生きる哲学

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週刊新潮9月29日号。病院待合室で。
ちあきなおみの墓参の様子。隠し撮り(だろう)が、
グラビア扱いで出ていた。
その写真に動揺を覚えた。10日前のことだが、
絵が浮かんでくる。
喪服。あふれる花束。そして泣き崩れる顔。

「喪の作業」というものがある。
それは何も死に限るものではない。
いまや全身に及ぶ「喪失感」をどのような方法で
溶解=受容していくか、その作業です。
個体(個物)が受肉した傷を、どう受けとめるか、
生の哲学のテーマそのものです。
「出来事」の問題系であり、
「自己の構成」の問題系であり、
「絶対的内在」の問題系でもあります。

新潮の写真に戻りましょう。
これは僕の想像にすぎませんが、
彼女は癒えてない、と感じました。
大変だろうな、と同情します。
それが19年ともなれば想像を絶する。
ヒトは何ゆえそのような苦痛を受けるのだろう?

ですからこれはまさに「生の哲学」の諸問題なのです。
僕自身もそうでしたがヒト科の生き物は
何度もこれを通過していくことになります。
ヒト科の生き物でなければもっとたやすく
越えていけることなのですが、思考し、「同一性」を
求めるヒト=ニンゲンにはこれが簡単ではない。
「自同律の不快」が襲うように、「同一性への不快」が
訪れないものだろうか?
あなたはどう思いますか?
「自分であることに、どうにもいやになる」ということ。
そんな意識がかつてありませんでしたか?
そこから何を考えましたか?
自分を離れる、ことではありませんでしたか?
愛する人を捨て去る・忘却すること、
それは自分を捨て去る・忘却すること、と同じ属性です。

「アイオーン」のただ中の自分、
これ、とつかんで示すことができない自分、
それ(そんな様態)を受け入れたい。
愛したヒトは外在の個物です。
外在の個物と切っても切れぬ縁があるわけですが、
そのタコ糸を切りましょう。切れば新たな様態と
変わってゆくでしょう。
そんなときこそ「同一性」を捨てましょう。
たとい懐かしくとも(笑)、
私を十全に生かさない「同一性」には、
見切りをつけてあげましょう。
自己を構成してゆくということはそういうことです。

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このページは、が2011年10月10日 10:26に書いたブログ記事です。

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