新宮一成 語らい

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自分の中でずっと宙吊りになり続けることがら、
そういうものはきっとみなさんにもあることでしょう。
書物、発話、様態のなかに何か宙吊り状態で
気になる重要なものがある、と。

僕にとって、2004年「大航海」No.51の
「精神分析の21世紀」はそのひとつだ。
正確に言うと新宮一成の
「精神分析家に人は何を語りうるのか?」なのです。
そもそもは編集部が
「精神分析は二十世紀とともに終わり、精神医学は
向精神薬とともに終わったのか?考える主体への
科学的な問いかけであろうとした精神分析は
いまどうなっているのか?」
という問いかけに応じた論攷である。

ハリウッド映画では「分析」というセリフが
しばしば出ます。アメリカではかつては
「分析」を受けることが日常化していたのでしょう。
ベトナム戦争もありましたしね。

映画のタイトルは忘れたが、悪魔祓いの映画だった。
神父と娘の両親が裁判にかけられる、というもの。
なかで、検察官(?)が親にこう尋ねる。
「あなたはDSMをご存知ですか?」
親は知らないとこたえる。
DSMに則して処方された薬を使用しなかった科を
責めるシーンだった。おもわず苦笑した。
DSMはかくも権威があるのだ。

新宮センセも「脳内科」という「シニカル」な
言い回しについて触れている。
『たしかに、薬で上手に脳を統御するのが仕事なら、
「精神科医」に付いた「精神」という冠は、返上するのが
筋というものであろう』と。

さて、本題に戻るが、編集部の問いに対して
新宮センセはこう答えている。(問いかける)
『精神分析家に向かってしか、語れないこと、
そういったことはあるのだろうか?
それがあるなら、そうした語らいが存続する間だけ
精神分析は存続することになる。
その語らいの必然性が消えれば、精神分析も
消えるわけである。二十世紀とともに精神分析は
終わったのかどうかという問いにも再び答えることになる。
その語らいの独自性を、三つの面から見よう。
自由連想、夢、そしてテレパシーである。』

人が旅をするとかセックスをするとかには必然性は
ない。これは断定できる。山に登る必然性なんて
あるはずがない。
しかし精神分析的に主体に問いかけることは
シニフィアンのなかで生きるニンゲンには
必然も必然、避けては通れない、と僕は思っている。

分析家に語らずとも、
人は自分の欲望がいったいなにものなのかを問いかける。
そこでは自らが分析家となり患者となって応え、問う。
それが必然的に繰り返されるあいだは
たとえば自らの対象aをさがし出す精神の旅を
続けるしかないのだろう。

新宮センセの基本的な態度は今もこの論攷の時点と
変わりないのではないか、と思う。
あれ? 僕は何を言いたかったのだろう?(笑)

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このページは、が2012年7月13日 10:38に書いたブログ記事です。

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