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以下は『現代思想』3月臨時増刊号「知のトップランナー50人の美しいセオリー」から。
茂木健一郎の「美しいセオリーはない。」の一部。

 時間に関する現存のセオリーのすべては、時間に関する私たちの最も根本的な疑問に答えるものではない。
私は子どもの頃よく煤を追いかけていた。少年の日、梢から漏れてくる太陽の日差しの中に、アオスジアゲハやゴマラダチョウを見上げた、あの時間はどこにいってしまったのか。
 今この文章を書いているこの瞬間もなお、時間が不可逆に流れていってしまうという事実を、どのように考えるべきなのか。私たちの一人ひとりが、それぞれの体験という私秘的な領域に閉じ込められ、そこから逃れようもないこと、その個人的体験の中で、時間が一方向に流れていってしまうこと、その厳然たる事実の下では、すべての営為、たとえば、このようにして雑誌『現代思想』に「美しいセオリー」というテーマで文章を書いていることは、すべて茶番であり、究極的には意味がないこと、それでもなお、私たちは何かをしなければならないこと、だからこそ、私はこうして、編集部の注文に応じて「美しいセオリー」というテーマの文章を綴っていること、今この瞬間もなお地球上では、それぞれの私秘的な体験に閉じ込められて、何十億という人々が個々の時間の流れの中にあること、そのようなむき出しの現実に比べたら、どんなに「美しいセオリー」も、児戯に等しいと私には思えるのである。

うむ。脳科学者もこんなことを思うのです。
①まさに時間論ですね。とっさにドゥルーズの発明品であるかの「アイオーン」を想起しました。「アイオーン」の線のただなかにいて茂木健一郎センセイは七転八倒している。(と言ってはいけません。w)
②言外にパラレルワールドを感得する。時間にもいくつかの系列(セリー)があるのではないかというのはファンタジーの世界だが楽しい。
③芭蕉の「隣は何をする人ぞ」を考えてみた。物理学で説明されても隣の人にはその人なりの時間がある。隣を想起する自分の時間も同じ時空内のいまここにある。一方であなたとわたしの(皆それぞれの)「アイオーン」をもからめとる現象がある(きっとありそうだ)。
時間はない、と言ったほうがよほどすっきりする(ような気もする)。時間のことを考えるとどうにも混乱する。

記事とは関係ない絵をひとつ。知人に頂戴したM42改造のNIKKOR28mm。ストリップ状。



左がニッコール28mm、右のはズミクロン-R50mmです。コンパクト。

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