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Results matching “ektar” from 新地のドゥルーズ

Sirio Firenze Sculptor 4cm 1:4.5

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Sirio Firenze Sculptor 4cm 1:4.5。イタリアの1940年代のカメラのようです。固着レンズを取り出して工房でM42に改造しています。



天気が今一つパッとしないがα7sと。撮影日=2024/04/07。拡大画像あり。時系列。



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Kodak Enlarging Ektar f:4.5 100mm

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初代α7sとコダックの引き伸ばしレンズEktar100mm。(工房M42改)
撮影日=2024/03/13。時系列。拡大画像あり。























KODACK Ektar 1:3.5 F=5cm

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KODAK EKTAR 5cm3.5とα7s。知人工房M42改。
4月2日。時系列。











α7Rとコダックの引き伸ばしレンズEktar100mm(工房M42改)。大晦日。天気が悪くどうにもならないひとときであった。集魚灯のときだけはうっすらと陽が射してどうにか絵になっている。
陽光(ひかり)はやっぱり要(かなめ)なのかなあ。





ローライ35 tessar40mm

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ローライ35抽出のtessar40mm(工房M42改)の姿。後部工作の径が大きくて、標準のM42アダプタには収まらずFOTFOXの17-31を使う。



以下は初代α7sとこれで。光が十分まわるシーンでは息を吞む描写となる。

















初代α7sとコダックの引き伸ばしレンズEktar100mm。(工房M42改)撮影日2023_1_3。















α7Rとコダックの引き伸ばしレンズEktar100mm。(工房M42改)撮影日2023_1_3。F4.5,F8,F11を使用。











コダック・エクトラのEKTAR F:3.3 35mm。工房Eマウント改。α6300で撮影。テーブルフォトは今朝(4/28)。F5.6まで絞るとAPS-Cサイズの近接撮影もできないことはない。エクトラ35mmをこんなふうに使うことは設計者の念頭にはなかっただろうけど。





これはちょっと前、4/17撮影。



エクトラ KODAK EKTAR35mm f3.3

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コダック・エクトラのEKTAR F:3.3 35mm。工房Eマウント改。α6300と。撮影日=2022年2月28日。







こちらはα7sと。同年3月3日。いずれも時系列。同じ場所を行き帰りに撮影しているものもある。





















ルーマンのホンを読んだ気にさせてくれる大澤先生。県立図書館にはない。
一方下は先だって読んだ図書館の本。同じ時代を生きた切なさが息苦しい。加藤典洋は大江健三郎や石牟礼道子と比するようでもあるが、さてそれは。





コダックの引き伸ばしレンズ100mmの開放。

Enlarging Ektar 100mm

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コダックのエンラージャー用100mmレンズです。左はM42アダプタ。右はフード。知人工房製。2枚目ジャケット左に撮影用にアダプタをつけた立ち姿。大振りになります。





以下はα7sとEktar100mm。色補正をしていません。











コダックバンタムスペシャル抽出EKTAR f=2 40mm(M42改)と初代α7s。











当サイト紹介のレンズを使ってみたい、譲って欲しいと思われる方は、



までメールください。工房主と相談してお譲りします。
(メールアドレスは画像です、コピペできません)
コダックバンタムスペシャルについていたEKTARです。工房製のM42改。17-31mmアダプタに付けて初代α7s。



以下これで。











当サイト紹介のレンズを使ってみたい、譲って欲しいと思われる方は、



までメールください。工房主と相談してお譲りします。
(メールアドレスは画像です、コピペできません)

Kodak Ektar 100mm

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α7sとエンラージャー用のKodak Ektar100mm。





文句なしの「良書」。今ここまでだが今晩読み上げて明日は返却予定。しかるのち図書館でコダックをいじる。(脳内構想)α7sとエンラージャー用のKodak Ektar100mm。開放。距離1メートル。



そのエクターの面(つら)をFlektogon20mmで。左はNEOKINO。

画像多し。注意。α7sとコダックエクトラ。KODAK EKTAR 35mm F3.3。最初は開放。あとはF4-5.6。













九月になった。α7sとコダック・エクター=EKTAR f3.3 35mm。





α7sとコダック・エクター=EKTAR f3.3 35mm。





ちなみに35mm f3.3のエクター(エクトラ)とはこれです。拡大画像は横1920あります。ご注意。



県立図書館から借り受けた小玉武=『開高 健』。
当市の市立図書館=プラチェーンをまたいで2階屋上から対面を。コダックのエクトラ=α7Rを開き気味にて撮影。向こう側は当市に移転する県立図書館の造成現場。はよ来い、図書館。
さて。家でベッドに寝転がって最初のページ。これがいいんですよ。拡大画像(1600)でみてくんしゃい。これもあえて開いて撮影。「木枯らし」にピントを置いてる。アウトフォーカス部もあるが読めます。



このあと前頭葉が橙色に染まって、横浜、茅ヶ崎のホテルいくつかに、花王「リセッシュ」を使ってないか電話確認。・・全滅。ううむ。
昨夜ほぼ半分くらい読む。

KODAK エクトラ

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α7Rとコダックのエクトラ。









6月2日。鷲田=折々のことば。松浦寿輝。



松浦寿輝といえば僕には詩集「冬の本」につきる。小説もするし表象論も多い。「退職」てのは「退官」と別物か。みなトシをとったんだ。

ついでに自己顕示をひとつ。17時。α7Rとコダックのエクトラ(F5.6で)。PM2.5か光化学か場所の汚染か、マスクが必要。サングラスは緑内障+白内障の爺には必携。よって欲望はこうなる。



『現代思想6月号』特集「変貌する人類史」。山極寿一と中川新一の対談。2ページ分。山極=生命科学の話で言えば、・・以降。



α7Rとコダックエクトラ、KODAK EKTAR35mm3.3。









自作パノラマカメラ

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長文注意。
知人の自作カメラ。完成品を撮影。驚嘆の次はため息が出ます。まずは画像。(α7R/KODAK EKTAR35mm3.3)。



次は200****1963年のSUMMICRON-R50mm2.0で上から撮影。



ブローニー12枚撮りで4カットの大パノラマ。ポジを見せてもらったがなかなかのものだった。自分には経験がないので実感がわかない。都市の鍋底風の夜景を撮るとおもしろいだろうな。露光時間の関係で光源が揺れるかも。
さて2枚目を撮ったSUMMICRON-R 50mmF2。コレです。



中央にペンタックスのヘリコイドにつけているのがSUMMICRON-Rです。ストリップです。本来の鏡筒はない。ジャンク品から作ったらしい。固定絞り(およそF5.6あたり)のM42改造です。レンズ番号から1963年です。おいらが中3の時代です。光源をモロに撮ると陰影が出ますが通常撮影には重宝すると思う。
ややこしいハナシだが、この絵そのものは、α7RとUnivex Mercury Model CC といわれるハーフサイズカメラ抽出のレンズで実行してます(よって四隅がけられます)。抽出したレンズてのは35mm f/3.5 Wollensak Tricor (uncoated 3 elements)。1938年製造開始。ハンパなく枯淡かつレジェンド。博物館用のレンズです。w 
この個物Tricorについては、いずれまた紹介しましょう。で、このストリップのズミクロン1963年で撮った知人ちでのテーブルフォトをIDCでそのままモノクロ現像した。これがもろにライカレンズ雰囲気。あたりまえだ。以下。



これは今朝。



深夜食堂 KODAK エクトラ

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購読をやめた「ビッグコミック」の最後の表紙は『深夜食堂』の小林薫。『深夜食堂』は「ビッグコミックオリジナル」に連載中。(ややこしい)


(α7R/KODAK EKTAR35mm3.3)



映画になりNetflix (ネットフリックス) で配信されている。スチール担当は藤本礼奈=RENA FUJIMOTO。こんな雰囲気でシャシンして食っていけるってシアワセだろうなあ。

α7Rとコダックエクトラ、EKTAR35mm3.3。











コダック エクトラ

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α7sとコダックエクトラ、EKTAR35mm3.3。先日博多丸善でバッグが重くなるのを避けて買わなかった村上=ラオスを地元商店街で買う。





APS-CのNEX-7にコダックEKTAR35mm3.3をつけてみる。シャシンにはいろんなものが写り込む。2枚とも何気なく撮ったもの。(気負いがないということ)これを全倍にすると道をゆくカップルの表情まで写り込む。庭のもろもろの気配が、瘴気のようなものが立ち上のぼる。不思議なものだ。(NEX-7の色合いは独特だ。これはPhotoshopCSでカラー補正している)



α7sとコダックEKTAR35mm3.3。ブラボ展(ブラボって、知ってます?)は世田谷から始まり、来年名古屋までたっぷり期間がある。「写真とは見る技法です」のキャッチに触れて、先日丸善で1時間ほどハマった。











コダックエクター35mmf3.3

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コダックのEKTAR35mmf3.3の改造個物。必要あってNEX-7で動画撮り。
これはその一コマをTMPGEncにて切り出した絵。拡大画像はTSサイズの1920x1080。



以下は、そのエクター35mmf3.3をα7sにつけての開放値撮影。特に下の絵では「クセ」が出ています。



パリ襲撃事件 中田考

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『文藝春秋』2月号=立花隆=「イスラム国問題のゆくえ」。
カッターで切り離してスキャニング。PDF化。
僕にできることはまあこんなことくらい。w



中田考がでてきます。
こんな取り上げ方が実に立花隆的なのです。はい。

さて。中田考。
パリ襲撃についての中田考の論攷を僕はまっとうに読みました。
『現代思想』の「イスラーム国を封じ込める」のことです。
これをもカッターで切り抜けば済むのですが、できないでいる。
臨時増刊号=パリ襲撃事件では30本以上のさまざまな意見が読める。
30個以上の「効果」がもたらされる。




(7R,EKTAR35mm3.3)

ektar35mm3.3 コダック

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12月25日の7sとコダックエクトラektar35mm3.3。











映りが似てる。
フェティッシュなシチュエーションに飽きないでいる。w

上はコンタックスT3の抽出レンズ35mm2.8(F8相当固定絞り)
下はほぼ同等に絞ったコダックエクトラ35mm3.3。(F9.5くらいか)
(いずれもα7R。SILKYPIX現像。補正なし)





『職業としての小説家』(村上春樹)のなかで、小説の構想=引き出し、うんぬんのハナシ。
そこに『カフカ 迷宮の悪夢』のことが書かれてある。
1991年。『セックスと嘘とビデオテープ』のスティーブン・ソダーバーグの作品。
税込み16274円とある。ヤフオクで競争なし=990円。w
押し入れから、パナの名機、NV-DH2を出しRCA端子を接続して鑑賞。

7sとコダック,EKTAR35mm3.3を使う。映画も異色ならこの映りも異色。

原田ひ香 「三人屋」

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「文藝春秋」12月号=角田光代の「今月買った本」。
サムネールはPDFにリンクしています。



書評に気になるところがあり、博多丸善で検索する。
そして・・
購入したのは、コレ。



(7s/KODAK EKTAR 35mm3.3。開放)

7s EKTAR35mm3.3

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牡蠣フライを食いに出る。
いやあ。この絵で見ただけで食したくなりませんか。w
開放で撮影。IDC現像。

EKTAR35mm3.3 PENTAX MACRO50mm2.8

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モデル撮影。w
上はα7RとKODAK EKTAR35mm3.3。
(牡蠣ちゃんぽんを完食)
下はα7sとPENTAX MACRO50mm2.8。
(リモートスイッチのスポットを受ける)

KODAK 秋の色

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SONY_α7Rとコダックエクトラ EKTAR35mm3.3
秋の色を出すのはいい組み合わせだと思う。
補正なし。









↓↓これ椎の実ですよね。(ちがいます?)

KODAK エクトラ

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10月11日。6時過ぎ。
SONY_α7Rとコダックエクトラ。EKTAR35mm3.3。
ISO6400,1/50秒,F5.6のマニュアル撮影。
SILKYPIX現像。
拡大画像があります。
ブレはないものと思う。ノイズは出ますね。
定点観測なれど、雲がなければスルーする光景。
画角35mmのための場所です。欄干の水銀灯がまぶしい。
PhotoshopのWeb用保存(品質85)。



ektar 35mm3.3

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コダック_EKTAR35mm3.3(拡大画像あり)
強風が去って澄んだ青い空が。でも雲がないとちょっとねえ。
すべてIDC現像。補正なし。

7s/EKTAR5cm3.5

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エクター5cm3.5。(拡大画像あり)

G31-M7 TE

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G31-M7 TE Ver6.2というMicroATX用のBIOSTAR製マザボ。BIOSもシンプル。(2008年)
こういうマザボには敬意を表する。
必要最低限のものはある。LGA775ソケット。E5300を積んでいる。
まだ現役でいけそうだ、と今回HDDの換装を承った。



元のHDDのデータを取り出すのに使った電源変換ケーブル。P6Tのマザボの箱に見つけた。探せばあるもんだ。
やったことがある人はわかるでしょうが、7のアップデートは230個以上ありますもんね。w
ソニーα7sとコダックエクター35mm3.3。
IDC現像後Photoshopで色調補正をする。

KODAK ektar35mm3.3 エクトラ

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7sとコダックエクター35mm3.3。



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すべて開放撮影。IDC現像。
いや、いいですなあ。
グルグルぼけもいいですよね。

Z210 Workstation raid

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hpのZ210を入手し、crucialのMX100_256Gを新品で2個買う。
Gen3対応という青いSATAに刺して
raid0を構成し、hpのリカバリーCDからインストールしている場面。
MADE IN TOKYOのロゴがある。





セットアップがすべて終わりCrystalDiskMarkのスコアを出してみました。すごいなあ、コレ。
(撮影はすべてα7sとEKTAR35mm3.3)

エクター35mm3.3

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α7sにペンタックスの50mmマクロでコダック・エクトラのEKTAR35mm3.3のフェースを撮影(開放)。


SONY-eマウント改造レンズ。α7sにつけるとこうなる。
(α7Rとペンタの50mmマクロで撮影)



レンズの鏡胴部はエクトラレンズシリーズの「入れ物」を利用して制作してあります。
では、こんなビールもあります、第3弾。w 
EKTAR35mm3.3開放で撮影。剪定を終えたムラサキシキブに乗せて。

コダック・エクトラの35mm3.3。SONY-eマウント改造。素材そのものが重厚なので、重い。
α7sと福岡行き。



西鉄久留米駅・大牟田側。



今泉に移転した福新樓の博多ちゃんぽん。



次世代(第6世代)のi7のボックス。空き箱だが。天神のビックにて。



それを積むべく次世代マザボ。ソケットLGA1151。これはASUS製。Z170-A。

Kodak ektar 35mm f3.3で撮る

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吉田カバンのタグ(持ち込み)にピントを置いてる。F8でもずれると甘くなる。
(すべてα7s。拡大画像あり)



中央の灯りがともっていないランプに焦点。



SILKYPIXのモノクロ2現像。

Kodak ektar 35mm f3.3

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KODAK EKTAR f:3.3 35mmのド派手なフェース。
銘からニューヨーク州ロチェスター市のコダック、てのが読める。
でしゃばるニューヨーカーという感じだ。w
絵はα7R/LINHOF95mmで撮る。



こっちはα7sとPENTAXのmacro 50mmで。
知人の改造でEマウントになっている。
ずっしりとして重い。



で、α7Rと、そのEKTARで最短接写。開放。

Kodak EKTAR 50mm3.5

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α7sにKodak EKTAR 50mm3.5。
IDC現像。拡大画像あり。

M42-NEXアダプタ ケラレ

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 M42-NEXのケラレ続報。
知人製作の以下のヘリコイドチューブではケラレはない。
ということを今になって確認したのだからオレってなんでこうなんだろう。

まずはそのヘリコイドチュ-ブ、α7s実装を拡大してご覧あれ。



ヘリコイド部の実体は、PENTAXのHELICOID EXTENSION TUBEです。
現行品かどうかは不明。
マウント部はPixcoのC-NEXになってますが開口部は改造されています。
レンズはMade by Rollei のSonnar 2,8/40 です。
細かく美しいローレット部、フードは知人の手になるものです。
無限遠はヘリコイドのショーテスト(繰り出しゼロ)にあります。

実はそこがミソでした。
以前これに他のM42改造レンズを取り付けた時、無限が来ませんでした。
その時点であきらめていたのです。いつもはシツコイのに。w
他のレンズではオーバーインフだったのです。いやはや。
にわかに色めく、とはこのことです。
朝の5時から手元にあるM42改のレンズを何個かつけて遠景と接写(最短撮影)を繰り返す。
接写では絞り開放も。

1時間で結論が出る。
うーむ。見てください。SILKYPIXの200dpiサムネール一覧。
横1600縦1200の拡大画像でご覧下さい。



無限もきてる。ケラレはない。
いや、生きててよかった。w
持つべきは師ですなあ。うん。さすがだ。

なんとあのNEOKINOに無限遠が来るではないか。
防湿庫にはM42改のレンズはうんとある。
愉しみが増すというものです。

ちなみに今朝俎上にのせたレンズは
(ファイル名でもわかります)
①KODAK Ektar 5cm3.5
②CZ Planar 1.4/50 HFT
③COLOR-ULTRON 1.8/50
④SOLAGON 1:2 50mm
⑤六櫻社 Optor 1:4.5 50m.m
⑥六櫻社 Hexar50m.mF4.5
⑦エミールブッシュ NEOKINO 42.5/65mm
⑦Sonnar 2,8/40です。

Kodak Ektar 50mm F3.5改

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α7RとKodak Ektar 50mm F3.5改で陽が差してきた前庭を。
テスト撮影みたいなもの。(拡大画像あり)

デジタルカメラとの組み合わせだから断定はできないが、
なにげに昔のコダックのフィルムを思い出させる風合いです。

下は猫アタマ部の等倍。



もうひとつ。



下は中央部の等倍。

Kodak EKTAR 50mm3.5 改造

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 加工前のEktar 5cm3.5はこんな姿です。
知人の工房で3個並んでいました。
未使用のパーツ。
で、僕の個物はこれです。COMPURのシャッターは外して10枚羽根の絞りは活かします。
M42加工ですからM42-NEXのヘリコイド付きアダプタが必要になる。



ジャンク品のRICOH 300Sの刻印部を、α7R/Kodak エクター5cm3.5で。Photoshop処理。

コダック KODAK ektar 5cm3.5

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 ヤフオク=RICOH 300S。欲したのではなく、フジカ35EEの入手のついでにやってきた「その他の一品」。
出会いとか、来歴とかいうのはおもしろい。予測不可能だが、このように決定される。成る。カオスそのものだ。上はα7Rにektar5cm3.5、下はα7sにektar5cm3.5で撮る。
レンズキャップはオリンパス・Penのものだ。w



ドゥルーズ 旅

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 「旅」について。ドゥルーズの言。『記号と事件』でした。以下、自炊。(宮林寛 訳)

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旅をめぐる考察は、どうやら四つの考え方をたどっていくもののようです。その一番目はフィツツジエラルドに、二番目はトインビーに見出され、三番目はベケットに、四番目はプルーストにあらわれています。一番目の考え方が認めているのは、たとえ南の島に行ったり、広く聞けた空間を体験したりしたとしても、いつもの聖書を持参し、自分の幼年時記憶やふだんの言説をたずさえているかぎり、旅はけっして真の「断絶」にはならないということです。第二の考え方によると、旅はノマドの理想を追求しているけれども、この理想は無益な願望として生きられるということです。ノマドとは、旅人とちがってじっと動かない者のことであり、旅立つことを嫌い、自然条件にめぐまれない土地、中央地帯にしがみついた者のことだからです(あなたもここで、フアン・デル・コイケンの映画をとりあげ、南に向かうとかならず、いまいる場所にとどまることを望む人たちとすれちがうものだ、と書いておられる)。なぜそうなるかというと、ここで第三の特にうがった考え方、つまりベケットの考え方が出てくるわけですが、要するに「私たちは旅する楽しみのために旅をするのではない。私の知るかぎりではね。私たちは愚か者だとはいえ、旅を楽しむほど愚かではない」からです・・・。すると、つまるところ確かめる以外には旅をする道理を見出すことはできないのではないか。何かを確かめに行くこと。心の奥底から、あるいは夢や悪夢から流れ出してくる筆舌につくしがたいものを確かめること。たとえそれが中国人は俗に言われるほど黄色い肌をしているのか、あるいは緑の光線や、青と真紅の色に染まった大気のように、とてもありそうもない色彩が本当に存在するのかどうか、調べるだけでもかまわないのです。真の夢想家とは何かを確かめに行く人のことだ、とプルーストが述べているではありませんか・・・。

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 絵はα7s+kodak EKTAR 5cm3.5。モデルはフジカ35EE。文との関連なし。
 事情があって遠出を控えていた。
春。蠢動、というからには「動く」ことを少しは考える。
そういうふうに思いをめぐらす。すると、天邪鬼な僕はきまってドゥルーズの旅をしないスタイルを思い浮かべる。
そして自嘲する。「旅をしなければならぬ必然性なぞどこにもない」と。w

ドゥルーズは旅もテレビも避けた。それはよく知られている。
①フィッツジェラルド風に、聖書をもって旅先で開くような旅には「切断」はない。
②私は「旅」をたのしむほど愚かではない。
③「ノマド」とは動くことではない。真のノマドはその土地にしがみついてる者のことだ。うんぬん・・
シビアな言い回しなのでしっかり記憶=身に付いた。





7sにコダックektar 5cmF3.5。上はf4.5下はf11。
IDCデフォルト現像。
「文藝春秋」3月号所収の小野正嗣『九年前の祈り』を読む。
今期の芥川賞作品。
近頃、小説を読むようになった。w
きっかけはある。妻が入院して(現在は退院)読み物をあれこれさがして病院に届ける。それが高じた。『死に支度』も『33年後のなんとなく、クリスタル』もそのクチだ。
その妻が「文藝春秋」を定期購読する、と言いだすやさっそく書店に届けさせた。
妻の亡父は数十年間この雑誌を購読していた。隅からすみまで読んでいた。親子とは似るもんだ。笑えるが、まあトシをとってみればそういうこともあるだろうと僕も思う。

そんなわけで瓢箪から駒、僕が先に『九年前・・』を読むことになった。発表したての芥川賞作品を読むなんて若い時以来、それこそ30年も40年も経験がない。
まこと、ヒトはどんなふうに「生成」するか知れたものではない。これから死ぬまで芥川賞作家に付き合うことになるかもしれない。w
あ、感想。うむ。いいです。いい作品です。
選評は一顧だにしません。w
それは読まない。田中康夫の註を読まないのと同じ。

7sにレンズはKODAK EKTAR 5cm 1:3.5。F4.5で撮影。IDCデフォルト現像。
なだらかで柔らかいボケですね。
タイトルが悩ましい。w
ごめんなさい。人目に触れてもらいたいがためのSEO対策でやんす。
それとサムネールをw=300に。スマホで見ている人が多いので。(拡大画像アリ)



旧コンパーラピッド。絞り羽根は10枚。
KODAK EKTAR 5cm3.5のレンズを外した場面。(拡大画像あり)
何しろ使われてないレンズですので、どこもピカピカです。
10枚羽根の数は極めて少なく、ネット広しといえども画像はほとんど見当たらない。よって稀少の姿をお見せしたことになります。w



IDC現像。発色は実にノーマル。派手さはない。自然です。α7sはKODAK EKTAR 5cmのそんな良さを引き出してくれる。抜け道を階調豊かに写す。
モニタは透過画像みたいなもんだからプリント出力はこうはいくまい、とお思いでしょうが、僕の経験ではほぼ画面通りに出力するのが昨今のプリンタのチカラです。
僕たちはすごい時代にいるわけです。

フーコー ギリシャ回帰

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 1986年、フーコーの「自己の技芸」についての聞き手クレール・パルネに対するドゥルーズの言。
ドゥルーズがフーコーにどれほど直感的に惚れ込んでいたか、手にとるように読める。それにフーコーがその対談の場にいるかのような実に生々しい臨場感がある。そんなドゥルーズの様態、分析のテクネーも素晴らしい。
このブログ記事タイトルで検索がオモテに出るかな?でないだろうな。SEO的には僕の力量は明らかに不足してるもんなあ。
ま、ともかく「自炊」して原訳(宮林訳=これ改行なし)のままアップする。あなたがドゥルージアンで、さらにはフーコニストで、ついでに若き30から40代の男であれば・・ジイの「読んde!!ココ」自炊の労苦も悦びに変容するってもんですな。w
あ、しかし、以下のドゥルーズの言はカレの61歳時です。あるいはあなたがその年齢になればもっと「みぞおち」の理解が降りるのかもしれません。老婆心かな?

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パルネ
そうはおっしゃいますが、あれはやはりギリシア人への回帰なのではありませんか。そして「主体化」という言葉は、主体の再導入につながる曖昧な表現ではないでしょうか。

ドゥルーズ
ちがいます。ギリシア人への回帰などありはしません。フーコーは回帰というものが大嫌いでしたからね。自分で体験したこと以外を語ろうとはしなかったし、 自己の抑制、いや、もっと正確にいうと自己の生産は、フーコーにおいては自明の事柄だったのです。フーコーが、主張しているのは、ギリシア人は主体化を「創始」した、自由人の競合関係(競技会、雄弁術、恋愛など)という体制がそれを可能にしたのだということです。けれども、主体化のプロセスは並外れた多様性をもっています。キリスト教世界の様態はギリシアの様態とはまったく別のものだし、しかも主体性の生産は、宗教改革を待つまでもなく、すでに原始キリスト教の時代から、個人と集団の別を問わず、さまざまな道をたどってきたのです。キリスト教徒における新しい生存の美学を論じたルナンの文章を思い出すべきでしょう。ルナンが問題にしているのは、皇帝ネロもそれなりに助長してしまった、そしてアッシジのフランチェスコに最高度の表現を見出すことになる美学的な生存の様態です。狂気との、そして死との対決。フーコーにとって重要なのは、主体化はいかなる道徳からも、そしていかなる道徳的コードからも区別されるということです。
主体化は倫埋と美学にまたがるものであり、この点で知と権力の性格を帯びた道徳と対立するのです。したがってキリスト教の遺徳が存在し、もう一方にはキリスト教的倫理とキリスト教的美学の複合体が存在する。そして両者のあいだであらゆる種類の闘争が戦われ、あらゆる種類の妥協がおこなわれることになるのです。いまの時代についても同じことがいえるでしょう。私たちの倫理とは何か、私たちの審美的生存を産み出すにはどうしたらいいか、現行の遺徳的コードには還元できない私たちの主体化のプロセスはどのようなものになるのか。どのような場所で、そしてどのようにして新たな主体化はあらわれてくるのか。いまの共同体には何を期待すればいいのか。ですから、フーコーがギリシアまでさかのぼったところで、『快楽の活用』やそれ以外の本で彼が関心をよせるのは、いま現在おこっていることであり、いまの私たちが何者であり、何をしているのかということなのです。現代に近いものであれ、遠いものであれ、歴史的形成は私たちとの差異において分析され、この差異を点検するために分析されるにすぎないのです。私たちほみずからに身体を与えるけれども、それはギリシア的身体やキリスト教的肉体とどう違うのか。主体化とは、生存の様態を、あるいは生の様式を生産することなのです。
 ならば、「人間の死」という主題と、審美的主体化という主題のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。道徳の拒絶と倫理の発見のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。問題に変化がおこり、新たな創造がおこなわれているのですl。それに、主体化は生産されるものであり、「様態」なのだという事実をおさえておくだけでも、「主体化」という言葉のあつかいには相当の用心が必要だということはじゅうぶん理解できるはずです。フーコーは「自己そのものと正反対であるような自己の技芸」という言い方をしています。もし主体があるとすれば、それは自己同一性なき主体なのです。プロセスとしての主体化は一種の個体化であり、個体化は個人的であっても集団的であってもいいし、一個人についておこなわれても、多数についておこなわれてもいいい、そして個体化にはさまざまなタイプがあるのです。「主体」タイプの(それはきみ、これはぼく、といった)個体化もあれば、(事件)タイプの、たとえばそよぐ風、気圧、一日のうちのある時間、戦いといった、主体なき個体化もあるのです。ひとつの生や一個の芸術作品が主体として個体化されているかどうかは、まったくもって定かではない。フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。日常卑近な状況でも、すでにそうでした。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ気圧の変化とか、一種の(事件)、あるいは電界か磁場など、人間ならざるものに見えたのです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の世界に属するものではなかったのです。強度がいくつも集まったような状態。そんなふうであるとか、そんなふうに見られるということがフーコーを苛立たせたこともあります。しかし、フーコーの全作品がそうした強度の束によって培われていたというのも、やはり否定しようのない事実なのです。〈可視的なもの〉も、フーコーの場合には輝きやきらめき、あるいは稲妻のような、光の効果だった。言語は巨大な「ある(ilya)」が三人称に置かれたものにほかならないし、要するにこれが人称の対極に位置するわけです。フーコーの文体を成り立たせる強度の言語。これもシユレーターとの対談に出てくることですが、フーコーは「愛情」と「熱情」の対比を敷桁してみせ、自分は熱情の人であって愛情の人ではないと述べています。この文章のすばらしさは、即興の対話ということもあって、フーコーが愛情と熱情の区別に哲学的な意味合いをもたせようとはしていないところにあります。無媒介的な、生のレベルで語っているからです。愛情と熱情の区別は恒常性と非恒常性の方向でなされているのではない。いちおう同性愛と異性愛を話題にしてはいますが、かといって同性愛と異性愛の対比をおこなっているわけでもない。フーコーが述べているのは、むしろ、個体化はふたつのタイプに分かれるということなのです。一方の愛情は人称にしたがって個体化をとげ、もう一方の熱情は強度によって個体化をとげる。あたかも熱情が人称を溶解させたかのように。しかしそうすることによって未分化の状態に陥るのではなく、いつも相互に相手を包みあった、可変的で連続した強度の場に浸されるようになるのです(「それは絶えず動いている状態でしたが、かといって特定の点に向かうのではなく、力が強まる時期と弱まる時期がある。白熱して燃えあがる時期があるかと思えば、おそらく惰性からでしょう、とにかく理由もはっきりしないまま、不安定な状態がつづくこともあるのです。極端な場合にはしばらく自己を保ち、やがて消えていこうとする……自分白身であるということはもはや意味をもたないのです…」)。愛情はひとつの状態であり、人称や主体の関係です。これにたいして、熱情のほうは人の一生にも匹敵する長さをもつ人称以前の(事件)であり(「私はここ十八年来、誰かにたいする、そして誰かのための熱情の状態を生きているのです」)、主体なき個体化をおこなう強度の場なのです。トリスタンとイゾルデの関係は、たぶん愛情でしょう。けれども、いま話題にしているフーコーの文章にふれて、こんな感想を述べた人もいるのです。『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフは熱情だ、純粋な熱情であって、愛情ではない、とね。じっさい、『嵐が丘』は恐るべき魂の兄妹関係であり、もはや人間とは言いきれないものを表現している(彼は誰?―狼さ……)。情動のさまざまな状態を新たに区別してこれを表現し、それぞれに異なる情動を感じ取ってもらうのは並大抵のことではない。フーコーの仕事が中途でとぎれているという事実も関係しているでしょう。フーコーが生きていたならば、生の場合と同じような哲学的射程を、熱情と愛情の区別に与えていたかもしれないのです。ともあれ、フーコーが「主体化の様態」と呼んだものについて、大いに用心してかかるべきだということだけは、きちんと理解しておかなければなりません。フーコーのいう様態には、たしかに主体なき個体化が含まれている。これが問題の核心でしょう。それに熱情も、熱情の状態も、おそらく主体化の場合と同じで、(外)の線を折り畳み、生きうる線につくりかえ、呼吸する手段を身につけるという意味なのではないか。フーコーの死に直面したつらい気持ちをいだきつづけている人たちは、あの卓越した作品が熱情に呼びかけたところでとぎれているということで、悦びをおぼえてもいいのではないかと思います。

 閑話休題。これはα7RにKODAK Ektar 1:3,5 F=5cm No 107****の容姿です。





 せんに、フェリックス・ガタリの「集合的発話者」のことを記した。その前段を「自炊」しておきます。
「シニフィアンの体系を拒絶なさる埋由はどこにあるのか、答えていただきたいと思います」に応答してガタリが語る場面。

「それは、シニフィアンなんて何の役にもたたないからさ。
そう思っているのはぼくたちだけではないし、ぼくたちがそう言い出したわけでもない。フーコーをみればわかるはずだ。最近出たリオタールの本もそうだし。
ぼくたちのシニフィアン批判がわかりにくいものに見えるとしたら、それはシニフィアン自体がどんなものでも古めかしいエクリチュールの機械に切りFげる散漫で観念的な存在にすぎないからなんだ。
シニフィアンとシニフィエを分かつ排他的で拘束力の強い対立関係には、エクリチュールの機械とともに浮上してくるシニフィアン帝国主義の亡霊がつきまとっている。そうなるとどんなものでも文字に関係づけられてしまう。それこそ専制的超コード化の法則そのものなんだよ。
ぼくたちの仮説はこうだ。暴虐をきわめた専制君主の表徴(エクリチュールの時代)が後退して、そのあとに広野がひらける、そしてこの広野がミニマルな要素群と、要素相互間にはりめぐらされた一定の関係性とに分解される。こう仮定してみれば、暴君のように恐怖政治をおこない、去勢の影をちらつかせる、そんなシニフィアンの性格だけは、すくなくとも説明できるからさ。大規模な帝国につながっていくという意味で、シニフィアンというのはどうしようもない擬古主義だよね。
ぼくたちは、シニフィアンが言語を考えるうえで有効かどうか、それすら疑わしいと思っている。だからこそ、ぼくたちはイエルムスレウのほうに傾斜していったんだ。イエルムスレウは、もうずいぶん前に、内容と表現からなる流れがあって、シニフィアンなしですませることのできる、いわばスピノザ派の言語理論を構築していたわけだからね。つまり内容と表現からなる連続的な流れのシステムとして言語をとらえ、このシステムが、離散的で 非連続な形象を組み合わせた機械状アレンジメントと合致していると考えたわけだ。」

そのあとに「今度の本ではくわしく説明しなかったこと・・・」となるわけです。

絵はα7sにリコーGR28mm(F11相当固定絞り)。知人にゴミを除去していただいた7s。
(上)ピントは正面建物。いや、よく写すレンズだ。7sでこうだからねえ。
(下)ひとりでメシ喰う。茶碗にCubeのインジケータが写り込む。そんなシーンを偏愛する。w

ガタリ 集合的発話者

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 「今度の本ではくわしく説明しなかったことがある。それは言表行為の主体と言表の主体をへだてる断絶を乗り越えるような、言表行為における集合的発話者の考え方だ。」

今度の本というのは「アンチ・オイディプス」か「千のプラトー」か判然としないが後者じゃないかと思う。 ガタリの発言で『記号と事件』のなかにある。

直感的に言うが、一般的に信じられているほど人に「人格」が備わっているわけではない。これはとても大事なことだ。
人に連続的な同一性(昨日のA氏と今日のA氏の同一性)は実はないのです。だって「えっ? あの人はとてもおとなしくそんな事件を起こす人には思えない」というような話題はざらでしょう。それがホントなのです。人は「こんなふうにある」のではなく「こんなふうになる」のです。
「ある」は存在論、「なる」は生成論ですね。人は「そうなる」のであって「こうある」のではありません。
そう考えると先の「言表行為における集合的発話者」ががぜん輝きを増す。

たとえばのハナシこの記事(ブログ表象)の主体は「ぼく」ですが「ぼく」ってどれだ。よくわからないでしょう?
卒業式の校長式辞の主体はだれだ?校長の信念?来賓の評判?県や国の意向?保護者の?
式辞を述べる人はまさに集合的な発話者となり「式辞をのべる人」になっているのです。
言表は幾重にも織り込まれている。

絵は7sとコダックのエクターektar 50mm3.5。

フーコー 性の歴史

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 「性は退屈なものです」とフーコーは言った。「性の歴史」のどこかでインタビューに応えて。いわゆる「自己の技法」のシーンでそう言っている。
そんな言表行為の主体たるフーコーにちょっと笑える。「言説にはかならず根拠がある」といったフーコーだから、ついその「根拠」を考える。「自己の技法」を唱える主体には「性」に囚われる主体は無用であったはずだ。だから「性は退屈なものです」と言明したフーコーを苦笑しながらもそれがまっとうな態度だと思えるのです。
そこに詐術性を感じないわけです。むしろドゥルーズやガタリがこれもどこかに書いてあるが「言表行為の主体」と「言表の主体」の乖離が統合される主体の言説を感得するわけです。(これについては調べますね)

変な絵だが、7sにコダックのエクター5cmF3.5です。




 7sにコダックのエクター5cmF3.5です。
(上)M42ヘリコイドの利得ですがこんなふうにマクロレンズみたいになります。いいですよね。「改造」なしにはできない技です。レンズが生きる、というよりレンズが「変身」する。メタモルフォーゼ、そう「変態」です、まさに。

(下)雨が上がり、雲が突然切れて陽がさす。よくあります。咄嗟のレリーズですがこんなまねは絶対にしないでくださいね。w




 7sにコダックのエクター5cmF3.5です。タイトルをこのようにしたのはエクターといえばまずフィルムですからね。
知人製作でM42マウントです。これは未使用の単体(つまり、レンズの出荷状態とでもいうか)から製作された個物。レチナについてるレンズに似てるがレチナもいろいろあるから、詳細は未調査。今日のところは初持ち出し。とにかく写りをほんの少し。
最初のはF5.6。下のが開放3.5。

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地上の夜の天使たち