記号と事件

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心象風景は私たちの中にあるのではない。
イメージというものは普通考えられているように
私たちの中にあるのではない。
そうではなくて
私たちが心象風景の中にいる。
私たちがイメージの中にいるのだ。
ほんの少しおもいを凝らせば
誰もがそれに思い至るはずだ。

BAR27'sで赤面したのは
「フリック」のイマージュの中にいた自分が
過剰に「現実」であったからだ。
前日にすでにバーのフロントを撮影していながらも
まったく気づかなかったのも同じ理由だ。
ドアを開けるまでのシーンと
そのあと展開する内部シーンは別物だ、などとは
考えてもみなかった。

通りの向こうからやってきて車は左折する・・・
空き地の一番奥にそのバーはある。
そんな固着したイメージの中に僕がいて
僕の推理も判断もその心象風景の中にあった。
マスターから伺ってなるほどそれはアリだと了解した。
マスターによるトリックの解説は接線だ。補助線だ。
その「線」はベクトルのように
あきらかな力や方向があるわけではないかもしれない。
しかし何かを表象する線であったわけだ。

ドゥルーズならそれを「美しい線」と言うだろうか。

「ある種のイマージュが内部をもち、その内側から知覚される。
それが主体なのです」(記号と事件)



村田刑事も内側から知覚していた。
かくしてシネマ「フリック」にはドゥルーズとの親和性がある。

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このページは、が2010年9月11日 17:22に書いたブログ記事です。

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