フーコー/カンギレムに関して

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フーコーコレクション6の「生命―経験と科学」
(P436-P439 途中略)
本書は冒頭から、認識とは何か、について
スピノザやニーチェを引き合いに論じられます。
そして最終章ではまたも、認識・主体・概念などの
捕捉について洗いなおすかのようにもみえる。
仮に哲学するアナタがフーコーをしらなくとも、
たとえば以下の箇所を繰り返したどれば
新しい襞ひだに出会うことは可能だろうと思うのです。
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4 生命の科学は、その歴史のあらたな作法を要求する。
このようにして、哲学的な認識問題を特異なかたちで
提起するのである。
かつて生と死はそれ自体で物理学的な問題で
あったことはなかった。物理学者が仕事で自分や他人の
生命を危険にさらすようなことがあろうとも
事情はかわらない。
そんなことはモラルと政治の問題であり、
科学的な問題ではない。
A〔アンドレ〕・ルヴォフが言うように、
遺伝子の突然変異が致死的であろうとなかろうと、
物理学者にとってはそれはたんに、
ひとつの核酸塩基が別の塩基に置き換わったという
以上のことでも、それ以下のことでもない。
しかし生物学者のほうは、
この違いに対象の特徴を認める、しかも彼自身が
属しているような対象を見いだす。
というのも彼は生きているからであり、
この生体の本性を彼は顕在化し、実践し、
認識活動として展開するからだ。
この活動のことを
「人間と環境のあいだの緊張の
直接的ないしは間接的解消の一般的方法」として
理解しなければならない。
生物学者は、生命を特異な認識対象たらしめているものを
把握しなければならない。
そして、生体はまさに生きているのだから、
そのなかに認識することができるような存在、
要するに生命それ自身を認識しうるような存在を
あらしめているようなものを把握しなければならないのだ。
 現象学は「生きられた体験」のなかに
認識作用の根源的な意味を求めた。
しかしむしろそれを「生体」そのもののなかに
探すことができるのではないか、
あるいは探すべきではないのか。

(中略)

そしてこれらの問題の中心には誤り(エラー)
の問題がある。
というのは、生命のもっとも根源的なレベルにおいて、
コードと解読の働きは偶然(アレア)に
ゆだねられている。
それは病気や欠陥や崎型になる以前の、
情報システムの変調や「取り違え」のようなものだ。
極端な言い方をすれば
―そしてそこから生命の根源的な特徴が生じるのだが―、
生命とは誤ることができるようなものである。
異常(アノマリー)の概念が生物学全体を
横断している理由はこうした前提条件、
いやこうした根本的な偶発性に求められるだろう。
こうした偶発性ゆえにこそ、
突然変異や進化のプロセスが導き出される。
同様に、こうした偶発性があるからこそ、
生命は人間の出現とともに、
けっしておのれの場に落ち着けないような生体に到達する。
それは「さまよい(エレ)」、
「誤る」よう運命づけられている。
だからこそ、特異でもあり遺伝的でもあるこの誤りを
問題にしなければならないのだ。
 そして概念とは、
生命みずからがこの偶然に与える答えである
ということを認めれば、誤りとは人間の思考と歴史を
かたちづくるものの根元だと考えなければならない。
真と偽の対立、真偽に付与される価値、
さまざまな社会や制度がこの分割に結びつけて考えている
権力効果など、すべてが生命に固有な誤りの可能性への
遅ればせながらの回答にすぎないのかもしれない。

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カンギレムに重きを置いてるフーコーの面目が
あらわれています。

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このページは、が2012年11月29日 14:59に書いたブログ記事です。

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