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Results matching “身体への配慮” from 新地のドゥルーズ

ドゥルーズの転回

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『ドゥルーズ/ガタリの現在』の中には
「ドゥルーズ哲学における <転回> について」
-個体化論の転変
という檜垣立哉の一文がある。
これは檜垣立哉の持論のようなものだと思う。
後期のドゥルーズから個体化論が消えた、という話だ。
納得できる論攷です、はい。

僕はドゥルーズをその「後期」からはじめたからか
『差異と反復』『意味の論理学』の「現象の理路」を
取り込むことにまったく抵抗がなかった。
たぶん僕がいい加減なんだ。

今年の初夢は
背中に皮膚がんができた、というものだった。
「身体への配慮」を乗り超えようね、といいながら
夢ではしっかりうなされる。笑えるハナシだ。
夢はあれは無意識がなせるわざだ、とするなら
どのみち僕の範疇外のことだ。
夜中の3時だったので、もう起きようかとも考えたが、寝た。

夢の後先では「内在平面」に少しの差異が生じたろうか?
ちょっとわからない。
どちらにせよどうにもならない。
「内在平面」「存立平面」に関して言えば、
リゾームのひとことで僕は処理する。

さらに、個体化については「理路」を問わない。
いや実際は問うているのだと思う。が、深追いしない。
願望だが、個体化、すなわち「受肉」はこれを受け入れる。
願望だが、運命を受け入れる。
願望、ですよ。

「テクストは、超越への嫌悪とともに、内在平面の露呈に
繋がるかぎりでの実践として捉えられる。もはや、「主体」や
その知覚が成立することの理路が問われるのではない。
端的に動物になること、知覚しえぬものになることが重要である。
それは哲学ではなく、実践としての倫理なのである。」
檜垣立哉 前出「転回」

その通りなのだ。
大げさに言えば
ドゥルーズを生きよう、と思う者がいれば、
その者にとっては概念を超えたこれは「倫理」に他ならない。
とはいえ、僕はこれからも出来事の発生について
思い続けることに変わりはない。

皮脂欠乏性湿疹

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蚊に刺される体質で、
車の中まで追ってくる。
虫さされもあるのだが
数週間、足首から膝にかけて
湿疹みたいなものが多発し、かゆい。
皮脂欠乏性湿疹というらしい。

「でものはれものところかまわず」と。
いうじゃありませんか。



マイザー軟膏0.05%20gとユベラ軟膏10gの混合練り。
他にダイアコート軟膏0.05%の10g入りチューブも。

保湿というなら馬油はどうかとネットで調べると
オーケーのようだ。椿油もいい、と。
さもありなん。
ステロイド剤や副腎皮質ホルモン剤を
べたべた塗るのもなあ。
でもかゆいしねえ。やんぬるかな。
山ズボンが皮膚を擦る按配になるのか
外出後に症状が出るような気がする。
辛くて夜中に起きだすしまつ。
難儀じゃのう、身体への配慮!

日本タオルで洗う。
(手ぬぐい、ですないわゆる)
酒はできれば飲まない。
綿パン綿ソックスを着用。
玄米をくらう。
とまあ、思いつきでいえばそんなところ?
でもトンカツ、すし、チャンポンは
断然、頂戴します。

そうです。ニンゲンは何者かに生成されます。
たといそれが湿疹ジジイでもよろしい。
現存在からの逃走線をひねり出し
珍妙なゾーンに潜り込み、奇妙な生き物に
なりましょう。

「人間は自分も含めて終わってる」
と僕は思っている。「自分も含めて」です。
30代後半からは確信=口癖となった。
おなじことを小泉義之が
『生殖の哲学』の中で言っている。
同著を昨年2度読んだ。

ドゥルーズを知る人は『千のプラトー』のなかの
「動物になる」を知っている。
浅田彰のせいにするわけではないが
『逃走論』に Corps sans Organes の記述があって
そこに、ちびくろサンボのハナシが出る。
虎がぐるぐる回ってバターになる・・あれだ。
「器官なき身体」をちびくろサンボの
虎バターに譬える浅田彰。
いやあ、いいね、これ。当時はそう思った。
これが僕のドゥルーズ解釈の原体験となった。(笑)

このトリッキーな譬はしかしたとえです。
「動物になる 」は比喩ではないのです。
ドゥルーズ(正確にはドゥルーズとガタリ)を
さらに推し進めて、小泉義之は
終わってしまった人間に代わる「生物」を
「生殖技術的」に待望する。
これはつまり
人間を裁定する「生物」を待望することを意味する。
それは人間の審級、人間の審廷を超える存在だ。

おわかりだろうか?
交雑体=ハイブリッド=モンスター=エイリアン・・
その種のものを(まさに「胚種」です)待望する。
勇気を持って交雑体を産む女性があらわれることを
期待すらしている。
そして、そのようにして出現した者と
人間は共存できる、と考える。

そんな思想家がかつて日本にいただろうか?
いない。ここまで言い切った思想家は小泉義之をもって
嚆矢とする。それも世界でだ。
身体への配慮を乗り超える、ということも
そんな希望とともにあるような気がしてならない。
私が死んでもほかに人間はいる、ではない。
私が消えてもほかに生物はいる、なのだ。
そんな希望が残余としてあるからこそ、
終わってはいても人間は生きているのだ。
一読してみることをお薦めします。

なぜ小泉義之か

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「現代思想」2008年12月号、檜垣立哉との討議。

「来るべきドゥルーズ」。

そのなかの

"現在の社会科学は基本的に死んでいる"

から始まる箇所。「介護の社会化をどう考えるか」のくだり。

小泉義之の言を以下に。

『ドゥルーズだったら介護の社会化は

不気味でおぞましい、と言うにちがいありません。(中略)

在宅であれ病院であれ中間施設であれ、

死ぬときまで色々な療法とかケアとかいう名の

コントロールを受けるわけです。

とてもではないけれども耐えがたいし、自由を抹殺される。

だから路上で死ぬ自由を確保したい、

とドゥルーズだったら間違いなく言うでしょう。』

この言に実際のドゥルーズの最後を思い浮かべるのは

僕だけじゃないと思うのですがどうですか?

・・・・・

僕はこの年末に2回に分けて国立医療センターで

消化器系(膵臓)、泌尿器系(前立腺肥大)の精密検査を受ける。

もうすでにして

「自由を抹殺される耐えがたい」コンベアにのっかっている・・。

だがしかし、僕自身の軌道修正は可能だと考えている。

精密検査を受けないとは言わない。(一時はそうも思った)

が最終的な選択権は自分にある。

今回のことは総じて

小泉義之の『デカルト』のなかにある「死にゆく練習」だと思う。

「身体への配慮」を乗り超えてこそ安らかな道が開かれる。

しかも、その乗り超える手立ては独自・勝手でよろしい。

そうは思いませんか?

身体への配慮

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わけあってウチから歩いて5分もかからぬマックで。

外はこんな具合。↓

通信はこんな具合↓

先週、前立腺の具合が悪いのでCTとエコーをやった。

前立腺だけでなく膵臓も肥大していた。

うーむ。

現在腫瘍マーカーの結果待ちだが

いずれにせよ入院しなくちゃならないようだ。

で、いろいろ整理をしている始末。

入院時に「哲学する」ホンとして迷いなく

小泉義之を選択した。

Amazon中古で以下の書を注文。

1.ドゥルーズの哲学 -生命・自然・未来のために-

2.生殖の哲学

3.ドゥルーズ/ガタリの現在

4.病の哲学

小泉義之はかねてから身体への配慮を乗り超えることを

提唱していたように思う。

病が運命ならそれを受け入れる生き方を説いていたと思う。

さて、この僕はどうだろうか?

・・・・・

今日はデルのPowerEdge 2850 を出品した。1000円で。

売れるだろう。

僕にも買い手がついたのかもしれぬ。

死神という買い手が。

僕はいくらでウォッチされてるんだろう?

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