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Results tagged “シネマ1” from 新地のドゥルーズ

シネマ1

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「シネマ1」に「感じない」理由。
ドゥルーズが映画について考えた諸形式があるとして
当の映画たちがその形式にどう配分されうるか、
ということを滔々と述べられてもねえ。
言説に正当性を感じこそすれ必要性を感じない・・ということだ。
正当性についていえば、
第11章「フィギュール、あるいは諸形式の変換」をみよ。
黒澤明と溝口健二の作品に関する配分の見事なこと!
さすがだ。完璧で震えがくる。(笑)
それでもだ。問いをひとつ、
『誰も知らない』で妹を埋めて電車で帰るシーンね。
コスチュームが、行動イメージの小形式(A-S-A´)そのものだ、
と知覚できたとして、それがどうしたというのだろう?
実際、観ているあいだドゥルーズの配分を思い起こすことは
あるには違いない。
けれどおおむね僕は「別の場所」にいる。
「感じない」理由はそういうことなのだ。
・・・・・
『剱岳 点の記』を民放地上波で期待をしないで観た。
予想を裏切らないツマラナイ映画だった。
剱岳の美しさも怖さもないじゃないか。
(立山曼荼羅の針の山のほうがコワイ!笑)
木村大作の『剱岳 点の記』ねえあれは退屈だよ、
それでおしまいになってしまう。
そんな怠惰な僕に、ドゥルーズの配分を考慮する必要が
あるだろうか?
ドゥルーズもそんなもん求めてるわけじゃなかろうけどさ。
・・・・・
そう言いつつも
当市の図書館に出向いて
「シネマ1」の貸出延長手続きを済ませたのだったが。(笑)

シネマ1 運動イメージ

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ドゥルーズの「シネマ」につては
「シネマ2」の後に「シネマ1」が訳された2008年暮れの
「現代思想」12月号に詳細が知れる。
それぞれの翻訳者の対談が組まれてある。
宇野邦一と財津理は当然のことながら
「シネマ」がどれほど重要なテキストであるかを
熱意・強度を駆使して語る。
(と、僕には思える)

県立図書館から僕が住まう市の図書館に回してもらい
「シネマ1」を恣意的に選択して読む。
順序は第9章「行動イメージ-大形式」
第6章「感情イメージ 顔とクロースアップ」
弟12章「行動イメージの危機」
ついで第1章「運動に関する諸テーゼ」と
第2章「フレームとショット、フレーミングとデクパージュ」だ。
貸し出し期間は2週間なので、こんなところか。

さて、それほど重要なテキストなのか?
悪いが僕はそれほど「感じなかった」。
テメー、数章読んだだけで、ぬかすな!
ま、そういわれてもいたしかたない。(笑)
でも、そうなのだ。
そう言いつつ期間延長したりしてね。
「シネマ2 時間イメージ」も借りたりするかもしれない。
ま、もう少しは生きていたい。(笑)

今日はウチの近くのマックで
涼みがてらワイヤレスゲートをしているが、
エアコンが省エネでぬるい。
汗ばむほど。
熱入れて言うほどのことはないけど。

あ、そうだ。
「シネマ」はドゥルーズが言及するフィルムを見なくても読める、
と、どこかで誰かが書いていた。
けれど、まあできればシナプシスだけでも・・が人情だろう。
現代はyoutubeがあるからいいよねえ。
グリフィスの「イントレランス」だってちゃんとある。
原題で検索かけるといい。
いい時代だ。

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