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 それは何を意味するのか、は重要ではない。ことがらがどう機能するかを見ることがはるかに重要なのだ、とフェリックス・ガタリは『記号と事件』のなかで語っていたと思う。

 精神の微分的なゆらぎ、ひび割れ、身体の微分的なゆらぎ、それらが全体の進捗・線にどのように機能するのか、まるでわからない。できごとを生きるしかない。そこで、ひそやかではあってもよろこびを生きたい。

 朝日の10日付(たぶん)「耕論」だった。「あるべき女子アナ」降りた小島慶子さん、の記事。ちょっと朝日さんにはワルイんだけど自炊させてくだされ。(拡大画像でらくに読めます)



 人気アナの適性がない、と自認しTBS退社、フリーに。万人が共感する価値に従うより「錯覚」を大切に生きる。人は(他人は)見たいように私を見ればいい。作り手側(会社側)のご都合主義や、内向きの帳尻合わせに同調するのは嫌でした。・・・ふむふむ。

 ぼくは、PC=KeyHoleTV=苫米地で小島慶子「キラキラ」を視聴していた。だからこの記事はすんなり理解できた。自身が「欲望機械」であることを自覚すれば、出ていきますね。食っていけるでしょうから、なおさら。彼女の「情動」はただうなずいたり、黙ってフリップを出す「あるべき女子アナ」にはおさまりませんよ。うん。

 ところで、言表する者は=発話する者はその人本人さんだろうか?小島慶子は女子アナだからその制約下にある。しかし、その場で生成する発話とはいったい何なのだろう?そこにこそ機能は作動する。そこにこそアレンジメント(アジャンスマン)が律動する。彼女の「キラキラ」にそれをたのしんでいたリスナーはいたはずだ。

 ガタリは「集合的発話者」なる概念を考えていた。そう、私の発話はわたしであってわたしじゃないあっちからきている。

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