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認識とは

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 以下はフーコーです。

 したがって認識には、対象との適合性とか同一化の関係はなく、むしろ距離と支配の関係があります。認識のうちには、何か幸福や愛に似たものがあるのではなく、憎悪と敵意があります。統合があるのではなく、つかの間の権力システムがあるのです。西洋哲学に現れる諸々の大テーマは、いま引用したニーチェのテクストの中で全面的に審問されるのです。

 西洋哲学は―この場合は必ずしもデカルトを基準にする必要はなく、プラトンにまで遡ることができますが―、認識の特徴をいつもロゴス中心主義、類似、適合、至福と統一に見てきました。これらの大テーマが今、問い直されています。そこから、ニーチェがなぜスピノザを引き合いに出したのかが理解できます。スピノザは西洋のあらゆる哲学者の中で、適合と至福と統一としての認識という考えをもっとも遠くまで進めた人だったからです。ニーチェは認識の根源のところで、嫌悪や抗争や力関係のようなものを中心に据えるのです。(引用終り:フーコー「真理と裁判形態」フーコー・コレクション6)

 「共生」とか「絆」とかのタームには「愛」とか「同一化」によって裏打ちされた情感がある。18歳の時、僕は親を亡くしたひとから「慰めより一緒に泣いてくれるひとがほしい」と言われた。突き放されたかっこうだがどう応じたか覚えていない。口先上手な僕でも何も言えなかったんではないか。無力だったのだろうとおもう。

 災害ボランティア、そこには何かしら人をして真実に迫らせる情感がある。あちら側とこちら側の間の「切断」や「亀裂」は大きく深い。なのになお接続せんとやまない情動が働く。それは「愛」か? それが「絆」か? そしてそれが「共生」といわれる「認識」なのか?

 長渕剛の「ひとつ」は当時たまたま紅白でみた。演出は単純にみえて凝っている。仕掛けはおおきい。テレビだから仕方ない、歌のお祭りだからそんなもんでしょう、といってそれで済む。あの歌には多くの人が心を打たれた、という。それは理解できる。その「実存」はしごくまっとうなものだろう。長渕剛とともに被災地の方々と「共生」する・・という体験がそこで産出されるわけではないにしても、なにがしかの共感を味わい同一化をものにできる・・とすればそれもわかる。

 それでもそこには審問に付さなければならないある種の「政治」があるのは見逃せない。さきの「情感」を拒むとはいわぬまでも、「情感」から静かに身を離し即物的に対峙している日本人がいるはずだ。その「情感」がどこから由来し、どのように正統性や社会性を増加してきたかをみつめ続けるつとめもありそうだ。社会学者や歴史学者の眼ではない、自分の眼で。「ひとつ」は胸をうつ歌だと思います。歌をきき、その後フーコー=ニチェを参照項として思い直してみてください。あ、そうだ。ダウンロードはしないでくださいね。配信ではありません。

フーコーコレクション6の「生命―経験と科学」
(P436-P439 途中略)
本書は冒頭から、認識とは何か、について
スピノザやニーチェを引き合いに論じられます。
そして最終章ではまたも、認識・主体・概念などの
捕捉について洗いなおすかのようにもみえる。
仮に哲学するアナタがフーコーをしらなくとも、
たとえば以下の箇所を繰り返したどれば
新しい襞ひだに出会うことは可能だろうと思うのです。
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4 生命の科学は、その歴史のあらたな作法を要求する。
このようにして、哲学的な認識問題を特異なかたちで
提起するのである。
かつて生と死はそれ自体で物理学的な問題で
あったことはなかった。物理学者が仕事で自分や他人の
生命を危険にさらすようなことがあろうとも
事情はかわらない。
そんなことはモラルと政治の問題であり、
科学的な問題ではない。
A〔アンドレ〕・ルヴォフが言うように、
遺伝子の突然変異が致死的であろうとなかろうと、
物理学者にとってはそれはたんに、
ひとつの核酸塩基が別の塩基に置き換わったという
以上のことでも、それ以下のことでもない。
しかし生物学者のほうは、
この違いに対象の特徴を認める、しかも彼自身が
属しているような対象を見いだす。
というのも彼は生きているからであり、
この生体の本性を彼は顕在化し、実践し、
認識活動として展開するからだ。
この活動のことを
「人間と環境のあいだの緊張の
直接的ないしは間接的解消の一般的方法」として
理解しなければならない。
生物学者は、生命を特異な認識対象たらしめているものを
把握しなければならない。
そして、生体はまさに生きているのだから、
そのなかに認識することができるような存在、
要するに生命それ自身を認識しうるような存在を
あらしめているようなものを把握しなければならないのだ。
 現象学は「生きられた体験」のなかに
認識作用の根源的な意味を求めた。
しかしむしろそれを「生体」そのもののなかに
探すことができるのではないか、
あるいは探すべきではないのか。

(中略)

そしてこれらの問題の中心には誤り(エラー)
の問題がある。
というのは、生命のもっとも根源的なレベルにおいて、
コードと解読の働きは偶然(アレア)に
ゆだねられている。
それは病気や欠陥や崎型になる以前の、
情報システムの変調や「取り違え」のようなものだ。
極端な言い方をすれば
―そしてそこから生命の根源的な特徴が生じるのだが―、
生命とは誤ることができるようなものである。
異常(アノマリー)の概念が生物学全体を
横断している理由はこうした前提条件、
いやこうした根本的な偶発性に求められるだろう。
こうした偶発性ゆえにこそ、
突然変異や進化のプロセスが導き出される。
同様に、こうした偶発性があるからこそ、
生命は人間の出現とともに、
けっしておのれの場に落ち着けないような生体に到達する。
それは「さまよい(エレ)」、
「誤る」よう運命づけられている。
だからこそ、特異でもあり遺伝的でもあるこの誤りを
問題にしなければならないのだ。
 そして概念とは、
生命みずからがこの偶然に与える答えである
ということを認めれば、誤りとは人間の思考と歴史を
かたちづくるものの根元だと考えなければならない。
真と偽の対立、真偽に付与される価値、
さまざまな社会や制度がこの分割に結びつけて考えている
権力効果など、すべてが生命に固有な誤りの可能性への
遅ればせながらの回答にすぎないのかもしれない。

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カンギレムに重きを置いてるフーコーの面目が
あらわれています。

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