Results matching “50mm3.5” from 新地のドゥルーズ
NEX-7に35mmOSSをつける。
ISO設定が一けた違いの16000になっていた。IDCでモノクロ現像。
AFなのにピントはといえば、手元のミニカーには当たらず、奥に突っ込んでしまってる。最近の老人の運転みたいなもんだ。等倍にすると荒れて残酷な画像だ。
これを要するに「失敗作」という。
だが失敗もいいものだ。「ムード」がある。幼児の「眼」が僕をとらえる。フィルム時代であっても僕はこれを焼くに違いない。デジタルの利得は着想を「今ここ」で手に入れることができるということ。時代の果実を素直に享受する。
ところで同じ場所をα7Rとエルマー、Elmar 5cm 3.5で撮ってみる。絞りf4あたり。中央のライカⅢfの軍艦部にピント。
拡大画像=横1840で見るとライカだけが浮き出てるのがわかる。IDCのモノクロ現像。他の処理はない。デジタルでもあらわれるふくらみ、黒の出方・・ライカレンズの気配はまぎれもなく漂う。
ISO設定が一けた違いの16000になっていた。IDCでモノクロ現像。
AFなのにピントはといえば、手元のミニカーには当たらず、奥に突っ込んでしまってる。最近の老人の運転みたいなもんだ。等倍にすると荒れて残酷な画像だ。
これを要するに「失敗作」という。
だが失敗もいいものだ。「ムード」がある。幼児の「眼」が僕をとらえる。フィルム時代であっても僕はこれを焼くに違いない。デジタルの利得は着想を「今ここ」で手に入れることができるということ。時代の果実を素直に享受する。
ところで同じ場所をα7Rとエルマー、Elmar 5cm 3.5で撮ってみる。絞りf4あたり。中央のライカⅢfの軍艦部にピント。
拡大画像=横1840で見るとライカだけが浮き出てるのがわかる。IDCのモノクロ現像。他の処理はない。デジタルでもあらわれるふくらみ、黒の出方・・ライカレンズの気配はまぎれもなく漂う。
村田沙耶香の「さやか」を単語登録。「コンビニ人間」には当然のことながらコンビニ用語が頻出する。バック飲料、ウォークイン、エンド、ヘコ缶、フェイスアップ、バックルーム・・けっこう覚えてる。w
わかんないでしょう?あはは。どうも村田ワールドの残響が今もある。こんなことを対談で話している。
私はコンビニの仕事の中でも、レジ打ちが好きなんです。きっと、人間が好きなんだと思います。良いところばかりではなく、歪な部分や醜い部分も含めて。普通の生活の中でも、例えば考えられないような嫌味を言ってくる人がいたとき、「何でこの人はこんなことを言うのだろう」と考えているうちに、愛しく思えてくるんです。
気になる発話です。他者のいびつな部分が愛しくなる、というのは並のニンゲンにはできないことだ。
今日も当地は暑かった。明日は38度の予報。いや、まいる。台所兼居間のエアコンはフル回転。PCを一台階下に降ろしている。ソン・ベルチオ(SOM BERTHIOT 40mm3.5)で手元シャシンをする。開放っていいですね。部屋の汚さはごまかせる。eBayを渉猟して気付いた。SOM BERTHIOTに50mm3.5とか50mm2.8やらのレンズはあるものの、CINORというシネレンズが多い。40mmの単体レンズはない。してみるとこのベラスコープ抽出の40mm3.5はますます貴重なレンズになりますね。
わかんないでしょう?あはは。どうも村田ワールドの残響が今もある。こんなことを対談で話している。
私はコンビニの仕事の中でも、レジ打ちが好きなんです。きっと、人間が好きなんだと思います。良いところばかりではなく、歪な部分や醜い部分も含めて。普通の生活の中でも、例えば考えられないような嫌味を言ってくる人がいたとき、「何でこの人はこんなことを言うのだろう」と考えているうちに、愛しく思えてくるんです。
気になる発話です。他者のいびつな部分が愛しくなる、というのは並のニンゲンにはできないことだ。
今日も当地は暑かった。明日は38度の予報。いや、まいる。台所兼居間のエアコンはフル回転。PCを一台階下に降ろしている。ソン・ベルチオ(SOM BERTHIOT 40mm3.5)で手元シャシンをする。開放っていいですね。部屋の汚さはごまかせる。eBayを渉猟して気付いた。SOM BERTHIOTに50mm3.5とか50mm2.8やらのレンズはあるものの、CINORというシネレンズが多い。40mmの単体レンズはない。してみるとこのベラスコープ抽出の40mm3.5はますます貴重なレンズになりますね。
「今度の本ではくわしく説明しなかったことがある。それは言表行為の主体と言表の主体をへだてる断絶を乗り越えるような、言表行為における集合的発話者の考え方だ。」
今度の本というのは「アンチ・オイディプス」か「千のプラトー」か判然としないが後者じゃないかと思う。 ガタリの発言で『記号と事件』のなかにある。
直感的に言うが、一般的に信じられているほど人に「人格」が備わっているわけではない。これはとても大事なことだ。
人に連続的な同一性(昨日のA氏と今日のA氏の同一性)は実はないのです。だって「えっ? あの人はとてもおとなしくそんな事件を起こす人には思えない」というような話題はざらでしょう。それがホントなのです。人は「こんなふうにある」のではなく「こんなふうになる」のです。
「ある」は存在論、「なる」は生成論ですね。人は「そうなる」のであって「こうある」のではありません。
そう考えると先の「言表行為における集合的発話者」ががぜん輝きを増す。
たとえばのハナシこの記事(ブログ表象)の主体は「ぼく」ですが「ぼく」ってどれだ。よくわからないでしょう?
卒業式の校長式辞の主体はだれだ?校長の信念?来賓の評判?県や国の意向?保護者の?
式辞を述べる人はまさに集合的な発話者となり「式辞をのべる人」になっているのです。
言表は幾重にも織り込まれている。
絵は7sとコダックのエクターektar 50mm3.5。