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(「現代思想」6月号=佐藤勝彦)
ヒッグス粒子の関連での発言。
単純に逐語的読解でも、文学的修辞あるいは哲学の概念として受容できます。
物理学に知識がなくともぐっときます。
かの天才アラーキーには「ベランダ定点」、「雲」、それに「朽ちた花」などのシリーズがある。
フツーではシャシンにならないものを撮る。そこに非対称性、非人称性の美がわきたつ。
僕も実につまらないものを撮ったりする。内在的に壊れる美が「ざわざわ」と、たとえば収差への愛着となって発現する。意味のないものの寄せ集め、その平均が日常なんだと考える。
さて。僕のよくやる以下のような広角開放F値=近接撮影は「快感」であるのは疑いないが、それが「美」ではあるかどうかはわからない。w
すべてα7RとNIKKOR 35mm2.8、開放。SILKYPIX現像。補正なし。
読み終えて、あちこちひっくり返したりして、アラーキーだと知る。なるほどね。
『三人屋』と併行して読み始めた。(そっちは済み)
途中からジジェク『事件』と岸『断片的な・・』が加わり26日には『ビッグコミック』もやってきた。w
村上春樹のコスモポリタン的な生き方がよくわかる。彼はずいぶんストイックなんですね。終始楽しく読めた。
たのしめる、といえば原田ひか=三人屋も同様にずんずん読みましたよ。じゃもひとつ別の作品を読んでみる?と問われれば・・ううむ。
いたしかたがないことですよね。
写真は7sとペンタックスマクロ50mm2.8。開放。横に「みせびらかし」みたいに鎮座するのはアンジェニューの35-140mm3.5。
(α7R/Carl Zeiss Sonnar 1:2 F=85mm/SILKYPIX)
ベラスケスの目に教皇インノケンティウス10世はあのように見えた。それがベラスケスの「認知」である。たとえそれら諸知覚の総合が「誤認」であっても、ベラスケスの剔抉の瞳にはそう見えた。ところで露出がアンダーすぎる上のシャシンですが、実際にヒトがレンズ鏡胴を見つめても網膜にはこんな絵は結ばない。この絵は人為が投入されてのことではあるが、レンズ個体とカメラ、そしていまこの透過的なモニタ画像をもたらす現像用アプリケーションのなせる業である。ぜんたいシャシンの絵はそもそものはじめから「真」ならざるものだ。ヒトの知覚とは別物だ。なのに「写真=真を写す」とはなんという皮肉な言い草だろう。まだしもベラスケスの描く教皇のほうが「真実」に近い。被写体がどうとか、テーマは何だとか、事実をどう切り取ったとかうんぬんかんぬんの前に、この偽絵の出現が「出来事」となる。偽絵とはちと穏やかではありませんね。ご容赦を。だが僕には「偽絵」がなんとも愉しいのである。
話は横道に逸れニュアンスは少し違うが、シャシンはキャパが従軍して命がけで撮った「真実」から遠く離れてしまった。もっともキャパの写真をシンジツというには括弧をつけなければならない。「真実のふりをする」のがシャシンなのです。これはキャパに限らずあらゆる報道写真あらゆるドキュメンタリに分け隔てなくいえることだ。ピクチャーとそれを見てのイメージにまっとうな道筋はない。絵はどのようにも理解されうるものだ。
レンズはいかなる被造物の力にも屈せず描写する。Carl Zeiss Sonnar 1:2 F=85mm というレンズで元それが収まっていた鏡胴を撮影している、と説明すればそこから「レシ re'cit」=物語が加味されるだろう。イメージが増幅するかもしれない。説明抜きの場合とは違ったイメージになる。だが、レンズはいっさいの物語を拒否して映し出す。拒否して、というのは、レンズは正体を明かせば見事な表現をする、というものではないからです。(笑)。
いっそ物語を明かさないがいいのかもしれない。これは課題ですね今後は少し考えてみよう。フランシス・ベーコンはベラスケスの実物を見ずに写真(あるいは図録)と「戦艦ポチョムキン」の女の叫びをネタに一連の教皇の絵を描いた。しかし見るものがそのレシを認知したのちにはそれを忘却してイメージすることなぞ不可能になる。あれれ、迂回が複雑になった。いったん筆を置こう。
さて。この絵のようなオブジェをたとえばA3とか半切大で30枚ほど並べてそれは見世物になるであろうか? これを問い立てしたかったのです。ああ回りくどい。諸兄はいかが思われますか? そりゃないよ、といわれますよね、きっと。うむ。ではなぜでしょうか? あまりに安直だから? テーマはね、「発明」ですからどうでも成立します。 シャシンって御大層なもんじゃない、とアラーキーは言うが、だからといって安直でいいやと宣言してるわけではない。シャシンと宣言した場所にシャシンが生まれるのかもしれない。敬愛してやまない深瀬昌久のシリーズ「ブクブク」はちゃんと写真展(見世物=催し)をやっています。もっとも彼は会場には出向かなかったということですが。
深瀬昌久については、ここです。
GR28mm(改造)をNEX-7につけて歩く。2枚の絵を見ると周辺光量の落ち込みがわかる。遠景には難がある。フルサイズのαR7につけても事情は同じだ。アダプタで知られるRayqualのWebでも、α7に広角レンズを取り付けることの難が報告されている。
(NEX-7/GR28mm)
さて。2枚の絵のことである。上の3羽のコブハクチョウと、下の1羽のそれは同じ日に別の場所で撮影する。4羽は1年違いの兄弟姉妹だ。この地で一時有名になった番い(つがい)が産んだ子たちだ。親である番いも近くにいる。たまたまこの日は僕の歩くコースにいなかっただけだ。かれらは決して群れない。完全に「独立」して棲息する。
ニンゲンの親子であればどうだろう? 近くにおれば声でもかける。だが鳥の(生物の)世界は違う。見向きだにしないのだ。見向いたとすればそれは「繁殖」の本能に命じられるからだ。ひとりぽっちで生きる子をなんだか可哀そうに感じてしまうのは、あえて言うが「劣った」ニンゲンの情感にすぎない。しばしばこのような光景に出会う。1羽が一昨年、3羽が昨年生まれたものだ。特に上流で暮らす1羽の個体を見るたびにグッとくる。ニンゲンの情感だ。励みになる。孤独であることを恐れるな、とね(笑)。ニンゲンは元はこのようにも酷薄で屈強な生物だったのだろう。進化によって文明文化を発明し、同時に劣等な幻想も付随して得た。襞にはもろもろの線が織り込まれている。この岸でひとり生きるハクチョウのような本能が僕たちニンゲンには残存していないのだろうか? 退化したその痕跡すらないのであろうか?・・・と。実は、この絵のことでこんなハナシは気が重い。なぜというにこのハナシ(言表)にはその日の出来事は現れてこない、と思うからだ。そういえばシャシンってご大層なモノじゃない、てなことをアラーキーは言ってる(東松照明追悼で)。それにも似たキモチか。このブログ記事にこの日の「出来事」は闖入しはしない。かかる言表のその端から何かが逃げていく。
踵を返そう。今しがたその「親」であるつがいに遭遇しました。α7Rにビゾ用ELMARをつけて撮影。こちらは周辺光量の落ち込みなどもちろんありません。1842***は1961年製。
(α7R/ELMAR 1:3.5/65/14167)
このようにオスがガーッと寄ってくる。うっかりすると靴を噛まれる。何かくれ、とせがむのだ。そうしたのはニンゲンなのだが・・。
「アサヒカメラ」3月号に、追悼東松照明。らしきヒトがそれぞれ書いている。以下はアラーキーの言。
******東松さんが校長を務めたWORKSHOP写真学校で講師を務めた荒木経惟さん。東松さんが晩年、気になる写真家として、森山大道、中平卓馬とともにその名前を挙げていた写真家でもある。******
東松さんは、50年代に「中央公論」なんかのグラビアで撮っていた。気にして見ていたよ。「地方政治家」とか、ほかの写真家とは違う切り口でやっていた。プレていないしピントも合っている。それも本質にピントが合ってるって気がするじない?写真集の『日本』で初めてまとまった作品として見て、スジが通ってるなと思った。でも、その半面、写真はそんなたいそうなもんじゃないよという思いもあったな。政治とか社会とか時代とか、アメリカニゼーションとか。写真はそんな大きなテーマをやるもんじゃないんじゃないか。だから反発して「私写真」をやったってところも多少はあるよ。
でも、WORKSHOP写真学校は東松さんみたいな人がいないとできなかったね。ああいう人がいないと新しいことはなかなかできない。でも、まだ安保の余韻があったり、東松さんと森山さんだけだと「運動」と思われちゃうぞ、と思ったから、俺が、細江(英公)さん、横須賀(功光)さん、深瀬(昌久)さんを入れようって言ったんだ。横須賀さんを入れれば生徒が集まるぞ、とかさ(笑)。でもさ、俺に声かけてくれて、先生として呼んでくれたのはうれしかったな。
東松さんの作品としては『太陽の鉛筆』がサイコー。政治とか時代じゃなくて、生きていく「生」の終点が写ってるよな。あのなかには光と風を感じているような写真がいっぱいあるじゃない? そっちのほうがいいよ。
最後は長崎かなと思っていたら沖縄へ行った。あの世に惹かれて、死に場所に選んだんだよ。東松さんは自分が撮った写真のなかに入っちゃった。まさに〝写真に死す″ですよ。(談):引用終わり
深瀬昌久が逝った。
惜しい作家です。
写真家の属性・様態に興味がありました。
かっこわるい作家だったのかもしれません。
ふつうはレンズを向けないものに写真家の内在は
占められていた。現働は廃墟や墓場、バスタブの中に
あった。自分にとってのシャシンこそが
写真家のシャシンなのだ。
アラーキーにもいわゆる「私景」は多いが
荒木とちがって深瀬の粉飾は切断の線に抑圧がない。
だが切迫感と凄みがあった。
彼は「語られるべきもの」を自覚し、
そしてそれらをさらけ出した。
演出してもかえって露(あらわ)になるふうだった。
ほんとアーティスト中のアーティストだと思う。
あのひと、花鳥風月は一切撮らなかったんじゃないか?
新宿ゴールデン街の「南海」で階段を踏み外し転倒した。
それが原因して昏倒。入院。そのまま命尽きたのだと思う。
岩波の『日本の写真家 34』でほぼ全容が知れます。
「洋子」「鴉」は代表作ですが、
以下は「美深町」と最晩年の「ブクブク」です。
深瀬さん、さようなら。僕の中ではずっと生きてます。
(EOS5DMk2/アンジェニュー35-140mm TYPE LA2)
『猿と女とサイボーグ』(高橋さきの訳 青土社)を読む。
船木亨=デジタル方法序説関連ですな。
分厚いのでジュンク堂での立ち読みが
いささか骨がおれる。当地の県立図書館から借りた。
まずは朱線のあたりを読んでみてください。
(厚みでスキャンに難あり)
身体/生体(と彼女は呼称する)をどのように捉えるかが
なんとなくわかると思います。
「身体は生まれるのではない。作られるのである。
記号、文脈、時間と同様、現在では身体も非自然化しつくされている。」
というわけだ。
第8章の「サイボーグ宣言」では「支配の情報工学」という
ひとつの見取り図を示す。
第10章においては、これは少し修正される。それを紹介します。
(スキャン合成。サイズ大。すみません。)
ご本人が言ってるように、
現在が下列のような状況だ、というわけではない。
あなたはご覧になっていかがですか。
自己のポリティクスで、境界を感じませんか?
接合面に佇んでいるような気がしませんか?
ある点では上列ゾーンに身を置いてる自分がいます。僕の場合。
まあ、認識を鍛えるチャートだと受け止めてます。
このチャートから亀裂・稲妻がみてとれる。
ジュンク堂でチャートを見たとき
咄嗟に浅田彰を思い起こしました。そう、『逃走論』です。
パラノ<>スキゾ
ハイアラーキー<>アナーキーのあれです。
実際、ヘテロ<>ゲイはハラウェイにもピッタリ来ます。
ま、そんなところです。
僕がウォーキング・コースとして使っているアリーナは
ここ3日間は「高校総体」のハンドボール競技で使用される。
あらかじめ主催者側のトーナメントPDFをダウンロードしておいて
どの時間が歩きやすいか知恵を絞ってみた。
結論から言うとハンドボールてのは
30分-10分休憩-30分(高校生ルール)の長丁場だから
競技中に歩くとコースは混み合わないかな、と考えた。
(座席で応援する生徒が多いだろうから)
けれど実際には・・雑踏同然でした。
それに例の鼻を衝くミストがあちこちに沈澱していて・・
・・・・・
ま、でも歩いた。オキシダントもさほどないので。
送球、というんだねえ、ハンドボール。
送球部のめんめんのTシャツには
ハイアラーキーでかつ同一性を追求する部活言葉が目立つ。
「歴史を塗り変えろ!」「集中力!」「自分の力を信じろ」
「弱音を吐くな」うんぬん。
ホント場違いなところに来てしまった。(笑)
どうでもいいけど魚眼で撮るとこんな場所です、僕のアリーナは。
(おいおい)↓