小泉義之:人間は終わってる

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「人間は自分も含めて終わってる」
と僕は思っている。「自分も含めて」です。
30代後半からは確信=口癖となった。
おなじことを小泉義之が
『生殖の哲学』の中で言っている。
同著を昨年2度読んだ。

ドゥルーズを知る人は『千のプラトー』のなかの
「動物になる」を知っている。
浅田彰のせいにするわけではないが
『逃走論』に Corps sans Organes の記述があって
そこに、ちびくろサンボのハナシが出る。
虎がぐるぐる回ってバターになる・・あれだ。
「器官なき身体」をちびくろサンボの
虎バターに譬える浅田彰。
いやあ、いいね、これ。当時はそう思った。
これが僕のドゥルーズ解釈の原体験となった。(笑)

このトリッキーな譬はしかしたとえです。
「動物になる 」は比喩ではないのです。
ドゥルーズ(正確にはドゥルーズとガタリ)を
さらに推し進めて、小泉義之は
終わってしまった人間に代わる「生物」を
「生殖技術的」に待望する。
これはつまり
人間を裁定する「生物」を待望することを意味する。
それは人間の審級、人間の審廷を超える存在だ。

おわかりだろうか?
交雑体=ハイブリッド=モンスター=エイリアン・・
その種のものを(まさに「胚種」です)待望する。
勇気を持って交雑体を産む女性があらわれることを
期待すらしている。
そして、そのようにして出現した者と
人間は共存できる、と考える。

そんな思想家がかつて日本にいただろうか?
いない。ここまで言い切った思想家は小泉義之をもって
嚆矢とする。それも世界でだ。
身体への配慮を乗り超える、ということも
そんな希望とともにあるような気がしてならない。
私が死んでもほかに人間はいる、ではない。
私が消えてもほかに生物はいる、なのだ。
そんな希望が残余としてあるからこそ、
終わってはいても人間は生きているのだ。
一読してみることをお薦めします。

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このページは、が2010年3月28日 06:00に書いたブログ記事です。

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