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Results tagged “國分功一郎” from 新地のドゥルーズ

α6300とe35。AF撮影。図書館が休みに入るので数冊借りてきた。「もう死んでいる・・」は金原ひとみの「今年の3点」のひとつ。その金原ひとみはコロナに罹った、と。













α7sとコダックVR35 K4=38mm 抽出。M42改造。このレンズが好きでけっこう使っている。
岸政彦と國分功一郎の討議。何度も読んでみる。「中動態」は國分功一郎の現在「売り出し中」のターム。『中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)』を読んではいないが、書評はあちこちで好評だ。そして僕はそれらの書評で、なんとなくわかった気でいる。w
というのも、もともとスピノザが使ったラディン語(古代スペイン語)であるというパセアルセ。pasearse とは「自分を散歩につれてゆく」というような意味。つまり「散歩」というかランブリング(rambling)は、自動詞的(自律的)なのかそれとも他動詞的(他律的)なのかどうもあいまいだ。
「徘徊」だってそうだ。「徘徊」の様態はどう説明すればよいか。意志をもって徘徊はしない。「中動態」に近いのではないか。
岸政彦といえば『断片的なものの社会学』の冒頭=犬のエピソード。あれを読んだ者はずっと記憶に残るだろう。ふたりの討議はおのおのの個性が滲み出ておもしろい。若い人の討議に参加するようにも読める。(國分43歳:岸50歳)

下は今朝歯科に通ったときに雑誌を。



α7sに市販のLEICA R-NEXアダプタ、純正エクステンダー、カナダライツ製のMCRO ELMARIT-R 60mmF2.8の順につけている。全長はこうです。先日知人からエクステンダーを頂戴したので使ってみようと。MCRO ELMARITであればエクステンドしなくともいいのだが、「超常現象」をしたくてですね。w



「現代思想」は「コミュ障」特集。中に、國分功一郎と千葉雅也の対談があります。ここはラストの部分。意外やヘーゲル、人倫、ディーセンシィ(decency)が出てくる。
30代(千葉)と40代(國分)ですからたのもしい。内容は豊富で、オープンダイアローグ、貴族論、コミュニケーション障害のこと、教育論・・。拡大画像で読めます。上段と下段。





さて。すいません少し自分のこと。僕自身、「コミュ障」を飼いならしつつ生きている。「さ、一緒にやりましょう」は苦手。今をときめくオープンダイアローグ論は傾聴している。オープンは実は垂直方向でもある、そうでなければ意味がない。たとえば僕が自身の病のことをオープンの場で語るとする。それを他者がふむふむと聞く、それだけでも自己に作用する効用がある。しかしそれで終わるはずがない。他者は自分自身の病のことに思いをはせ、自己の奥深い場所に下りてゆく。そこが「ディーセンシィ(decency)」なのだ。
「人倫」とはしたがって「ディーセンシィ(decency)」に関与する。
アイザック・ディネーセンの「ディーセンシィ」を引用した大江健三郎を忘れることができない。『河馬に噛まれる』の最終章にある。僕は当時、直接ディネーセンの原本にあたって確かめた。(昭和60年)
少し長くなるが作中の大江訳で、タイピングします。

バークリー・コールと私とは、私ら仲間うちの言葉で立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)と品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)とをはっきり区別し、私らの知っている者たちを、人間であれ、動物であれ、この原理にしたがって区分けしていた。私らは家畜を立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)に、野生の動物を品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)ととらえた。そして前者の存在と特権は、かれらの共同体(ルビ:コミュニティ)との関係で決定されるけれども、後者は神との直接の接触のうちに立っている、と考えていた。

私らは自分たちを野生の動物の側に登録していた。共同社会つまりは譲渡抵当にサインするほうへ復帰することが、私らにはなしえぬことを悲しく認めながら、しかし周囲による最高の評価をかちとるためですら、神との直接の接触を断念することは、私らに可能でないと確認して。私らが河馬やフラミンゴとわけ持っている神との直接の接触を。

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