Sonnar 85mm f2.0

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(α7R/Carl Zeiss Sonnar 1:2 F=85mm/SILKYPIX)

 ベラスケスの目に教皇インノケンティウス10世はあのように見えた。それがベラスケスの「認知」である。たとえそれら諸知覚の総合が「誤認」であっても、ベラスケスの剔抉の瞳にはそう見えた。ところで露出がアンダーすぎる上のシャシンですが、実際にヒトがレンズ鏡胴を見つめても網膜にはこんな絵は結ばない。この絵は人為が投入されてのことではあるが、レンズ個体とカメラ、そしていまこの透過的なモニタ画像をもたらす現像用アプリケーションのなせる業である。ぜんたいシャシンの絵はそもそものはじめから「真」ならざるものだ。ヒトの知覚とは別物だ。なのに「写真=真を写す」とはなんという皮肉な言い草だろう。まだしもベラスケスの描く教皇のほうが「真実」に近い。被写体がどうとか、テーマは何だとか、事実をどう切り取ったとかうんぬんかんぬんの前に、この偽絵の出現が「出来事」となる。偽絵とはちと穏やかではありませんね。ご容赦を。だが僕には「偽絵」がなんとも愉しいのである。
 話は横道に逸れニュアンスは少し違うが、シャシンはキャパが従軍して命がけで撮った「真実」から遠く離れてしまった。もっともキャパの写真をシンジツというには括弧をつけなければならない。「真実のふりをする」のがシャシンなのです。これはキャパに限らずあらゆる報道写真あらゆるドキュメンタリに分け隔てなくいえることだ。ピクチャーとそれを見てのイメージにまっとうな道筋はない。絵はどのようにも理解されうるものだ。
 レンズはいかなる被造物の力にも屈せず描写する。Carl Zeiss Sonnar 1:2 F=85mm というレンズで元それが収まっていた鏡胴を撮影している、と説明すればそこから「レシ re'cit」=物語が加味されるだろう。イメージが増幅するかもしれない。説明抜きの場合とは違ったイメージになる。だが、レンズはいっさいの物語を拒否して映し出す。拒否して、というのは、レンズは正体を明かせば見事な表現をする、というものではないからです。(笑)。
 いっそ物語を明かさないがいいのかもしれない。これは課題ですね今後は少し考えてみよう。フランシス・ベーコンはベラスケスの実物を見ずに写真(あるいは図録)と「戦艦ポチョムキン」の女の叫びをネタに一連の教皇の絵を描いた。しかし見るものがそのレシを認知したのちにはそれを忘却してイメージすることなぞ不可能になる。あれれ、迂回が複雑になった。いったん筆を置こう。

 さて。この絵のようなオブジェをたとえばA3とか半切大で30枚ほど並べてそれは見世物になるであろうか? これを問い立てしたかったのです。ああ回りくどい。諸兄はいかが思われますか? そりゃないよ、といわれますよね、きっと。うむ。ではなぜでしょうか? あまりに安直だから? テーマはね、「発明」ですからどうでも成立します。 シャシンって御大層なもんじゃない、とアラーキーは言うが、だからといって安直でいいやと宣言してるわけではない。シャシンと宣言した場所にシャシンが生まれるのかもしれない。敬愛してやまない深瀬昌久のシリーズ「ブクブク」はちゃんと写真展(見世物=催し)をやっています。もっとも彼は会場には出向かなかったということですが。
深瀬昌久については、ここです。

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このページは、が2014年2月17日 16:01に書いたブログ記事です。

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