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Results tagged “散歩” from 新地のドゥルーズ

小学生の時分から外を歩き回っていた。
兄弟はなく、遊び相手もいなかったので、
野山を歩くのは習いの性であった。

僕が小学・中学を過ごした離島僻村の町には
家から1時間も歩けば上がれる丘陵があった。
砂地の丘で、頂上からは見事な砂浜と防風林が
眼下に臨まれた。春ともなればそこに行った。
後年、このことをしばしば思い起こす。何なのだろう?

高校に行くようになっても下宿を出ては
市街をほっつき歩いた。まるで物色する泥棒だね。(笑)
大人になって山や裏通りを歩くようになるのは
これらとは事情は少々異なるだろうが、動力は同じ脚だ。
定年後も波やうねりはあるが、
歩くことは続く。「散歩」と称するのだろう。
好きだからやるのだろうが、何とも不思議だ。
ヒトはなにゆえに歩くのだろう?
(ヒト、とはいってもこんな疑問は男にしかない)

歩いている時を思い起こしてみてください。
何か考え事をしているでしょう。きっと。
でも身体は指令を受けなくてもどこかに向けて進む。
カントやベートーヴェンもそうだったのでしょうね。
歩く(散歩する)状況下では
考え事の当のもの「概念」と「内在」、
いまここ、の「現働性」さらには「出来事」も、
ワンパックになっているでしょう。きっとね。
カメラを手にして大阪の裏通りを歩くスタンスと
夕方になればハビトゥスとして出る散歩とのあいだに
違いはあろう。が、経験からいうと
街撮り(写真撮影)の間にもあいまいな自己が動いている。
その経験・様態をコトバで現前させるのは不可能だ。
さて、今日のタイトル。「パセアルセ」。

アガンベンの『絶対的内在』に出るコトバ。
(「現代思想」2002 8月号 多賀健太郎訳)
もともとスピノザが使ったラディン語。(古代スペイン語)
pasearse とは「自分を散歩につれてゆく」ということらしい。
この場合「散歩」は
「作用者と受動者が絶対的な不明瞭性の閾に入りこんでいて
判然とは区別しがたい」
というのである。

そうです。
「散歩」の実相とか様態はあいまいなゾーンなのです。
ことは散歩に限らない。
今やアガンベンの独壇場である「むき出しの生」ならずとも
いまここ、のこの生は、作用者も不分明なら受動者も不分明、
あいまいなゾーンで動く。動くものは説明できない。
現前させてもそれは事後のイメージを繰っているにすぎない。

こうして今日も僕はパセアルセをやるだろう。
「自分を散歩につれてゆく」だろう。

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