKTARです。工房製のM42改。17-31mmアダプタに付けて初代α7s。



以下これで。











当サイト紹介のレンズを使ってみたい、譲って欲しいと思われる方は、



までメールください。工房主と相談してお譲りします。
(メールアドレスは画像です、コピペできません)

KODAK コダック PONY

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コダックのPONY828についていたAnaston51mmの容貌。工房作=M42改。
(MC ROKKOR-PF 58mmで撮影。絞りF2)



以下はこのPONYレンズとα7Rで。











前々日避難指示が出た当地の7月8日の朝。α7Rとフジカ35EE抽出のフジノン45mm。F8相当に絞って撮影。中央奥は長崎空港。



以下はカラールックアップのFuji-REALA-500D-Kodak-2393を使っている。







日本カメラ12月号から。気になっていたカラープリント部の金賞をGT-7000Uででスキャン。(すみません、ご容赦ください)
浅井慎平の選評が読めるように取り込んでます。彼の選評にも目を通してください。Wikiによれば82歳。老写真家がこのスナップを心躍るような気概で(と僕には思える)推奨する心情がわかります。これが好きだ、と彼に発生した「効果」を理解できます。
「豊かな写真」と評してます。この絵から「豊かさ」を汲み取れればアナタは老写真家に寄り添えるはずです。

撮影者は71歳の男性。タイトル「熱帯夜」。SONYのα7RⅡとFE24-240・絞りF8・AE・ISO6400・キヤノンピクサスプロ9000マークⅡ。
プリントの出来映えは普通です。出力までの経緯はデータではわかりません。すべてはこのシチュエーションが、偶然とは思えない仕込みのような画面構成のすばらしさが、それがすべてです。浅井慎平に生じた「効果」が金賞ものだったということですね。そこが僕にもわかる、ということです。

それはそうと上の絵でシネマ風のテイストを想起しました。Fuji F125 Kodak 2393とかKodak 5205 Fuji3510などです。かつての映画用ネガフィルムをエミュレートしたPhotoshopの「カラールックアップ」ツールです。たとえばこれはFuji F125 Kodak 2393を使っています。

Kodak Ektar 100mm

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α7sとエンラージャー用のKodak Ektar100mm。





文句なしの「良書」。今ここまでだが今晩読み上げて明日は返却予定。しかるのち図書館でコダックをいじる。(脳内構想)α7sとエンラージャー用のKodak Ektar100mm。開放。距離1メートル。



そのエクターの面(つら)をFlektogon20mmで。左はNEOKINO。

α7sとEマウント改GR28mm。リコーGR1からの抽出。固定絞り。





蛇足。敢えてAPS-Cモードで。室内灯をつけずに。ISO=12800。1/40秒。Fuji REALA 500D Kodak 2393 (by Adobe).cubeを使用。昔ネオパン400プレストをISO12800に増感してGR1で夜間撮影したことがあったなあ。
拡大画像は原寸の1/2。サムネールは1/8。

レンズ遊び。
ミノルタXEについていたといわれるROKKOR-PF 1:1.7 F=50mmとα7sで、Eマウント改のOSCILLO-RAPTAR 88MM f/1.4を撮影。開放。夜半にイルミネーションのみの明かりで。ISO感度は8000。



α7sとOSCILLO-RAPTAR 88MMでKODAK PONYの抽出レンズを撮る。

Photoshopの新機能動向とかを気にせず過ぎた5年(もっとか?)。「カラールックアップ」もそのひとつだろう。Fuji REALA 500D Kodak 2393は時々使う。
元は映像系カラー。コントラスト、黒の迫力、アメリカならではの色合いです。



この絵に処理を施すと



まあこうなります。以下もそうです。





風景はNEX-7とComponon35mm。フーコーは7sとE20mm。
カラールックアップだが、FuturisticBleakというのもいい。以下は5年前にα7RとHektor28mm6.3で撮影したもので原画は周辺はマゼンタまみれだが、 FuturisticBleakを施すとそれが消えなんとも古色な画像となる。参考までに。

KODAK PONY Anaston51mm

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α7sとPONY 828 抽出のKodak Anaston Lens 51mm f4.5(M42改造)。
開放です。





α7sとPONY 828 抽出のKodak Anaston Lens 51mm f4.5(M42改造)。







α7sとPONY 828 抽出のKodak Anaston Lens 51mm f4.5(M42改造)。
Photoshop CC 2019で現像。







湊かなえ『未来』を読了。えぐい。

α7sとPONY 828 抽出のKodak Anaston Lens 51mm f4.5(知人工房=M42改造)。
Photoshopで現像したものをそのまま。色補正しても変化はない。3D LUTファイルをカラールックアップテーブルから、プリセットのKodak5218を選択しても、明度がちょっと上がるだけです。
Kodak5218は映画用フィルムです。

コダックジャパンのプレスリリース

ポニーが骨の髄までコダックであることを体感できる。



コダック VR35 M42改造

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2018/05/07、大雨となる。α7RとKODAK VR35 K4抽出のM42改造38mm。











α7R KODAK VR35 38mm M42改造

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α7RとKODAK VR35 K4(38mm/F5.6 fixed focus)から抽出のレンズ。













H.ROUSSEL 50mm F3.5 KODAK VR35

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7sとH.ROUSSEL50mm3.5。







中央のレンズはコダックVR35抽出のレンズ。M42改造。38mm。いいレンズです。





11月6日。α7sとPONY 828 抽出のKodak Anaston Lens 51mm f4.5(M42改造)。
バラ以外は色補正なし。コダックの妙、というべきか。空気が澄んでいたのだろう。
バイク奥の公園は幼少の頃の遊び場。水あめと紙芝居が思い出の公園。西高体育館の上に有明の月がみえる。長崎出島(5枚目)は車窓越しです。コブハクチョウの横は鴨。ハクチョウ真上の画像上端にとんび。うーん、いいレンズだなあ。(拡大画像あり)















11月4日。α7sとPONY 828 抽出のKodak Anaston Lens 51mm f4.5(M42改造)。いいレンズ。サムネールを並べただけでもわかります。拡大画像はありません。

画像多し。注意。α7sとコダックエクトラ。KODAK EKTAR 35mm F3.3。最初は開放。あとはF4-5.6。













KODAK エクトラ

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α7Rとコダックのエクトラ。









ランサムウェアはWindows10では、KB4015438, KB4015217, KB4019472あたりです。自分のPCを当たってみてくださいね。ウチも6台は確認。残り3台はまあ次回だ。w
いいなあマカーのお人は。今ではSILKYPIXもMac対応だし、G3=yosemite以降も我慢してMacを使ってればよかったのかなあ。平成の初めのころ、ジュラシック・パークでみたQuadraに惹かれ、LCにもBookにも手を出した。1998年、秋葉原で大枚をはたいてG3+Photoshop+ノートン+増設メモリと、あれこれで50万近く支払った。まだパソ通=モデム時代だったと思う。23時以降が無料になるテレホを使う。20メガ(ギガじゃなくってさ)くらいのアップデータをDLするのに一晩中かかる。眼が覚めたら回線が切断されている。レジューム機能を次のテレホまで待つ。懐かしいが何だったのだろうね。(そんなもんです)
その当時のMacってネットはPeer to Peerで、FTPでポートを開けて、直に鯖につないでやり取りしていた。今思うと怖いですよね。Winでいえば、これはTorrentやwinnyみたいなもんだ。

サイバー攻撃ってもう我々シロートにはどうにもできないので知られてるパッチを絆創膏みたいに貼るしか術はない。MSは今回特別にWindowsXPのパッチまで用意したというから深刻なんですね。
(いるんですね、Xpでまだネットしてるお方が)
日立だったっけ、スタンドアロンのPCが感染したという。これが不可解。刺したUSBメモリが感染源なのか?(たんに僕の推測)

年甲斐もなく妻がキッチンを新しくして(3度目)作れないので(口実だろう)、何年振りかにリンガーの皿うどんにした。汁が多く汁スパみたいだ。トレンドなのか?これ。7s+コダックVR35抽出レンズ。38mm。

α7RとVR35抽出レンズ。RMT-DSLR1互換品リモコン使用。w





α7s KODAK VR35

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SONY α7sとVR35抽出レンズ。開放。



都築響一もカバーが・・。w







SILKYPIXハードモノクロ_whitetone。

KODAK VR35 K4(38mm/F5.6 fixed focus)、コダックのVR35から抽出したレンズの絞り環(リング)を外した状態で撮影。SONYのα7s。





周辺流れが目立ちます。この組み合わせは、店内、シャッタースピード優先、近接撮影で威力を発揮するようです。





絞りリングを外したKODAK VR35 K4レンズ。これで計測F2.8くらいか?(不詳)。
M42。知人工房作で見事な出来栄えです。外したリングも見えますか。中央が振り子式のシャッターなのです。
(NEX-7/35mmOSSで撮影)



以下、すべてα7sとこのVR35レンズ。はじめは振り子式のシャッターを開いたシーン。続いていつもの店内拝借シャシン。フレアもあるしグルグルもあるけど雰囲気がたまらなく好きです。









夜半に起きる。絞りリングを外し、解放38mm/F5.6に戻したKODAK VR35 K4レンズとα7s。M42改造なので固定焦点ではないぞ。w



で、下はテッテ的に分解したHPのd530パーツ、内蔵スピーカー(システムスピーカー)です。いいブツですね。してまたコダックレンズの色合いのいいこと。右下のはパワーSWです。昔のPCパーツは雰囲気がある。

SONYα7sとKODAK VR35 K4抽出レンズ。







KODAK VR35 K4(38mm/F5.6 fixed focus)から抽出。α7Rで撮影。冬枯れの色がいかにもKODAKのカラーらしい。IDC現像。







フィルムはもちろん高級カメラからプラカメ・使いっきりカメラまで・・N.Y.ロチェスターのイーストマン・コダック社の製品は実に多彩だった。VR35は固定焦点。オモチャの気配もあるカメラ。(コンデンサに重しをつけてある)
レンズを取り出しM42マウントにしてアダプタにつければ変身する。寄れる。設計者の意図やカメラの諸元に関係なく駆動する道具と化す。「技(わざ」の力でコダック社が再び転身するかのごとくだ。技術はかようにヒトをして幸せな出来事に巡り合わせる、本来そういう力をさすのだろう。ありがたい。

閑話休題。今回の抽出レンズの残り物。左がマミヤ、MAMIYA RUBY STANDARD、右がコダック、KODAK VR35 K4。撮影はα7sとMacro-Nikkor 55mm3.5。同じ庭なのにずいぶんと色合いが違うもんだなあ。

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KODAK VR35 K4でググると出ます。レンズを抽出してもらいました。M42改造。作例はα7Rを使用。





フロントランナーの撮影は金川雄策です。そちらも検索すれば知れます。朝日の若いカメラマンです。臨場感があります。見る者はつい撮影の状況・風景を想像します。

なお抽出したレンズの姿はコレです。α7sとH.ROUSSEL 50mmで撮影。

α7Rとコダックエクトラ、KODAK EKTAR35mm3.3。









自作パノラマカメラ

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長文注意。
知人の自作カメラ。完成品を撮影。驚嘆の次はため息が出ます。まずは画像。(α7R/KODAK EKTAR35mm3.3)。



次は200****1963年のSUMMICRON-R50mm2.0で上から撮影。



ブローニー12枚撮りで4カットの大パノラマ。ポジを見せてもらったがなかなかのものだった。自分には経験がないので実感がわかない。都市の鍋底風の夜景を撮るとおもしろいだろうな。露光時間の関係で光源が揺れるかも。
さて2枚目を撮ったSUMMICRON-R 50mmF2。コレです。



中央にペンタックスのヘリコイドにつけているのがSUMMICRON-Rです。ストリップです。本来の鏡筒はない。ジャンク品から作ったらしい。固定絞り(およそF5.6あたり)のM42改造です。レンズ番号から1963年です。おいらが中3の時代です。光源をモロに撮ると陰影が出ますが通常撮影には重宝すると思う。
ややこしいハナシだが、この絵そのものは、α7RとUnivex Mercury Model CC といわれるハーフサイズカメラ抽出のレンズで実行してます(よって四隅がけられます)。抽出したレンズてのは35mm f/3.5 Wollensak Tricor (uncoated 3 elements)。1938年製造開始。ハンパなく枯淡かつレジェンド。博物館用のレンズです。w 
この個物Tricorについては、いずれまた紹介しましょう。で、このストリップのズミクロン1963年で撮った知人ちでのテーブルフォトをIDCでそのままモノクロ現像した。これがもろにライカレンズ雰囲気。あたりまえだ。以下。



これは今朝。



深夜食堂 KODAK エクトラ

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購読をやめた「ビッグコミック」の最後の表紙は『深夜食堂』の小林薫。『深夜食堂』は「ビッグコミックオリジナル」に連載中。(ややこしい)


(α7R/KODAK EKTAR35mm3.3)



映画になりNetflix (ネットフリックス) で配信されている。スチール担当は藤本礼奈=RENA FUJIMOTO。こんな雰囲気でシャシンして食っていけるってシアワセだろうなあ。

kodak コダック PONY ポニー

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α7sとコダック ポニー抽出のAnaston 51mm4.5です。





KODAKのPONY828は1949年に作られたのですね。
僕が生まれた年です。828フィルム(バンタムフィルム)というロールフィルムを詰めていたらしいのです。Wikiで調べるとわかります。
コダックという会社はあきれるくらいすごい仕事をしてきたのですねえ。



これはPONYについていた抽出レンズ、Anaston51mm4.5をSONYのα7sにつけて撮ったものです。IDC現像でモノクロ設定。全倍にすると荒れた感じでモノクロフィルムをルーペで見ているような気分になる。後方にあるのが抜け殻のPONYです。写りの雰囲気が好きです。





ひと絞りくらいで俄然シャープになる。開放でもしまってます。





カラーの絵は色補正すれば明るくなりますが、あえて補正をしていません。α7sとコダックAnastonのできそのままです。現像はIDC。
ジジェクによって、
「ボコ・ハラム、ロバート・ムガペからウラジミール・プーチンにいたるまで」と一括りにされてしまったプーチン。
プーチンその人はまた、『文藝春秋』=2016世界は大激変する、のなかで山内昌之教授からはこのようにも言われる。
PDFの下段、「先日、プーチンが・・」からの「毒殺」の箇所です。



ついでに色気のあるハナシもいたしましょう。
「COLOR-ULTRON」でのサイト内検索が多い。
ここんところ久しく使ってない。そこで今朝のフィギュア・フォト。自然光。(室内灯もない、という意味です)
α7Rと上がフォクトレンダー COLOR-ULTRON 1,8/50。
下がKODAK Anaston 51mm f/4.5。
プーチンが非凡なら、ふたつのこれらのレンズも非凡な能力を隠し持ってる個物です。



KODAK PONY ポニー

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コダックのポニー、PONY828についてはググってくださいまし。
そのポニーについているanastonというレンズは僕好みのレンズ。
怠慢で使う機会が少ない。
その昔、開放値4.5ー5.6の手頃なズームが多かった。
愚かな僕は、暗い=安価・・の偏見を持っていた。
デジタル機の到来でそんな偏見に根拠がないことがわかる。

毎度ヘンな接写ですが、7sとanaston51mm4.5で。
開放。IDC現像。





後方の陰影がポニー本体です。(抜け殻)
知人の改造になる抽出レンズは、

ここで

見れます。

原田ひ香 「三人屋」

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「文藝春秋」12月号=角田光代の「今月買った本」。
サムネールはPDFにリンクしています。



書評に気になるところがあり、博多丸善で検索する。
そして・・
購入したのは、コレ。



(7s/KODAK EKTAR 35mm3.3。開放)

7s EKTAR35mm3.3

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牡蠣フライを食いに出る。
いやあ。この絵で見ただけで食したくなりませんか。w
開放で撮影。IDC現像。

EKTAR35mm3.3 PENTAX MACRO50mm2.8

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モデル撮影。w
上はα7RとKODAK EKTAR35mm3.3。
(牡蠣ちゃんぽんを完食)
下はα7sとPENTAX MACRO50mm2.8。
(リモートスイッチのスポットを受ける)

KODAK 秋の色

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SONY_α7Rとコダックエクトラ EKTAR35mm3.3
秋の色を出すのはいい組み合わせだと思う。
補正なし。









↓↓これ椎の実ですよね。(ちがいます?)

KODAK エクトラ

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10月11日。6時過ぎ。
SONY_α7Rとコダックエクトラ。EKTAR35mm3.3。
ISO6400,1/50秒,F5.6のマニュアル撮影。
SILKYPIX現像。
拡大画像があります。
ブレはないものと思う。ノイズは出ますね。
定点観測なれど、雲がなければスルーする光景。
画角35mmのための場所です。欄干の水銀灯がまぶしい。
PhotoshopのWeb用保存(品質85)。



ソニーα7sとコダックエクター35mm3.3。
IDC現像後Photoshopで色調補正をする。

KODAK ektar35mm3.3 エクトラ

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7sとコダックエクター35mm3.3。



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すべて開放撮影。IDC現像。
いや、いいですなあ。
グルグルぼけもいいですよね。

Kodak ektar 35mm f3.3で撮る

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吉田カバンのタグ(持ち込み)にピントを置いてる。F8でもずれると甘くなる。
(すべてα7s。拡大画像あり)



中央の灯りがともっていないランプに焦点。



SILKYPIXのモノクロ2現像。

Kodak ektar 35mm f3.3

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KODAK EKTAR f:3.3 35mmのド派手なフェース。
銘からニューヨーク州ロチェスター市のコダック、てのが読める。
でしゃばるニューヨーカーという感じだ。w
絵はα7R/LINHOF95mmで撮る。



こっちはα7sとPENTAXのmacro 50mmで。
知人の改造でEマウントになっている。
ずっしりとして重い。



で、α7Rと、そのEKTARで最短接写。開放。

Kodak EKTAR 50mm3.5

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α7sにKodak EKTAR 50mm3.5。
IDC現像。拡大画像あり。
 α7sとコダックのポニー KODAK PONY 828から抽出のレンズ、
Kodak Anaston Lens 51mm f/4.5 の組み合わせで。
(拡大画像あり)





ポニー kodak anaston M42改造

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 コダックのポニー KODAK PONY 828から抽出のレンズ、
Kodak Anaston Lens 51mm f/4.5 。
NEX-7/Durst Componon 105mm 1:5,6で撮影。
(拡大画像あり)



以下α7Rにつけて。



見事ですね。解像度も高い。
常々思うけど、コダックのブランドって凄いですね。
それをこうして「外」の力で味わえる。ありがたいことだ。

おまけ。

 小西六のコニレット Konilette抽出レンズを7Rに。
レンズはコニター 50mm4.5。
イエローフィルタがついている。
(桜マークのロゴが)
バックにあるのが当のコニレット匡体。
この絵は7sと次に紹介するコダックPONYの51mmレンズで撮影。
(以下いずれも拡大画像あり)



次なるはコダックのポニー KODAK PONY 828。
銘板にはKodak Anaston Lens 51mm f/4.5 とある。
背後に少し見えるのがPONYのボディです。



全体がイエローっぽいのは、
7R/コニターのセットで撮影したからです。
フィルタは外せます。コニレット使用者はもっぱらモノクロをやっていたのでしょうね。

上の絵は下のセットで、下の絵は上のセットで撮影したということです。
ややこしいですね。w
下の絵。拡大でわかりますが、PCのインジケータが四角になっています。
コニターレンズの絞りの形状です。

KoniletteやKODAK PONYを、なんのこっちゃ、と思われる方もおられるでしょう。
とりあえずググってくださればおおまかわかります。

これらは知人に依頼して抽出したものですが、今日は抽出レンズ=事物・事態のハナシにとどめます。

M42-NEXアダプタ ケラレ

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 M42-NEXのケラレ続報。
知人製作の以下のヘリコイドチューブではケラレはない。
ということを今になって確認したのだからオレってなんでこうなんだろう。

まずはそのヘリコイドチュ-ブ、α7s実装を拡大してご覧あれ。



ヘリコイド部の実体は、PENTAXのHELICOID EXTENSION TUBEです。
現行品かどうかは不明。
マウント部はPixcoのC-NEXになってますが開口部は改造されています。
レンズはMade by Rollei のSonnar 2,8/40 です。
細かく美しいローレット部、フードは知人の手になるものです。
無限遠はヘリコイドのショーテスト(繰り出しゼロ)にあります。

実はそこがミソでした。
以前これに他のM42改造レンズを取り付けた時、無限が来ませんでした。
その時点であきらめていたのです。いつもはシツコイのに。w
他のレンズではオーバーインフだったのです。いやはや。
にわかに色めく、とはこのことです。
朝の5時から手元にあるM42改のレンズを何個かつけて遠景と接写(最短撮影)を繰り返す。
接写では絞り開放も。

1時間で結論が出る。
うーむ。見てください。SILKYPIXの200dpiサムネール一覧。
横1600縦1200の拡大画像でご覧下さい。



無限もきてる。ケラレはない。
いや、生きててよかった。w
持つべきは師ですなあ。うん。さすがだ。

なんとあのNEOKINOに無限遠が来るではないか。
防湿庫にはM42改のレンズはうんとある。
愉しみが増すというものです。

ちなみに今朝俎上にのせたレンズは
(ファイル名でもわかります)
①KODAK Ektar 5cm3.5
②CZ Planar 1.4/50 HFT
③COLOR-ULTRON 1.8/50
④SOLAGON 1:2 50mm
⑤六櫻社 Optor 1:4.5 50m.m
⑥六櫻社 Hexar50m.mF4.5
⑦エミールブッシュ NEOKINO 42.5/65mm
⑦Sonnar 2,8/40です。

Kodak Ektar 50mm F3.5改

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α7RとKodak Ektar 50mm F3.5改で陽が差してきた前庭を。
テスト撮影みたいなもの。(拡大画像あり)

デジタルカメラとの組み合わせだから断定はできないが、
なにげに昔のコダックのフィルムを思い出させる風合いです。

下は猫アタマ部の等倍。



もうひとつ。



下は中央部の等倍。

ゾナー85mmF2 改造

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 コンタレックスのSonnar 85mm F2.0改で撮影。

写真は先日ヤフオクで落札したブツ。
たまたま集中して5個も落札することになった。
落札日はばらばらだったが、全品が同じ日に家に届く。偶然もすごいもんだ。
定型外郵便もあるが、1日に5個も受け取るとちょっとね。
そのうち2個をMLB中継をバックに記念撮影。w
上がKodakのPONY828、下が小西六のKoniletteというわけです。
レンズを取り出してα7用に改造します。

もし僕が喫茶店の主人なら、アンティークな置物として飾るのもいい。

Kodak EKTAR 50mm3.5 改造

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 加工前のEktar 5cm3.5はこんな姿です。
知人の工房で3個並んでいました。
未使用のパーツ。
で、僕の個物はこれです。COMPURのシャッターは外して10枚羽根の絞りは活かします。
M42加工ですからM42-NEXのヘリコイド付きアダプタが必要になる。



ジャンク品のRICOH 300Sの刻印部を、α7R/Kodak エクター5cm3.5で。Photoshop処理。

コダック KODAK ektar 5cm3.5

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 ヤフオク=RICOH 300S。欲したのではなく、フジカ35EEの入手のついでにやってきた「その他の一品」。
出会いとか、来歴とかいうのはおもしろい。予測不可能だが、このように決定される。成る。カオスそのものだ。上はα7Rにektar5cm3.5、下はα7sにektar5cm3.5で撮る。
レンズキャップはオリンパス・Penのものだ。w



ドゥルーズ 旅

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 「旅」について。ドゥルーズの言。『記号と事件』でした。以下、自炊。(宮林寛 訳)

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旅をめぐる考察は、どうやら四つの考え方をたどっていくもののようです。その一番目はフィツツジエラルドに、二番目はトインビーに見出され、三番目はベケットに、四番目はプルーストにあらわれています。一番目の考え方が認めているのは、たとえ南の島に行ったり、広く聞けた空間を体験したりしたとしても、いつもの聖書を持参し、自分の幼年時記憶やふだんの言説をたずさえているかぎり、旅はけっして真の「断絶」にはならないということです。第二の考え方によると、旅はノマドの理想を追求しているけれども、この理想は無益な願望として生きられるということです。ノマドとは、旅人とちがってじっと動かない者のことであり、旅立つことを嫌い、自然条件にめぐまれない土地、中央地帯にしがみついた者のことだからです(あなたもここで、フアン・デル・コイケンの映画をとりあげ、南に向かうとかならず、いまいる場所にとどまることを望む人たちとすれちがうものだ、と書いておられる)。なぜそうなるかというと、ここで第三の特にうがった考え方、つまりベケットの考え方が出てくるわけですが、要するに「私たちは旅する楽しみのために旅をするのではない。私の知るかぎりではね。私たちは愚か者だとはいえ、旅を楽しむほど愚かではない」からです・・・。すると、つまるところ確かめる以外には旅をする道理を見出すことはできないのではないか。何かを確かめに行くこと。心の奥底から、あるいは夢や悪夢から流れ出してくる筆舌につくしがたいものを確かめること。たとえそれが中国人は俗に言われるほど黄色い肌をしているのか、あるいは緑の光線や、青と真紅の色に染まった大気のように、とてもありそうもない色彩が本当に存在するのかどうか、調べるだけでもかまわないのです。真の夢想家とは何かを確かめに行く人のことだ、とプルーストが述べているではありませんか・・・。

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 絵はα7s+kodak EKTAR 5cm3.5。モデルはフジカ35EE。文との関連なし。
「文藝春秋」3月号所収の小野正嗣『九年前の祈り』を読む。
今期の芥川賞作品。
近頃、小説を読むようになった。w
きっかけはある。妻が入院して(現在は退院)読み物をあれこれさがして病院に届ける。それが高じた。『死に支度』も『33年後のなんとなく、クリスタル』もそのクチだ。
その妻が「文藝春秋」を定期購読する、と言いだすやさっそく書店に届けさせた。
妻の亡父は数十年間この雑誌を購読していた。隅からすみまで読んでいた。親子とは似るもんだ。笑えるが、まあトシをとってみればそういうこともあるだろうと僕も思う。

そんなわけで瓢箪から駒、僕が先に『九年前・・』を読むことになった。発表したての芥川賞作品を読むなんて若い時以来、それこそ30年も40年も経験がない。
まこと、ヒトはどんなふうに「生成」するか知れたものではない。これから死ぬまで芥川賞作家に付き合うことになるかもしれない。w
あ、感想。うむ。いいです。いい作品です。
選評は一顧だにしません。w
それは読まない。田中康夫の註を読まないのと同じ。

7sにレンズはKODAK EKTAR 5cm 1:3.5。F4.5で撮影。IDCデフォルト現像。
なだらかで柔らかいボケですね。
タイトルが悩ましい。w
ごめんなさい。人目に触れてもらいたいがためのSEO対策でやんす。
それとサムネールをw=300に。スマホで見ている人が多いので。(拡大画像アリ)

用あって当地の空港へ。7s+エクタナー、7R+六櫻社ベビーパール・ヘキサー。準備はよかったが撮ったのは数枚。正面は当地の多良山系。コダックAPSのektanar。IDCデフォルト現像。飛行機雲が次々に出ては消える。春節で中華のヒトが目立つ。





こちらはヘキサー5cm。何の変哲もない。等倍にするとびっくりするくらいあれこれ写し込んでいる。





旧コンパーラピッド。絞り羽根は10枚。
KODAK EKTAR 5cm3.5のレンズを外した場面。(拡大画像あり)
何しろ使われてないレンズですので、どこもピカピカです。
10枚羽根の数は極めて少なく、ネット広しといえども画像はほとんど見当たらない。よって稀少の姿をお見せしたことになります。w



IDC現像。発色は実にノーマル。派手さはない。自然です。α7sはKODAK EKTAR 5cmのそんな良さを引き出してくれる。抜け道を階調豊かに写す。
モニタは透過画像みたいなもんだからプリント出力はこうはいくまい、とお思いでしょうが、僕の経験ではほぼ画面通りに出力するのが昨今のプリンタのチカラです。
僕たちはすごい時代にいるわけです。

フジカ35EE

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フジカ35EE抽出フジノン(FUJINON 45mm1.9) を7sで使ってIDC現像を試行。
うむ。これはいける。
想像だが、SILKYPIXの7s対応のエンジンプログラムに瑕疵があるんじゃないか?
周辺があのようにケロイドのようになるのはどうみても変だ。
撮影状況によっては断然IDCを選択すべし、と思う。



IDCデフォルト現像での「解像度」もいい。下はキッチングローブの等倍(部分)。



このフジノンは周知のごとく1979年の「写真工業」にてMズミクロン50mmと同等の解像度が実証された。
中央部の解像度は「凄い」の一言につきる。

α7R撮影のここをご覧ください。

さて。

せんだってコダックAPSカメラ抽出のレンズ=ektanarで、そっくりのシチュエーションを撮影したばかり。
同じ人物の自転車のようだ。
これがkodak ektanar。


(kodak ektanar 23mm6.6)

で、下はフジノン。歪曲はない。w



もう一枚。定点観測。ちょっと暗すぎるか。

コダック Kodak APS

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7sとコダックのAPSカメラから抽出した知人製作の豆レンズ(Kodak APS Ektanar 23mm f6.6/35)。
IDCデフォルトで現像。







うーむ。シルキーでないところが気に入った。
豆レンズの作画にマッチする。トイ風味だがあなどれない。歪曲は愛嬌。

STOK EFレンズ

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一度やらねばと思っていた。α7R+STOK+キヤノンEFレンズで撮ることだ。α7sでは試行していたのだが7Rではまだやってなかった。(と、思う。w)
今日は買い物ついでにトライ。7RにEF24-70mmf2.8を付ける。AFは切る。
これがIDC(SONYのImage Data Converter Ver. 4)の情報です。



で、作例。(拡大画像あり Dev=IDC)



現像はIDCのデフォルトでやっています。ピントは凡そ上部の発光チューブ。
そのチューブの部分を等倍にします。(拡大画像が等倍になります)



これらの「効果」はすべてアレンジメントです。つまりカメラとレンズと撮影設定値、それに現像アプリケーションですね。
Web用に見せるという観点では「現像」処理は大いに影響はあるでしょう。rawファイルはどうにでも扱えますから。
ま、しかし現像をデフォルトでするならパッと見る印象はカメラとレンズで決まるでしょう。
STOKのおかげさまで、7360*4912の解像度をミラーレスで得ることができる。シアワセな男です。

もう一枚。
朝日の記事。(f=8 Dev=SILKYPIX)



横1840(記事の概要がわかります。Kodakが破綻してもう3年になるんですね)

コダック Kodak APS

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7sとコダックのAPSカメラから抽出した知人製作の豆レンズ(Kodak APS Ektanar 23mm f6.6/35)。
SONY提供の現像ソフトは IDC(Image Data Converter)と呼ばれる。使っていなかったが実はこれはけっこうイイのではないか、というハナシをいたします。SILKYPIXとの比較です。(どちらもデフォルト設定での現像)



これはSILKYPIXです。拡大画像でみてください。ピクチャ下方のもやもやが厭味なのです。
いっぽう次はIDCです。



うーむ。これでは違いがわかりにくいかなあ。
下方の川石のゴロゴロ感がIDC現像の方がいい。
以前から「もやもや」が気になっていたのです。まさにシルキーな現像をするのがSILKYPIXです。たぶん「ノイズ処理」との関連ですね。SILKYPIXのノイズリダクションには、偽色抑制、フリンジ除去、ノイズ整列、ノイズ除去があります。これらの調整スライダでピクチャ前面のもやもやは消せるはずです。

好みからいえば僕はこんな絵では断然IDCを採用します。ノイズが無いのはいいけれどやりすぎた処理は不自然ですからね。銀塩のつぶつぶを思えばノイズがでてもくっきりしていたほうが僕は好きです。
これからIDCを使うことが増えるかもしれない。

コダック Kodak APS

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7sとコダックのAPSカメラから抽出した知人製作の豆レンズ(Kodak APS Ektanar 23mm f6.6/35)。詳しくは
ここをご覧ください。

拡大画像でみると紙やサッシュの網の質感が見て取れる。たいしたもんです。

フーコー ギリシャ回帰

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 1986年、フーコーの「自己の技芸」についての聞き手クレール・パルネに対するドゥルーズの言。
ドゥルーズがフーコーにどれほど直感的に惚れ込んでいたか、手にとるように読める。それにフーコーがその対談の場にいるかのような実に生々しい臨場感がある。そんなドゥルーズの様態、分析のテクネーも素晴らしい。
このブログ記事タイトルで検索がオモテに出るかな?でないだろうな。SEO的には僕の力量は明らかに不足してるもんなあ。
ま、ともかく「自炊」して原訳(宮林訳=これ改行なし)のままアップする。あなたがドゥルージアンで、さらにはフーコニストで、ついでに若き30から40代の男であれば・・ジイの「読んde!!ココ」自炊の労苦も悦びに変容するってもんですな。w
あ、しかし、以下のドゥルーズの言はカレの61歳時です。あるいはあなたがその年齢になればもっと「みぞおち」の理解が降りるのかもしれません。老婆心かな?

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パルネ
そうはおっしゃいますが、あれはやはりギリシア人への回帰なのではありませんか。そして「主体化」という言葉は、主体の再導入につながる曖昧な表現ではないでしょうか。

ドゥルーズ
ちがいます。ギリシア人への回帰などありはしません。フーコーは回帰というものが大嫌いでしたからね。自分で体験したこと以外を語ろうとはしなかったし、 自己の抑制、いや、もっと正確にいうと自己の生産は、フーコーにおいては自明の事柄だったのです。フーコーが、主張しているのは、ギリシア人は主体化を「創始」した、自由人の競合関係(競技会、雄弁術、恋愛など)という体制がそれを可能にしたのだということです。けれども、主体化のプロセスは並外れた多様性をもっています。キリスト教世界の様態はギリシアの様態とはまったく別のものだし、しかも主体性の生産は、宗教改革を待つまでもなく、すでに原始キリスト教の時代から、個人と集団の別を問わず、さまざまな道をたどってきたのです。キリスト教徒における新しい生存の美学を論じたルナンの文章を思い出すべきでしょう。ルナンが問題にしているのは、皇帝ネロもそれなりに助長してしまった、そしてアッシジのフランチェスコに最高度の表現を見出すことになる美学的な生存の様態です。狂気との、そして死との対決。フーコーにとって重要なのは、主体化はいかなる道徳からも、そしていかなる道徳的コードからも区別されるということです。
主体化は倫埋と美学にまたがるものであり、この点で知と権力の性格を帯びた道徳と対立するのです。したがってキリスト教の遺徳が存在し、もう一方にはキリスト教的倫理とキリスト教的美学の複合体が存在する。そして両者のあいだであらゆる種類の闘争が戦われ、あらゆる種類の妥協がおこなわれることになるのです。いまの時代についても同じことがいえるでしょう。私たちの倫理とは何か、私たちの審美的生存を産み出すにはどうしたらいいか、現行の遺徳的コードには還元できない私たちの主体化のプロセスはどのようなものになるのか。どのような場所で、そしてどのようにして新たな主体化はあらわれてくるのか。いまの共同体には何を期待すればいいのか。ですから、フーコーがギリシアまでさかのぼったところで、『快楽の活用』やそれ以外の本で彼が関心をよせるのは、いま現在おこっていることであり、いまの私たちが何者であり、何をしているのかということなのです。現代に近いものであれ、遠いものであれ、歴史的形成は私たちとの差異において分析され、この差異を点検するために分析されるにすぎないのです。私たちほみずからに身体を与えるけれども、それはギリシア的身体やキリスト教的肉体とどう違うのか。主体化とは、生存の様態を、あるいは生の様式を生産することなのです。
 ならば、「人間の死」という主題と、審美的主体化という主題のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。道徳の拒絶と倫理の発見のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。問題に変化がおこり、新たな創造がおこなわれているのですl。それに、主体化は生産されるものであり、「様態」なのだという事実をおさえておくだけでも、「主体化」という言葉のあつかいには相当の用心が必要だということはじゅうぶん理解できるはずです。フーコーは「自己そのものと正反対であるような自己の技芸」という言い方をしています。もし主体があるとすれば、それは自己同一性なき主体なのです。プロセスとしての主体化は一種の個体化であり、個体化は個人的であっても集団的であってもいいし、一個人についておこなわれても、多数についておこなわれてもいいい、そして個体化にはさまざまなタイプがあるのです。「主体」タイプの(それはきみ、これはぼく、といった)個体化もあれば、(事件)タイプの、たとえばそよぐ風、気圧、一日のうちのある時間、戦いといった、主体なき個体化もあるのです。ひとつの生や一個の芸術作品が主体として個体化されているかどうかは、まったくもって定かではない。フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。日常卑近な状況でも、すでにそうでした。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ気圧の変化とか、一種の(事件)、あるいは電界か磁場など、人間ならざるものに見えたのです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の世界に属するものではなかったのです。強度がいくつも集まったような状態。そんなふうであるとか、そんなふうに見られるということがフーコーを苛立たせたこともあります。しかし、フーコーの全作品がそうした強度の束によって培われていたというのも、やはり否定しようのない事実なのです。〈可視的なもの〉も、フーコーの場合には輝きやきらめき、あるいは稲妻のような、光の効果だった。言語は巨大な「ある(ilya)」が三人称に置かれたものにほかならないし、要するにこれが人称の対極に位置するわけです。フーコーの文体を成り立たせる強度の言語。これもシユレーターとの対談に出てくることですが、フーコーは「愛情」と「熱情」の対比を敷桁してみせ、自分は熱情の人であって愛情の人ではないと述べています。この文章のすばらしさは、即興の対話ということもあって、フーコーが愛情と熱情の区別に哲学的な意味合いをもたせようとはしていないところにあります。無媒介的な、生のレベルで語っているからです。愛情と熱情の区別は恒常性と非恒常性の方向でなされているのではない。いちおう同性愛と異性愛を話題にしてはいますが、かといって同性愛と異性愛の対比をおこなっているわけでもない。フーコーが述べているのは、むしろ、個体化はふたつのタイプに分かれるということなのです。一方の愛情は人称にしたがって個体化をとげ、もう一方の熱情は強度によって個体化をとげる。あたかも熱情が人称を溶解させたかのように。しかしそうすることによって未分化の状態に陥るのではなく、いつも相互に相手を包みあった、可変的で連続した強度の場に浸されるようになるのです(「それは絶えず動いている状態でしたが、かといって特定の点に向かうのではなく、力が強まる時期と弱まる時期がある。白熱して燃えあがる時期があるかと思えば、おそらく惰性からでしょう、とにかく理由もはっきりしないまま、不安定な状態がつづくこともあるのです。極端な場合にはしばらく自己を保ち、やがて消えていこうとする……自分白身であるということはもはや意味をもたないのです…」)。愛情はひとつの状態であり、人称や主体の関係です。これにたいして、熱情のほうは人の一生にも匹敵する長さをもつ人称以前の(事件)であり(「私はここ十八年来、誰かにたいする、そして誰かのための熱情の状態を生きているのです」)、主体なき個体化をおこなう強度の場なのです。トリスタンとイゾルデの関係は、たぶん愛情でしょう。けれども、いま話題にしているフーコーの文章にふれて、こんな感想を述べた人もいるのです。『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフは熱情だ、純粋な熱情であって、愛情ではない、とね。じっさい、『嵐が丘』は恐るべき魂の兄妹関係であり、もはや人間とは言いきれないものを表現している(彼は誰?―狼さ……)。情動のさまざまな状態を新たに区別してこれを表現し、それぞれに異なる情動を感じ取ってもらうのは並大抵のことではない。フーコーの仕事が中途でとぎれているという事実も関係しているでしょう。フーコーが生きていたならば、生の場合と同じような哲学的射程を、熱情と愛情の区別に与えていたかもしれないのです。ともあれ、フーコーが「主体化の様態」と呼んだものについて、大いに用心してかかるべきだということだけは、きちんと理解しておかなければなりません。フーコーのいう様態には、たしかに主体なき個体化が含まれている。これが問題の核心でしょう。それに熱情も、熱情の状態も、おそらく主体化の場合と同じで、(外)の線を折り畳み、生きうる線につくりかえ、呼吸する手段を身につけるという意味なのではないか。フーコーの死に直面したつらい気持ちをいだきつづけている人たちは、あの卓越した作品が熱情に呼びかけたところでとぎれているということで、悦びをおぼえてもいいのではないかと思います。

 閑話休題。これはα7RにKODAK Ektar 1:3,5 F=5cm No 107****の容姿です。

ガタリ 集合的発話者

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 「今度の本ではくわしく説明しなかったことがある。それは言表行為の主体と言表の主体をへだてる断絶を乗り越えるような、言表行為における集合的発話者の考え方だ。」

今度の本というのは「アンチ・オイディプス」か「千のプラトー」か判然としないが後者じゃないかと思う。 ガタリの発言で『記号と事件』のなかにある。

直感的に言うが、一般的に信じられているほど人に「人格」が備わっているわけではない。これはとても大事なことだ。
人に連続的な同一性(昨日のA氏と今日のA氏の同一性)は実はないのです。だって「えっ? あの人はとてもおとなしくそんな事件を起こす人には思えない」というような話題はざらでしょう。それがホントなのです。人は「こんなふうにある」のではなく「こんなふうになる」のです。
「ある」は存在論、「なる」は生成論ですね。人は「そうなる」のであって「こうある」のではありません。
そう考えると先の「言表行為における集合的発話者」ががぜん輝きを増す。

たとえばのハナシこの記事(ブログ表象)の主体は「ぼく」ですが「ぼく」ってどれだ。よくわからないでしょう?
卒業式の校長式辞の主体はだれだ?校長の信念?来賓の評判?県や国の意向?保護者の?
式辞を述べる人はまさに集合的な発話者となり「式辞をのべる人」になっているのです。
言表は幾重にも織り込まれている。

絵は7sとコダックのエクターektar 50mm3.5。

α7sとAPS改造レンズ

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 7sの「カラーバランス」のズレを3週間にわたって「そんなもの」と思っていたこと。
これには、思いを巡らさないでは済まされなかった。「哲学者」ですからねえ。w
かのミシェル・フーコーですよ、「認識は誤認だ」と言ったのは。今回のことは「知覚」の入口に毀損があったわけだから、「誤認こそが認識だ」ったことになる。
たまたま居合わせた方の7sをみて異変(認知に毀損があること)に気付いた。私たちの振りかざす「事実」なんぞ、もろいもんだ。
しかしこの3週間、変なカラーバランスでも楽しかった。w
シネフィル、あるいは外式ISO64のコダクローム的で、あれは好みなんです。
「リバーサルフィルム」の長時間露光みたいなもんですね、と知人にのたまっていた。笑える。
「リア充」そのまんまじゃないか。w 
好みとはいっても「設定リセット」したから好み設定は不明。オリジナルのrawファイルがあるから解明できるかもしれないが。

さてさて。知人作Kodak EKTANAR 23mm_改の最短撮影距離は約25cm。ミセの外から撮影。



背景を入れたいときには重宝しますよね。

 ちょっと不思議なのがKodak ADVANTiX F300には23mmと25mmがある、ということ。拡大画像はありませんがわかります? 
レンズ部の意匠も異なります。



さらにKodak EKTANAR 24mm f6.4 というのもある。これは Kodak ADVANTiX F320とKodak ADVANTiX F350についている。
「変種」の多いカメラなのだ。1mmきざみで3機種出すって何なのでしょう。

改造APSレンズの快感

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 (お詫び):入手時の設定のまま7sを使い、カラーバランスが不自然です。(色温度が低い)
「色味」やカラーバランスについての記事は全面的に撤回します。
「設定リセット」を施して現在は正常に撮影できています。申し訳ありません。

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(α7s/Kodak APS Ektanar 23mm f6.6/35 拡大画像あり)

 特急大牟田行きの先頭座席。雑餉隈(ざっしょのくま)は高架になるらしい。
完成は平成35年。死んでるねオレは。
APS抽出のレンズの快感。のこりはLightBoxで見てください。

ここに8枚あります。
 (お詫び):入手時の設定のまま7sを使い、カラーバランスが不自然です。(色温度が低い)
「色味」やカラーバランスについての記事は全面的に撤回します。
「設定リセット」を施して現在は正常に撮影できています。申し訳ありません。

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 kodak advantix f300搭載のKodak Ektanar 1:6.6/23mm_改をα7sで。
夜のものを少しですが拡大画像(横=1060)でご覧あれ。



①定点観測地点です。ISO=51200。SS優先1/100秒。23mmですからパンはアドバンスな広角。
α7sならではというところだが、こんないい実写経験は滅多にあるもんじゃない。見事。
APS単焦点ガラスレンズはダイヤモンドかもしれぬ。(情報を秘匿しておきたいが。皆様のために公表。w)
これを発掘した知人の「知見」と「想像力」に脱帽。感謝。



②はっきりと樽型歪曲がみれる(次の③も)。が、ノイズなしでこんな絵を手にできる。
この状況は、epoch making というよりinnovation だと言ってもいいのではないでしょうか。



③周辺の流れもあるか?
α7sに取り付けると、Ektanar23mmは面白い。

Kodak エクタナー 23mm

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 (お詫び):入手時の設定のまま7sを使い、カラーバランスが不自然です。(色温度が低い)
「色味」やカラーバランスについての記事は全面的に撤回します。
「設定リセット」を施して現在は正常に撮影できています。申し訳ありません。

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 Kodak エクタナー Ektanar 1:6.6/23mmでⅢfを。かなり寄れます。
SILKY現像。拡大画像はSILKYの「領域設定」で66サイズに切りだして現像。間違いなくトイ風味、いやあ「写実」ですねえ。


(α7s/Ektanar 1:6.6/23mm)

コダックAPS 23mm

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 Kodak Ektanar 1:6.6/23mm (3 elements) 抽出のレンズ。


(拡大画像なし)

5円硬貨と同じ径。キッチュでTOYなレンズの筈です。知人製「写るんです」。
7Rでは破綻がみえるが、7sではいいのです。
実験では、テーブルフォトで、ライカ軍艦部ロゴやノブのローレットがビシバシ堅く写っていた。
23mmのパースペクティブが効く。老人が遊ぶJKカメラ。(あ、JK今やスマホか)。楽しみだ

小林政広

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小林政広という映画作家を知ってるだろうか?

40歳を過ぎてからその道に新規参入。

もとはシンガーだったらしい。

東京出身だが「北海道」ロケが多い。

固定カメラのフレームに出入りする人物、

繰り返し実行されるパンやチルト、

圧倒的な原風景のイメージを繰る。

まだ8本しか撮ってない作家だ。

それらは、こんな作品。(PDF 160KB)

何度か登場する苫小牧、なかでも「勇払」を

google地図で徹底的(!)に洗った。(笑)

R-15指定の『フリック』のクレジットにでてくる

「べんてん鮨」

栄町の「パンとケーキのこばやし」

「BAR27・s」

などなど、そのほとんどが今も現存する。(あたりまえか?)

・・・・・

高田渡が宿の主人だった「天竜館」。

これがなかなか捜せなかった。

PanasonicのStrada(カーナビ)にヒットした。

DVDは2004年製。

その電話番号からググると・・ひっそり、あるじゃない。(笑)

臨海南通に面する「下宿天竜館」の詳細図

2階建の、ノッポの影まで写っている

・・・・・

『幸福 Shiawase』の女のプレハブ=民間風アパートは

『バッシング』のがら空き=市営風アパートの真向かいにある。

(じゃないか?あれは。違う?)

勇払駅舎が文化遺産にみえる。

『フリック』第1章の煙(水蒸気?)を吐く高い煙突も印象的だ。

日本製紙のものか?

いや鉄塔付きで堂々としてるあたりは王子製紙の蒸留塔かな。

勇払の航空写真。煙も見える

地図ではこうなる

・・・

逸脱し混濁した「第3の時間」がたちあがる。

僕の「内在平面」の位相に確実に風景があらわれる。

僕はそこを歩いている・・のだ。

・・・・・

全作品に感じる独特なカメラワーク。

それらは小林が拘泥し指示したものだと思う。

『フリック』のカメラは

(あ、ちなみにフィルムはFujiだ。Kodakじゃなく)

伊藤潔、という人物が担当している。それはそれは独特だ。

が、撮影者は違っていてもカメラワークで目指す強度はほぼ同等だ。

潜在性から出現するイメージを作家とともに

待機しているような気分にさせられる。

・・・・・

「現在の時間の先端」を意識しながら否応なく(?)

見続けた10日間だった。

これこそ冥利というほかはない。

photo pages

photos

地上の夜の天使たち