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Results tagged “記号と事件” from 新地のドゥルーズ

記号と事件

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教師の実生活が面白いということはまずありえません。
もちろん、旅をすることはあります。ですが、
教師は言葉や経験によって旅費をまかなうわけで、
学術会議や討論会に出席し、いつも、ひっきりなしに
しゃべっていなければならないのです。
知識人は膨大な教養を身につけていて、
どんなことについてでも見解を述べる。
私は知識人ではありません。
すぐに役立つような教養もないし、知識の蓄えも
もちあわせていませんからね。
私が何かを知っているとすれば、
それは当座の仕事の必要上知っているだけなのであって、
何年もたってから過去の仕事にもどってみると、
一切を学びなおさなければならなくなっているほどです。
かくかくしかじかの点について見解も考えももたない
というのはとても気持ちがいい。
私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、
逆に、たいして言うべきこともないのに
意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから
悩んでいるのです。旅をするとは、出かけた先で
何かを言ったかと思うと、また何かを言うために
戻ってくることにすぎない。行ったきり帰ってこないか、
旅先に小屋でも建てて住むのであれば話は別ですけどね。
だから、私はとても旅をする気になれない。
生成変化を乱したくなければ、
動きすぎないようにこころがけなければならないのです。
トインビーの言葉に感銘を受けたことがあります。
「ノマドとは、動かない人たちのことである。
旅立つことを拒むからこそ、彼らはノマドになるのだ」
というのがそれです。
『記号と事件』(河出文庫 P277)

ここは好みの箇所です。
ドゥルーズってヒトは実に謙虚なんですねえ。
うがった詮索なしでつい聞かされる。人徳ですな。

さて、上記のテキスト、
これはテキスト化を「読んde!!ココ 体験版」で試した。
これだけの長さで訂正は1箇所。使えますね。

記号と事件

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ドゥルーズがテレビに悲観的だったことは
『記号と事件』でつとに知られている。
僕はその見解に同調する。
一方でドゥルーズが当時「ヴィデオ・クリップ」と
呼称し、わずかの望みをつないだ当のものは、
どのようなものだったのかを考えてもきた。
どんな未来的技法があれば
僕らは再び「結晶イメージ」に出会えるのか、と。
この春、新編成で登場したNHK BSプレミアムの
リマスター版こそはそれだと思っている。
ありていに申す。僕のITはTS保存に多くを費やす。
それは僕の「結晶イメージ」の更新のためなのだ。

リマスター版はCSではずっと以前からなされてきた。
僕たちはCS放送のなかで、
つまらないハリウッド映画のひしめくなか
ときたまに「映画」らしいものに出会ってきた。
NHK BSプレミアムがそれをやってくれれば
多くの人に新たな「結晶イメージ」が手渡される。

リマスター版『東京物語』をみてその出来栄えに
感服した。ああ、いい時代にいる。
ラスト15分。自分のための至福の備忘としてここに置く。

記号と事件

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「唯物論的精神医学とは、」と『記号と事件』は
語り始める。(文庫版P41-)
「欲望に生産をもたらし、また逆の方向から
生産に欲望をもたらす精神医学のことです。
妄想の対象は父親ではないし、(父-の-名)でもない。
妄想の対象は歴史上の人名であるわけですからね。
妄想というものは大規模な社会の機械に組み込まれた
欲望機械の内在性に近い。
あるいは歴史的に限定された社会の領域が
欲望機械から備給を受けることだと考えてもいい。
精神分析が精神病の何を理解したかというと、
それはオィディプスや去勢につながる「パラノイア」の線
なのであって、またそうであればこそ、
オィディプスや去勢のような抑圧装置が
無意識の中に組み込まれることにもなったのです。
ところが妄想の分裂病的基盤、つまり
非家族的な運命を描く「精神分裂病」の線は
精神分析の理解を完全に超えている。
精神分析は狂気の声を聞くことができなかった、と
フーコーが述べていますが、じっさい、精神分析は
あらゆるものを神経症に変えてしまう。」

さて。
アスペルガー症候群はどうなんだろう?
門外漢の僕がいうのはおこがましいが、でも問う。
アスペルガーもひたすら「非家族的」な運命線上を
走り続けているのではあるまいか。
「唯物論的精神医学」のことはおくとして、
ここでのドゥルーズの言を参照項とする、
それは可能か?
適用することはできるか?
結局は何処に行こうがDSMによる基準と処方によって
「脳内科」(新宮一成)的なお薬をもらうことになる。
そんな病がけっこうあるのだ。
「心療内科」。あれは何だ、と思ったことがある。

医師がまず「やまい」について無知なのだ、と知っておこう。
だから僕らはとりあえず
自分を患者となす医師になることからはじめる。
検査も最小限にしておこう。
僕は毎年やってきた「胃検診」を今年はパスした。

場所 33.586971,130.394926

記号と事件

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「じっさい、私たちの関心をひくのは、物や人を、
あるいは主体を導き出す個体化の様態ではない。
それとは違った個体化の様態があるのです。
たとえば一日のうちのある時間、
あるいは地域の個体化、なんらかの気候、
流れる河、そよぐ風の個体化。
つまり〈事件〉の個体化ということですね。
それに、人や主体が存在するという信念は
まちがった考え方かもしれないのです。」
ドゥルーズ『記号と事件』(文庫版)

これだけでも、ドゥルーズという思想家が、
どれほど革新的であったかが感じ取れる。
ほとんど痛切な直感として届く。
概念という名のこれは美しい詩そのものではありませんか。
僕たちはある特異な諸線がおりなす地点で
特異な事態を受肉する。
それこそが個体化とよばれるものであり、
そこにつくねんと在るその人が主体なのだ。

ところで。
半月ほど前「九州国立博物館」にいったおりのこと。
太宰府駅の駅員に二日市での帰りの乗り継ぎを
調べてもらった。
ジャケットの内側から出てきたのはなんとダイヤグラム。
40年ぐらい前に西鉄駅員に尋ねた折にも
使っていたソレだ。
いまでも使うのだ。感動ものだ。

ネットで調べると私鉄では西鉄くらいなもんだ。
しかも小型版を一般配布している。
一昨日天神駅でもらってきた。(拡大あり)

記号と事件

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小泉義之は討議「来るべきドゥルーズ」のなかで
文庫化されて手にしやすくなったドゥルーズを
鋭意読み込んだ若者が出ることに期待する、
というようなことを言っていたと思う。
同感だ。
分厚い『千のプラトー』を持ち歩くわけにはゆかない。
寝転がって読むことも難しい。
単行本より少しは安い。
(それほど安くはないんですよね、これが)

ともかく僕みたいな爺にはもう時間がない。
若者が取り組み、新しい時代にふさわしい提言を
新しい概念のもとに言い始めるしかない(ように思う)。
それにはドゥルーズとその周辺を
字義通り読み込むことが必要だと思うのだ。

ジジイは 『記号と事件』は図書館から借りて読んだ。
今回、文庫本を買った。
文庫版あとがきによると、
訳語の手直しをした、とある。
なるほど。それは必要だろう。
読み手には統一されたタームの方がいい。
訳語だけではなく一部は全面的に改訳した、ともある。
これを機にアタマから新しい気持ちで再読しようと思う。

記号と事件

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ジュンク堂で河出文庫の『記号と事件』を買う。



ついでに『批評と臨床』も。
バッグに入れておけば気儘に読める。うむ。

その文庫版『記号と事件』でいうと245ページ。

哲学者は反省するのではなく創造する人間だ

タイトルにみえるがそうでもない。センテンスだ。
この前後はいいですよ。
なにより『シネマ』の経緯がわかる。

◎不毛の時代が来ると、
哲学は「・・・について」の反省に逃避していく・・。
自分では何も創造できないとなれば、「・・・について」
反省する以外に何ができるでしょうか?◎

今日は福岡は暑い。
ここ新天町マックもエアコンがぬるい。
僕はこれから博多に出る。
「かつ亭」の味が復活したかを検証しにね。(笑)
のんきだなあ。

・・・・・
MTのパーマリンクは不変なので
毎度のように追加記事。(2時間経過)
14時を過ぎてたかもね、店入りしたのは。
誰もいなくてゆったりとテーブル席で食す。
ご主人はいなくて女の方がやっていた。
ちょっといやな予感がした。
・・・が、ロースカツが運ばれてきた瞬間、確信。
そう。ジューシーで味はバッチリだった。
やはり前回だけが変だったのか。
口蹄疫の最中だったからなあ。
これでまた「かつ亭」ができますな。

記号と事件

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僕は20代の半ばに子供たちに対して
きみたち、「光の束」という言葉から何をイメージする?
と発問したことがあった。

一方『記号と事件』の中では
「汚名に塗れた人とは光の束と音響の波動に
とらわれた微粒子のことなのです」とドゥルーズはいっている。
(汚名に塗れた人、とはフーコーの概念)

翻訳ではあるが同じ「光の束」というターム。
ふしぎだ。

さてこの『記号と事件』。河出文庫に生成(!)した。
さっそく買わなきゃね。
1冊だからバッグに入れて旅先で読める。
何度読んでもどこから読んでもオーケーだ。
ドゥルーズが今次々に文庫化されている。ブームなのか。
『シネマ』の翻訳あたりから新しい火がついたのかな。
そんな気がする。
いずれにせよ、歓迎だ。



"Actualité des arts plastiques" でBaconのポジを入手した。
ルーペにレンズを真上から。

記号と事件

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心象風景は私たちの中にあるのではない。
イメージというものは普通考えられているように
私たちの中にあるのではない。
そうではなくて
私たちが心象風景の中にいる。
私たちがイメージの中にいるのだ。
ほんの少しおもいを凝らせば
誰もがそれに思い至るはずだ。

BAR27'sで赤面したのは
「フリック」のイマージュの中にいた自分が
過剰に「現実」であったからだ。
前日にすでにバーのフロントを撮影していながらも
まったく気づかなかったのも同じ理由だ。
ドアを開けるまでのシーンと
そのあと展開する内部シーンは別物だ、などとは
考えてもみなかった。

通りの向こうからやってきて車は左折する・・・
空き地の一番奥にそのバーはある。
そんな固着したイメージの中に僕がいて
僕の推理も判断もその心象風景の中にあった。
マスターから伺ってなるほどそれはアリだと了解した。
マスターによるトリックの解説は接線だ。補助線だ。
その「線」はベクトルのように
あきらかな力や方向があるわけではないかもしれない。
しかし何かを表象する線であったわけだ。

ドゥルーズならそれを「美しい線」と言うだろうか。

「ある種のイマージュが内部をもち、その内側から知覚される。
それが主体なのです」(記号と事件)



村田刑事も内側から知覚していた。
かくしてシネマ「フリック」にはドゥルーズとの親和性がある。

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地上の夜の天使たち

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