フーコー 生政治

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『フーコー・コレクション』6生政治・統治

橋爪・大澤の『不思議なキリスト教』や
ロレンスの『黙示録論』、いやそれより
『偶像の黄昏』『反キリスト者』のニーチェに
触れたときに感じる、ニンゲンのでっちあげ主体、
でっちあげ認識を、えぐりだしてくれる。
(かの「汚辱に塗れた人々の生」も入っている)


(EOS5D/アンジェニュー35-140mm TYPE LA2)

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キリスト教は、
ギリシア世界で使われていた二つの重要な道具を
自分のものとしました。
良心の究明と良心の指導がそれです。
キリスト教はこの二つを採用しました。
しかし、それを著しく変質させたうえでのことです。
 良心の究明ということは、周知のように、
ピタゴラス派、ストア派、エピクロス派の人たちの
間では、日常的な義務との関連において
善と悪の日常的な貸借表を作成する手段として
広く受け入れられていました。
このようにして、完成への道、すなわち克己心と、
自己の情念の統御への道にどれだけ突き進んだかを
測ることができたのです。
良心の指導もまた、教養のある階層では一般的でしたが、
こちらの方は著しく困難な境遇、
たとえば悲嘆に暮れている時とか、
運命の急転に苦しんでいる時とか、において
アドヴァイスを与える(ときにそれは報酬さえ
ともなうものでした)そういう形をとっていました。
 キリスト教の牧人制は
以上の二つの実践(プラチック)を密接に
結びあわせたものでした。
良心の指導の方は恒常的な絆を成り立たせていました。
羊はある危険な状況を首尾よく越える必要がある時だけ
おとなしく導かれていくわけではありませんでした。
羊は四六時中導きを受けることになっていたのです。
導かれることがひとつの状態となっていたのです。
そして、もしそこから逃れようなどと試みたときには、
必ずや道に迷ってしまう運命にありました。
忠告を受け入れないものは枯れ葉のように萎れてしまう、
と決まり文句のように繰り返されていました。
では、良心の究明の方はどうかというと、
その目的は、自己の認識を深めることなどではなく、
良心の指導者に自己の全部を見せられるようにすること、
魂の奥底まで開いて見せられるようにすることなのでした。
「全体的なものと個的なもの-政治的理性批判に向けて」
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このページは、が2012年11月 3日 16:57に書いたブログ記事です。

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