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 福岡市博物館の「インカ帝国展」に行きました。少女のミイラをみました。ああいうのは初めて。(拡大画像あり)

 少女自ら望んでこのような姿になったわけではないでしょう。後世の探検・発掘で少女は歴史に躍り出ました。

 さて、自己への配慮=エピメレイア・ヘアウトウ(epimeleia heautou)といえば、フーコーの「性の歴史」です。そのフーコーを思い浮かべていました。フーコーは晩年、自己を一個の芸術作品に仕上げることを考えていました。自身に到来するもの=きたるべきものを感知していたのだと僕は思っています。自己を歴史に残すこと、それも権威をもって立派に残すことを想起していたのだと思います。僕は大のフーコー贔屓です。「自己の技芸」を全面的に了承するのは困難ですが、心意気は承知しています。

 自国語で、ジコヘノハイリョ、と表象すればそれなりの理解は生まれます。普通にいい意味で成り立ちます。たとえば、無茶をしないでよく考えてね、自分を大事にね、とか。いっぽう本家フーコーのそれはギリシャの先哲の態度から練り上げたもので「主体化」の問題とも関連します。自己構造化、個体化の領野の問題でもあるが、フーコーは系譜的で自覚的な「取り組み」を試みています。

 かたや精神(思想)が延長して残り、かたや身体(ミイラ)が延長して残る。様式の違いはどこにあるのだろう?

 死はいずれにせよ「野垂れ死に」だと聞いたことがある。現代のシステム医療のもとでは頷ける比喩だ。でもまあ、ヒトは概念を創造し、特異性を見出し、熱したり、冷え切ったりするいきものです。ミイラは個物でした。人間であるはずなのに干からびて死んだ爬虫類のような個物でした。フーコーの頭蓋骨だったらスキップしたいところですが、15世紀の少女のミイラはなぜか「博覧」できるのですね。奇妙です。この様態の違いはなんでしょう? 

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