" href="http://hisaaki.net/mt/cgi-bin/mt-search.cgi?search=%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88&Template=feed&IncludeBlogs=2" />

Results matching “フロイト” from 新地のドゥルーズ

今日的なアナイス・ニン

|
アナイス・ニンを今日的にはどのように感じるか・・。

父との問題(いわゆるインセスト)があって
オットー・ランクの分析を受けています。
ほどなくそのランクとも関係が生じます。
だいたい、分析者と患者の間の「転移」には
「性的関係」も含まれるのだろうか?
それでは治療ができないじゃありませんか。
その時点で治療は破綻したともいえます。
ランクはフロイトの高弟で長い間重要な役職にも
ついていたいわば「業界」の重鎮です。
そんなヒトがいとも簡単に男女の関係に入る。
不思議な気がしません?
(精神分析家にはこの問題はけっこう多い)

『インセスト』は1932-1934の日記です。
アナイス・ニンが30歳になったばかりです。
若い彼女のふるまいは「生の哲学」に立脚すれば
照準はむしろ合ってくるように思います。
ヘンリー・ミラーの場合も同様だと思いますが、
アナイス・ニンとの間にこそ事件が生じるのです。
山を登るヒトにしか遭難は起きません。
アナイス・ニンの「場」や「領域」にしか
起きない「出来事」があったのです。
それはアナイスに沿った方向でシステムの変貌が
発生したともいえる、そんな「出来事」です。
ランクやヘンリーとの間には前-個体的な萌芽があり
それが「出来事」へと実現してゆきます。
ドゥルーズの『意味の論理学』第十五セリーに
照らしてみれば、アナイス・ニンを理解できるような
気がします。
(とりわけ「非人称的で前-個体的な特異性」小泉訳:p186-)
しかし端的にいって、アナイスの出来事が、
彼女の主体そのものの構成に有効だったかどうかは
疑問です。主体化や個体化は逃げていったのでは
ないでしょうか?彼女はつねに「分岐する」存在でした。
日記における集中、内在における拡散。

元来、「出来事」の波及効果はそんなもんです。
「出来事」そのものが生成に関与するわけです。
その意味では誰もがアナイス・ニンを分け持っている、と
いえましょう。こんにち、「生の哲学」的にみれば、
アナイスの発生は私たちの潜在とも思えるのです。
少々レトリックに過ぎましたかね・・(笑)
アナイス・ニンを読んでいる。
『インセスト』無削除版。(杉崎和子訳 2008 彩流社)



(NEX-7/アンジェニュー 17-68mm TYPE L1)

自己を語ることに執着すれば、
究極はこういうことになります・・
しかし、
出来事は「アイオーン」であり、日記といえども
現実そのものは取り逃がすしかありません。
過剰なレトリックがあるのかもしれない。
事実かどうかはこのさい重要なことではない、
とも言えるでしょう。

生涯にわたって日記で自己言及をし続けた女性。
独特で、似た女性を思い浮かべるのはちょっと難しい。
精神分析の「症例」としてはありえるか。
フロイトとユングの間にいたザビーナ・・のような。
実際に、アナイスはオットー・ランクの分析を受け、
彼とのあいだに「関係」もあった。

アナイスの「過剰」や「横溢」それに「確信」には
常軌を逸するものがあり、精神分析的な
アプローチができるものだと考えられる。
思えばアナイスは僕たちに分け持たれたものでもある。
僕たちもまた彼女に分有される存在なのだ。
私たちは身体と精神について何も知らない、と
改めて観念することになる。
そそられる箇所は多いものの、
冗長で少々退屈することも否めない。
でもまあ、すごい。(笑)

文化や時代の違いもありましょうが、
なによりあれらは「生来」のものです。
個体の身体や情動にかかわる運命、事件です。
そうアナイス・ニンの血と骨です。

僕はフィッツジェラルド=ギャツビーのような
馬鹿騒ぎ・空騒ぎ系が苦手なのだ。
「残余」もへったくれもない空虚な後味の悪さが
いやでしてね。何かが損なわれる。
『インセスト』もそうだと決め付けるわけではないが、
どうかなあ、僕は途中でやめるかもしれない。
と、そういいつつも
最後まで付き合う勢いではあるのだ・・。

駅、空を飛ぶ夢

|


シャシンは13:30博多発東京行き「のぞみ」。
阪急博多=鼎泰豐から見た風景。
散見する点光源は室内灯の反射。
NEX-7/ヘクトール28mm(Hektor 2,8cm 1:6,3)です。
周辺光量がガクンと落ちます。

駅や空港は文句なしに好きです。
寓意の宝庫です。シニフィアンが連鎖する場所です。
思いつくままのイメージ(連想)は、
離脱。新しいトポス。飛行。発見。現在と過去。
惜別。恋人。性愛。不安。再生・・・。

空を飛ぶ夢を見たことがない、というヒトは
少ないのではないでしょうか?
僕は若いときから何度みてきたことか。
フロイトはそれを「タカイタカイ」の記憶と
考えたそうです。(新宮一成「夢分析」)
新宮一成は人生の新しい段階にさしかかるとき、
とみています。そうかも知れません。

そういえば、「マイムマイム」の哀切も
僕にはおなじ場所のような気がします。
あれら、「コロブチカ」や「オクラホマ・ミキサー」の
メロディには転調(移調?)の箇所があります。
またテンポが急に速くなったりします。
転調は離脱であり飛行そのものともいえましょう。
飛行が安定せず、地上に落ちてしまいそう・・
そのとき夢の中では「テンポ」を上げようともがきます。

「タカイタカイ」の喜悦はいつまでも続くものでは
ありません。強制終了の不安があります。
好きな女の子はダンスの輪のずっと向こうにいる。
それらは哀切なイメージです。

ヒトであるかぎり分有してしまう属性があります。
駅にも「マイムマイム」にも連綿と続くシニフィアンが
存在するのは当然で、類型的ですらあります。
映画や歌に繰り返し出現する駅、空港。
50年経っても学校で続けられるフォークダンス。
少々クリシェに過ぎはしても、
そこにはニンゲンであることはやめられないという宿命が
襞の中に織り込まれていることを示しています。
暑いので家の近くのマックでワイヤレスゲート。
ダナ・ハラウェイのチャートから抜粋します。粉飾してますが。

1.表象ではない、シミュレーションなのだ。
2.生物というより構成部品として。
3.完璧ではなくとも最適を。
4.それは退廃ではない老朽なのだ。
5.衛生ではなくストレス管理を。
6.個体というよりレプリコンとして。

7.自然/文化というよりは差異の場がある。
8.フロイトではなくラカンであって、
9.性的交渉より誰もが自由に代理母であっていい。
10.労働ではなくロボットにやらせよう。
11.精神/こころはたいしたことはない、人口知能なのだ。
12.戦争はもうない、スターウォーズになってしまう。

これらは違和感なく肯定できる。
ゆらぎはまったくありませんか?と問い詰められれば、
強いて2,6,11 あたりをあげることになるでしょう。

チャート全体は
ここにありんす。

午後も4:30ともなる時分にはマックもJKで溢れかえる。
きつい香水を避けて場所替えをする・・
この季節におきまりの、我が悲劇だ。

対象・プチット・アー

|
ラカンの「対象a」を新宮一成は
前著『無意識の病理学』(1989 金剛出版)でも
object a (対象・プチット・アー)として記述している。
が内容的には講談社現代新書『ラカンの精神分析』の方が
リリックで美しい、のだ。(笑)

「対象a」。これもまたシニフィアンだ。
「対象a」と主体(自分)との関係を明らかにしてゆく過程が
まさにフロイトが発明しラカンが完成させた精神分析だ。
昨夜、新宮一成の「対象a」のことで記事を書いた。
その夜夢を見た。

ある女性が出てくる。
僕の知る女性だが彼女の年齢は若い。
ホテル風のその部屋にもう一人若い男がいる。
女性はその男について僕に説明をしようとする。
知り合いの弟だという。見ると、男は
うつむいて何か熱心に作業をしている。(何かの工作?)
顔もあげない。
女性の僕への説明がよく聴き取れない僕は
(夢の中でも僕はしっかり難聴者なのだ)
僕の耳元で話せるように彼女の袖を引き寄せる。
洋服は柔らかく、絹のような手触りだ。
彼女が立つ窓のサッシュの溝に
ゴキブリの死骸が3匹ほどかたまっている。
それを彼女にいうと、「そうなのよ」と答える。

こんな夢をみると、つい夢のシニフィアンに思いを馳せる。
精神分析的接近・・、手放せないなあ、と思うのは
こんなときだ。無理もない。

いいのだ。
夢もまた内在ならば、内在もまた夢なのだ。

動物になる

|
ドゥルーズの基本概念、「動物になる」。
ハンスは諸力の中に引きずられ馬になったのであって、
馬の首=パパ=ペニスなんかじゃない。
ドクターフロイトは何か捉え損なっている・・・と。
いわくドゥルーズの「生成変化」の概念は
『批評と臨床』の第1章冒頭、そこにも、ある。
こんな衣装で漂う概念を僕は偏愛してさえいる。
その第1章をスキャンしてますんで、読んでみます?
(横1150ピクセル)



さて。
これがコンフォートホテルの「快眠ピラー」です。

黒崎ではデパスなしで一睡もできなかったが
うわさのコイツだけはしっかり見届けてきた。
昨日届いて早速使ってみた。
良好。

とはいえ、「精神分析」を手放すことはできない。
精神分析的アプローチがうってつけのことがらが
僕に固有の事情として内在する。
よって『ドゥルーズ/ガタリの現在』のような書物の中に
「精神分析」との橋渡しを求める。
この論集にもそれがないわけではない。
D/G 研究では今をときめく
小泉・鈴木・檜垣編の鳴り物入りの大論攷集で
手元に置いとく価値はある。

ところでここんところ眼痛で調子はさっぱり。
ロキソニンで耐える。
スカパーと wirelessgate を解約。
眼の保養につとめる。
が、ニンゲンはパラドキシカルなのだ。
NHKBS の 映画をかたっぱしから録画する。(笑)
ヒッチコックの「白い恐怖」・・・
全編が精神分析=フロイトだねえ。

ユダヤ人分析家がナチスを逃れ、
アメリカで栄えた精神分析。
DSM-Ⅲで化学治療が主流になるまでの
1950 年代のアメリカはこうだったんだ。

それにしても、見たかどうかを忘れてる・・
まあ、シアワセではある。概念化を新規にできる。(笑)


フロイト

|
タイトルは「フロイト」にしたけど関係ないかなあ。tendency の問題。たとえばここに「桃寿」と記述して、何かを想起できますか?一般的には無理かもしれませんね。この子(桃寿)が撮ったシャシンをミラーサイトにアクセスして見ることがある。この子の映像に惹かれるものがあるからだ。いうなれば秋山駿が小松川事件に関心を抱いたのと似たようなことか、と自分では思うのだ。秋山駿には「傾向」がある。そしてすなわち僕にも tendency が存する・・。フロイトがしたように「原因論的」に事件を覗きたくなる。どうしてこんなことになったんだろう? と。もちろん個人は社会的文脈のなかで理解される必要がある。が、僕は何はさておき個人が構築された経緯に興味をもつ。タブーやミステリーやサスペンスに触れたがる。それを僕の「傾向」と称しているのだ。精神分析に興味をもつのはほとんど必然ともいえる。松本清張生誕100年の年であるらしくch239 に限らず記念番組があちこちに出る。松本清張こそがまた、ある種の「傾向」を有していた。

オイディプス

|
内田センセは「村上春樹にご用心」で村上春樹になぜ人気があるかについて「父の不在」をもって説明する。ふむふむ。内田樹を知る人にはおなじみの通奏低音みたいなものだ。日本人にはフロイトの「オイディプス」はピンとこないところがある。「源氏物語」に「父」はいない。「大奥」にもいない。朝日新聞の「おやじのせなか」の父親たちはどれも母親のようだ。東京都知事にあなたは「父」を見る?僕ならば彼には「母」を嗅ぎ取る。おそらく日本だけの問題ではなかろう。「ロリータ」のハンバート教授、あれは「父」か?
僕の体験からは「去勢」の実行者は常に「母」ないし「女」その人だった、と思う。だからフロイトの「オイディプス」には何年たっても違和感が消えることはなかった。この世は「母」とか「女」とかで回っている。そう言い切っていい。その認識にたって「父」や「男」をやりなおす・・・しかないでしょうね。

photo pages

photos

地上の夜の天使たち