Results matching “1:2.2” from 新地のドゥルーズ
工房知人から届けられたFUJINON 1:2.2 f=55mmで記念撮影。α7s。
気付いたことがある。
「七年ぶりに吉岡は、眼鏡をかけている。」
9編中8編にこれから造型される人物の固有名が先ず登場する。これはこの短編集の筆致であり、田辺聖子の文体それも作品全体の筆致(目論見)であり構造的なスタイルだと感じた。こんな「批評」は初出でしょう?エヘン。
奥付には昭和62年1月が初版。令和元年6月が36版。長く愛されたホンなのです。山田詠美が解説しているがそりゃあの方好きなんだろうなとピンとくる。w
いやはや。長生きすればこんな悦楽に巡り合えることもあるわけだから人生は捨てたもんじゃない。格が違う。愛にあふれていて衒いがない。教訓はない。ただヒトを幸福にする。以上オシマイ。
右横はオリンパスペンFの標準38mm。さっそくamazonにアダプタを注文する。下はフジノン55mmでのオマケ。
差異をとりあげてみる。一般に、差異は何ものかからの差異、あるいは何ものかにあっての差異として分析される。差異の向う側の差異を超えた地点に、とはいっても差異の支柱となってそれに場所を与えて限界を設定し、つまりは差異を統禦せんとする目的で、人は、差異がそれを幾つかの種に分割すると想定される類としての統一性を、概念によって措定する(アリストテレス的概念の有機界的視点の支配である)。そうなると、差異は、概念の内部で種的特性に分類されうるものとなり、概念を越えてあふれでるものとはなりがたい。それでいながらこの種よりも下部の水準には、個体がいっせいにたちさわいでいるのだ。種的分類から逃れ、しかも概念の外部にこぼれ落ちるこの尺度のない多様性は、反復のはね返り以外の何でありえようか。羊類より下の水準では、もはや羊の数をかぞえる仕事しか残ってはいない。以上の点からして、従属的視点の第一の相貌は次のごときものとなる。すなわち、種への分類作用としての差異(概念内の)と、個体の差異不在としての反復(概念外の)とがそれである。だが何への従属であるというのか。常識への従属である。そして常識とは、狂気の生成と無政府主義的な差異から顔をそらせ、いたるところ、しかもあらゆるものにあって同じやり方で同一的なるものの認識を心得ているものだ。善意の盟約によって認識主体の普遍性を確立するその瞬間に、常識は、対象における一般性をくっきりと浮かび上がらせる。まさに悪しき意志に自由な戯れを許してみたらどうなるか。思考が常識から自由になり、その固有性のぎりぎりの先端部でのみ思考せんと希望したらいったいどうなるか。正統説の構成要素としてある自分の市民権を程よい満足とともに是認するかわりに、陰険に逆説の策略を実践してみたらどうなるか。差異の下側に共通なるものを探究するのではなく、むしろ差異的に差異を思考してみたらどんなものであろうか。そうした場合、差異は、概念の一般性を塑型するほどほどに一般的な性格などではもはやありえまい。差異は―差異としての思考、差異をめぐっての思考として―純粋な出来事となっているかもしれないのだ。反復はどうなるかといえば、もはや同一的なるものの陰鬱なけばだちではなく、転移された差異となるかもしれぬ。善意から、そして分配し性格決定する常識の支配から脱した思考は、もはや概念を構築せず、幻影を反復しつつ意味=出来事を生産する。常識にくるまって思考することの倫理的善意というものは、結局のところ、思考をその固有な「生殖性」に触れさせまいとする役割をはたしていたのだ。
(フーコー「劇場としての哲学」蓮実重彦訳)
「いつもとはどこか違った朝だった・・」と人が言ったとする。そこでは朝における「差異」が述べられる。通常僕たちは「差異」をそんな意味で用いる。が、ドゥルーズの「差異」および「反復」はそうではない。違った朝と感じてもまた同じような朝になってしまう=再領土化されるそんな「差異」ではない。じゃどんなものか?フーコーによると「概念を構築せず、幻影を反復しつつ意味=出来事を生産する」ものだということになる。
差異は「いつもの朝」に対する違いではない、ということになるか。差異は違いそのもの、とでも。じっさい「差異の差異」という言い方もある。
思えば、そんな差異こそが実は一般的なのだと気づく。表現(表象)的には「どこか違った朝」なのだが、事実はその朝を生きているその朝に身を置いているではないか。感じ、表象する以前に、差異を生きている。差異はそのまま差異なのだ。とまあ僕は思っているのです。
さて。サンダーバードのトレーシー一家。天神のBOOK・OFFで買う。(笑)
(NEX-7/ANGENIEUX 17-68mm 1:2.2/Photoshop CS5.5/拡大画像あり)
アンジェニューの16mm映写用ズーム(TYPE10/F9.5-90mm 1:2.2)です。ライカマウントに改造してます。
そのTYPE10で撮った純米吟醸「玉乃光」。「玉乃光」といっても数十種類もあるようで正直なにがなんだかわからない。わかるのはたしかに辛口ってことくらい。
酒屋で尾瀬あきら「夏子の酒」のコピーの脇に置いてました。それで買ったわけです。たぶんこのシーンです。
さて、レンズTYPE10の絞りはアバウトです。実物に刻みがないので。テレ側(50mm付近)の推測絞りF8あたりのものをもう一枚。雰囲気は僕の好み。
(SONY NEX-7 ANGENIEUX-ZOOM 17-68mm 1:2.2)
『美術手帖』松井冬子、草間彌生の特集号。
アーチストの様態にはどこか特殊なものがある。
特集のお二人にもそれはいえる。
先日の朝日新聞の記事「フロントランナー」が
ヤフオクに出品されていた。
新聞記事が300円で取引されるのだ。
所与の状況、そして変わる状況、
業界にも新たな属性と様態が生じよう。
松井冬子は時の人、とみる。「買い」なのだ。
草間彌生は加速的=疾走的ともとれる生だ。
市民感覚的オンナをやってて
この人たちのアートは生まれない。
キューレターもツワモノであるに違いない。
現代美術のコマーシャル的な様相。
これらはナニモノなんだろう?
アートすなわち商業、の感をもつ。
美術館で絵の前に立つ。
そこにあるのは端的に「絵」なのか?
いや同時に商品とよべるモノなのだ。
代理人がメジャーリーガーをつくるわけではない。
キューレターが美術家を世に出すわけでもない。
松井冬子と草間彌生の並外れた表現、
突出したもの、ほかに例がない独創性、それがすべて、
と言いたいところなのだが・・。
何か下品なエージェンシーを感じてしまう。
『美術手帖』媒体からしてふんぷんたるエージェント。
アーチストは介在なしのアルチザン、などとは
牧歌的なシロウトさんの言うことなのか?
そうではないのではないか。
業界だけのやりとりに、シロウトはソッポを向く。
アーチストは自らの身体と精神を触発するものに
まずは身をゆだねるのだが、
エキシビションの連鎖を追っていたら
買い戻せない何かを失うのではないか?
優れた作家のなかにそれを感じるとき
シロウトはさびしくもあり、落胆もあり・・
興ざめすれば近づかない。
作家たちよ、自己を構成することからはじめよう。