なぜ小泉義之か
「現代思想」2008年12月号、檜垣立哉との討議。
「来るべきドゥルーズ」。
そのなかの
"現在の社会科学は基本的に死んでいる"
から始まる箇所。「介護の社会化をどう考えるか」のくだり。
小泉義之の言を以下に。
『ドゥルーズだったら介護の社会化は
不気味でおぞましい、と言うにちがいありません。(中略)
在宅であれ病院であれ中間施設であれ、
死ぬときまで色々な療法とかケアとかいう名の
コントロールを受けるわけです。
とてもではないけれども耐えがたいし、自由を抹殺される。
だから路上で死ぬ自由を確保したい、
とドゥルーズだったら間違いなく言うでしょう。』
この言に実際のドゥルーズの最後を思い浮かべるのは
僕だけじゃないと思うのですがどうですか?
・・・・・
僕はこの年末に2回に分けて国立医療センターで
消化器系(膵臓)、泌尿器系(前立腺肥大)の精密検査を受ける。
もうすでにして
「自由を抹殺される耐えがたい」コンベアにのっかっている・・。
だがしかし、僕自身の軌道修正は可能だと考えている。
精密検査を受けないとは言わない。(一時はそうも思った)
が最終的な選択権は自分にある。
今回のことは総じて
小泉義之の『デカルト』のなかにある「死にゆく練習」だと思う。
「身体への配慮」を乗り超えてこそ安らかな道が開かれる。
しかも、その乗り超える手立ては独自・勝手でよろしい。
そうは思いませんか?