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Results tagged “小泉義之” from 新地のドゥルーズ

「疫病下のフーコー」=小泉義之。



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『現代思想』はコロナ下でも読んでいるがだんだんつまらなくなってきた。「精神医療」はもういいよ、と思うが小泉センセの辛口には溜飲が下がる。

横尾忠則の言は傾聴に値する、と思っている。ツボちゃんもこれはなにやらおもしろそうだ。
さてここはシャシンのブログなので、上からエルマー65mm、ズミクロンR50mm、ミニルックス抽出スマリット40mm。タグを振っている(笑)

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(EOS5Dmk2/アンジェニュー35-140mmTYPE LA2)

先だって不思議な経験をする。
知人を訪問する。
と小泉義之の『ドゥルーズの哲学』を差し出して、
大変な昔、これをあなたに借りていた、と言う。
咄嗟のことだ。
え?そうだった?いつごろのハナシ?
彼「~のころだと思います。」
奥付をみる。2000年発行だから、「~のころ」とは
時期が合わない。

ウチにも一冊あるので、彼に貸して別に買い求めた、
ということになる。だがその記憶は全くない。

そこで僕は仮説をたてる。
彼は僕の紹介に触発をうけて、自ら買い求めた。
時間がたつうちに僕から借りたものと錯覚する。
どうだろう。ありうるハナシではないか。
そもそも内在はそんなふうに作動するものでしょう?
違うか。やはり僕の忘却か?
いやだなあ。(笑)

なぜ小泉義之か

|

「現代思想」2008年12月号、檜垣立哉との討議。

「来るべきドゥルーズ」。

そのなかの

"現在の社会科学は基本的に死んでいる"

から始まる箇所。「介護の社会化をどう考えるか」のくだり。

小泉義之の言を以下に。

『ドゥルーズだったら介護の社会化は

不気味でおぞましい、と言うにちがいありません。(中略)

在宅であれ病院であれ中間施設であれ、

死ぬときまで色々な療法とかケアとかいう名の

コントロールを受けるわけです。

とてもではないけれども耐えがたいし、自由を抹殺される。

だから路上で死ぬ自由を確保したい、

とドゥルーズだったら間違いなく言うでしょう。』

この言に実際のドゥルーズの最後を思い浮かべるのは

僕だけじゃないと思うのですがどうですか?

・・・・・

僕はこの年末に2回に分けて国立医療センターで

消化器系(膵臓)、泌尿器系(前立腺肥大)の精密検査を受ける。

もうすでにして

「自由を抹殺される耐えがたい」コンベアにのっかっている・・。

だがしかし、僕自身の軌道修正は可能だと考えている。

精密検査を受けないとは言わない。(一時はそうも思った)

が最終的な選択権は自分にある。

今回のことは総じて

小泉義之の『デカルト』のなかにある「死にゆく練習」だと思う。

「身体への配慮」を乗り超えてこそ安らかな道が開かれる。

しかも、その乗り超える手立ては独自・勝手でよろしい。

そうは思いませんか?