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Results tagged “Sonnar 85mm f2.0” from 新地のドゥルーズ

α7Rとコンタレックス Sonnar 85mm F2.0。(M42改造)





コンタレックス ゾナー 85mmとα7s。IDC現像時の撮影情報。



開放。スニゲータの歯に拡大ツールを使わずピントが置ける。



Nr.2624***のゾナーです。M42マウント改。開放ではバルサム切れの痕跡が浮いて見える。撮影状況が特殊だからねえ。ISO1000に上げて少し絞る。まさに賞賛のゾナー。



翌日のもの。Componon35mm(引き延ばし用)をつけたNEX-7を。午前室内、自然光。



右下の濃い青はPCのインジケータ。おっと!バル切れが見えますね。アートは差異、そして反復です。はい。w

Sonnar 85mm f2.0

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 「何が見えるかを語っても無駄だ、見えるものは決して語るもののうちには宿らないのだから。」
 (フーコー 『言葉と物』)
 僕の場合、いま生きているここ(現働の場)での様態にはつねにこのような知のバイアスがあるのだろう。フーコーの知が内在化しているというべきか。実のところ「なんでそうなったのか」というのはヒトには説明できないのが本当のところだ。
 スナップ・街撮り中心の僕が定点観測やテーブルフォトに足場を移した・・ようにもみえる。が、まあこれはひとりごとです。あれこれぬかせば「プチ物語」すなわちレシになる。昨年11月にソニーという誰もが知るメーカーからα7Rというカメラが出た。これは僕に何かが起きるな、と直感したがまさにその通りであった。僕の心身は「外」に対してよくもわるくも率直に反応する。かつて「カメレオン」とか「あじさい」とかのあだ名を頂戴したのも根拠があるわけか。

 α7Rと知人譲りのレンズ個物のアレンジメントが、近頃の僕のシャシン時様態を決定付けている。うーむ。おそらく二桁になるだろう数の個物を得る。それらを用いてα7Rの100パーセント拡大解像力の視覚的で深遠な領域で遊んでいる。レンズ個物は28mmからせいぜい100mm前後までのもの。世に「オールドレンズ」と称されるものばかりだ。
 僕は昔、京セラ=コンタックスG1のSonnar 90mm を使ったことがある。AFが不良だったのか「ピント」を得た実感がまるでなかった。失望の経験しかない。まあ一眼レフでも90mmで開放、至近距離でピントを得るのは難しい。ファインダが優れていてもいざレリーズの段階で体が数センチ揺れるとピントはズレる。その前に本当にピントがきていたのかどうか検証のしようがない。検証用に4つ切りプリントを何十枚もラボに出すということは不可能だ。G1のSonnar 90mm に失望して二束三文で手放した。
 そんなコンプレックスを一挙に吹き飛ばしたのがデジタルの技術だ。フーコーにならって、見えるものを語る無駄を省き100パーセント画像(部分)を見ていただきましょうね。アンチョコな絵ですが。ドキッとしますよ。撮影フレーム全体を横1472ピクセルの拡大画像。次にピント部の100パーセント画像(横7360ピクセルの一部)です。


(α7R/Carl Zeiss Sonnar 1:2 F=85mm/SILKYPIX)


(α7R/Carl Zeiss Sonnar 1:2 F=85mm/SILKYPIX)

 逆さの「Maid in Germany」がピント位置です。下の絵をぜひ拡大してごらんください。鏡胴に横筋の意匠が見えますが、このデザインは個物を手にとっても肉眼では見えません。そんなものも写るのです。ヒトの知覚をやすやすと凌駕します。撮影距離約40cm。1/100秒のシャーッタースピード優先。絞り開放。ISO=160。SILKYPIXで現像。以降の処理はPhotoshopCS5。Web用保存(品質85)。アンシャープマスクなどの加工処理はしていません。

Sonnar 85mm f2.0

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(α7R/Carl Zeiss Sonnar 1:2 F=85mm/SILKYPIX)

 ベラスケスの目に教皇インノケンティウス10世はあのように見えた。それがベラスケスの「認知」である。たとえそれら諸知覚の総合が「誤認」であっても、ベラスケスの剔抉の瞳にはそう見えた。ところで露出がアンダーすぎる上のシャシンですが、実際にヒトがレンズ鏡胴を見つめても網膜にはこんな絵は結ばない。この絵は人為が投入されてのことではあるが、レンズ個体とカメラ、そしていまこの透過的なモニタ画像をもたらす現像用アプリケーションのなせる業である。ぜんたいシャシンの絵はそもそものはじめから「真」ならざるものだ。ヒトの知覚とは別物だ。なのに「写真=真を写す」とはなんという皮肉な言い草だろう。まだしもベラスケスの描く教皇のほうが「真実」に近い。被写体がどうとか、テーマは何だとか、事実をどう切り取ったとかうんぬんかんぬんの前に、この偽絵の出現が「出来事」となる。偽絵とはちと穏やかではありませんね。ご容赦を。だが僕には「偽絵」がなんとも愉しいのである。
 話は横道に逸れニュアンスは少し違うが、シャシンはキャパが従軍して命がけで撮った「真実」から遠く離れてしまった。もっともキャパの写真をシンジツというには括弧をつけなければならない。「真実のふりをする」のがシャシンなのです。これはキャパに限らずあらゆる報道写真あらゆるドキュメンタリに分け隔てなくいえることだ。ピクチャーとそれを見てのイメージにまっとうな道筋はない。絵はどのようにも理解されうるものだ。
 レンズはいかなる被造物の力にも屈せず描写する。Carl Zeiss Sonnar 1:2 F=85mm というレンズで元それが収まっていた鏡胴を撮影している、と説明すればそこから「レシ re'cit」=物語が加味されるだろう。イメージが増幅するかもしれない。説明抜きの場合とは違ったイメージになる。だが、レンズはいっさいの物語を拒否して映し出す。拒否して、というのは、レンズは正体を明かせば見事な表現をする、というものではないからです。(笑)。
 いっそ物語を明かさないがいいのかもしれない。これは課題ですね今後は少し考えてみよう。フランシス・ベーコンはベラスケスの実物を見ずに写真(あるいは図録)と「戦艦ポチョムキン」の女の叫びをネタに一連の教皇の絵を描いた。しかし見るものがそのレシを認知したのちにはそれを忘却してイメージすることなぞ不可能になる。あれれ、迂回が複雑になった。いったん筆を置こう。

 さて。この絵のようなオブジェをたとえばA3とか半切大で30枚ほど並べてそれは見世物になるであろうか? これを問い立てしたかったのです。ああ回りくどい。諸兄はいかが思われますか? そりゃないよ、といわれますよね、きっと。うむ。ではなぜでしょうか? あまりに安直だから? テーマはね、「発明」ですからどうでも成立します。 シャシンって御大層なもんじゃない、とアラーキーは言うが、だからといって安直でいいやと宣言してるわけではない。シャシンと宣言した場所にシャシンが生まれるのかもしれない。敬愛してやまない深瀬昌久のシリーズ「ブクブク」はちゃんと写真展(見世物=催し)をやっています。もっとも彼は会場には出向かなかったということですが。
深瀬昌久については、ここです。

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