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(NEX-7/E2.8/20 /Photoshop CS5.5/拡大画像あり)

 (画像と本文には関連なし)


フーコー「真理と裁判形態」より

 認識は認識すべき世界と類縁関係をもたない、とはニーチェが頻繁に言ったことです。『悦ばしき知識』のテクストをひとつだけ引用しておきましょう。断章一〇九です。「世界全体の性格は、永遠にカオスである。そこに必然がないからではなく、秩序が、分節が、形式が、美が、叡智がないからである。」世界はこれっぽっちも人間を真似ようなどとはせず、いっさいの法というものを知らない。自然に法則があるなどと言うのは慎もう。認識が取り組まなければならないのは、秩序もなく、繋がりもなく、形式もなく、美もなく、叡智もなく、調和もなく、法則もない一世界なのだ。認識が相手にするのはそういうものなのだ。そこに住まう認識には、どんな権利からにせよ、この世界を認識するすべはない。自然にとって認識されるというのは自然ではない。したがって本能と認識の間には、連続性があるのではなく、取っ組み合いと支配と従属と代償の関係が見出されるのであり、同様にして、認識と認識される諸事象の間には、いかなる自然な連続の関係もない。あるのはただ暴力的関係、支配と、権力と、侵害の関係だけである。認識は、認識すべきものへの侵害でしかありえず、知覚とか、認知とか、あれとこれとの同一化などといったものではない。(引用終り)

 僕は「認知」とか「認識」、一般的に「理解」とかいうものがどのようなものなのかということを、フーコーのニーチェ解読から学んだ。いやそうじゃない。そんなことはなかろう。若いときから思っていたことが、フーコー=ニーチェ解読によって納得した、ということだ。「認識」はそれは君のたんなる「発明品」じゃないか、たいそうに言うなよ、とたしなめる。「真理と裁判形態」には人をして謙虚にさしむけるものがある。「知」とはそんなものなのだ。若き君よ、フーコーの「真理と裁判形態」をぜひお読みください。

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