『二つの自殺』 大澤真幸

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「現代思想」(1996年1月 緊急特集=ジル・ドゥルーズ)に
大澤真幸の『二つの自殺』という論考がある。
『ふしぎなキリスト教』つながりで取り出して読む。
読んde!!ココのOCRで気軽にスキャンできるので、
以下に論考のラスト部分を出します。
徹底して「差異」を受け入れるドゥルーズ。
さてその差異の自己準拠、社会学でいうオートポイエシスが
ドゥルーズとどうかかわりがあるのか、
社会学者、と分類(?)される大澤のシステム理論(?)の
ようなハナシに疑問を重ねながら読んでみてください。(笑)

ドゥルーズによれば、
差異を差異として維持するのは、常に、
その度に特異的なものを個別化=差異化していく反復
である。だが、もし反復ということが、その本性上、
同一物の反復ということであるならば、永遠の反復と
いうことは、それ自身、究極の終わりを前提にせざる
をえない、ということになろう。
反復される多数の事例を、まさに「同一物」として指示する、
最終地点からの回顧的な視線を前提にするからである。
三島由紀夫の自殺は、まさに、そのような究極の終わり
を画する操作にほかなるまい。それは、容易に想像が
つくように、金閣寺を焼き尽くす行為と等価なものである。
だから、三島の自殺は、何も残さない虚しいものだが、
徹底して劇的なものでなくてはならない。この自殺に
おいて、同一性の一切を絶対的に否定する超越性が顕示
されなくてはならないからだ。

 だが、このような華々しい自殺は、結局、
「同一性の絶対的な否定」それ自身を「同一性」へと
転換することである。つまり、それは、一見、
差異の自己準拠を可能にしているように見えて、本当は、
差異の徹底した肯定を停止してしまうことである。
だから、差異の差異性を真に肯定しようとすれば、逆に、
どのような同一性にも反転することのないような仕方で、
言い換えれば、輝かしい超越性を投射することが到底
できないような仕方で、終わり=否定を刻印するしかない。
それは、たとえば、劇的な要素を欠いた、余分で無意味な
ひっそりとした自殺という形式をとるだろう。
現実的な部屋から窓を通じて潜在的な事物へと飛び込む、
ドゥルーズの自殺のように。

 それは、差異の哲学を停止においやろうとする限界
を越える、本当に数少ない方法の一つだったのではないか?
しかし、それが自殺であるとするならば、
やはり、こう言わなくてはならないようにも思う。
この哲学にとって、限界の超克自身が、限界なのだ、と。
一九九五年の哲学者の自殺は、このことをまじめに
受け取ることを教えたのだ、と。

以上です。 いかがですか?大澤37、8歳の論考です。

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このページは、が2011年7月10日 21:10に書いたブログ記事です。

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