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Results tagged “出来事” from 新地のドゥルーズ

出来事

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 GR28mm(改造)をNEX-7につけて歩く。2枚の絵を見ると周辺光量の落ち込みがわかる。遠景には難がある。フルサイズのαR7につけても事情は同じだ。アダプタで知られるRayqualのWebでも、α7に広角レンズを取り付けることの難が報告されている。




(NEX-7/GR28mm)

 さて。2枚の絵のことである。上の3羽のコブハクチョウと、下の1羽のそれは同じ日に別の場所で撮影する。4羽は1年違いの兄弟姉妹だ。この地で一時有名になった番い(つがい)が産んだ子たちだ。親である番いも近くにいる。たまたまこの日は僕の歩くコースにいなかっただけだ。かれらは決して群れない。完全に「独立」して棲息する。

 ニンゲンの親子であればどうだろう? 近くにおれば声でもかける。だが鳥の(生物の)世界は違う。見向きだにしないのだ。見向いたとすればそれは「繁殖」の本能に命じられるからだ。ひとりぽっちで生きる子をなんだか可哀そうに感じてしまうのは、あえて言うが「劣った」ニンゲンの情感にすぎない。しばしばこのような光景に出会う。1羽が一昨年、3羽が昨年生まれたものだ。特に上流で暮らす1羽の個体を見るたびにグッとくる。ニンゲンの情感だ。励みになる。孤独であることを恐れるな、とね(笑)。ニンゲンは元はこのようにも酷薄で屈強な生物だったのだろう。進化によって文明文化を発明し、同時に劣等な幻想も付随して得た。襞にはもろもろの線が織り込まれている。この岸でひとり生きるハクチョウのような本能が僕たちニンゲンには残存していないのだろうか? 退化したその痕跡すらないのであろうか?・・・と。実は、この絵のことでこんなハナシは気が重い。なぜというにこのハナシ(言表)にはその日の出来事は現れてこない、と思うからだ。そういえばシャシンってご大層なモノじゃない、てなことをアラーキーは言ってる(東松照明追悼で)。それにも似たキモチか。このブログ記事にこの日の「出来事」は闖入しはしない。かかる言表のその端から何かが逃げていく。

 踵を返そう。今しがたその「親」であるつがいに遭遇しました。α7Rにビゾ用ELMARをつけて撮影。こちらは周辺光量の落ち込みなどもちろんありません。1842***は1961年製。


(α7R/ELMAR 1:3.5/65/14167)

 このようにオスがガーッと寄ってくる。うっかりすると靴を噛まれる。何かくれ、とせがむのだ。そうしたのはニンゲンなのだが・・。

出来事

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ドゥルーズは何よりも「出来事の」思索家であった。
と、言ったのはデリダだ。そこでデリダは『意味の論理学』、
その中でのブスケに触れている。
第21セリーの「出来事」をさしている。

ぼくはここのところ、サイズA1の職人的プリントアウトに
熱中してきた。その表現は、行為は、やはり「出来事」で
ある。起点はあるように思えるが、それはここブログ表象での
言いにすぎない。触発されるからには僕に内在しなければ
ならないなにものかが介在する。

誕生と死のあいだが生なのではない。現働たる生は常に
変様に見舞われる。流れる現働が生であり、それもまた
生の継起にすぎない。
同じようにひきつった職人的プリントアウト!(笑)にも
起点があるかにみえて、それはそうではない。
僕に内在する閃光に亀裂が入り身体がとらえるのだ。

東京都写真美術館や福岡三越が招来の契機としても、
しょせんはちいさな外在にすぎない。
触発を受け僕が職人に「なった」のだ。

「出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、
意志されるべきもの、表象されるべきものである。」
『意味の論理学』(小泉訳)

出来事

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東京のホテルでのことだ。
大分県の温泉地で女性看護師が殺害された事件の犯人が
逮捕された、というニュースをテレビで知る。
1年前に僕は「出来事」という記事を記した。
この事件はずっと気がかりでいた。
ニュースの内容におもわず息をのむ。

犯人の男も同じころ神奈川県から出身地の大分に
向かったというのだ。知り合いを訪ねている。
天体の衝突のような「出来事」=萌芽はすでにここに
あるのか?(小泉義之)
カエサルの暗殺は何時完遂したのか?
紀元前44年のどこに起きたのか?(上野修)
それらの問いと同等のものです。

女性の「死」のどこかに内在的で、微分的な
いくらかの要因があるのだろうか?
男との出会いは、光を受けるのと同じだ。
外在であり衝撃の大きいスカラー値だ、と思う。
一方、男には人を殺める内在的なベクトルが、
触発されて暴力へと変様する情動が、
もともとあったといえるのだろうか?
意図をもって秘湯付近をうろついたとしても、
彼女と出くわすそのことは同じく外在ではないか。

スピノザはクモの合戦をおもしろがった、とある。
ハエをクモの巣に投げ込んでは戦うのを喜ぶのだ。
ハエにしてみれば、おのれの死は外から到来する。
見よ、死はこのように来る。
スピノザはそう言いたいのだろうか?
あるいはドゥルーズは。

人と人が、大分のある地点で「衝突」を果たす。
その「出来事」も何かしらの効果ではある。
が「死」を受肉した個体は自己への効果を
見届けることはできない。
ジョー・ブスケが、自らの「傷」を「運命」とみる、
そのようになすことはできない。

出来事は効果なり

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ホテルでもらった新聞をみていたら、
仏教関係の広告記事に目がとまる。(8月4日:朝日)
松岡正剛、だ。
アンダーライン部に注目。

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現代の日本人は「有事」ということを大仰に捉えますが、
実は、有事は平時の中に埋め込まれているのです。
昔の人はよく、家の中にいても表が妙に騒がしいとか、
今日の風は変に生ぬるいとか、有事の前触れを
察知するような感性を備えていました。
今の人だと、賞味期限切れだから食べたら危ないとか、
マグニチュード3なら大したことないとか、
誰かのお墨付きやレベル設定がないと危険か安心かの
判断がつかない。そういうものが、自らの内に
仏がおわす感覚の喪失と相まって、この時代を
追いつめているのでしょうね。

-そこを打開する何かヒントがありますか。-

仏教は「安心立命」の一語に言い尽くされます。
安心と、自分の命がそこにあることは輩(ともがら)であり、
命あるところに仏はおわします。
その実感を取り戻すことです。そして「無常迅速」、
常ならざるものは有為転変が早いと心得る。
何が起きても、それはあり得ることなのだという
無常観を心に常備するのも大事でしょう。
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「有事」はすなわち「出来事」です。それは効果ともいえます。
よって原因や準-原因、潜在性やパラドックスに満ちています。
「あり得ることなのだ」は「運命愛」に通じます。
「概念」というものはかかる具合に「偏在」するものです。

出来事

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以下はドゥルーズの『意味の論理学』第21セリーの部分。
(小泉訳)
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すなわち、コメディアンは、絶えず先立つものと
絶えず立ち遅れるもの、絶えず希望するものと
絶えず回想するものを演ずるために、瞬間に留まるのである。
コメディアンが演ずるのは、決して人物ではなく、
出来事の要素が構成するテーマ (複雑なテーマあるいは意味)、
つまり、個体と人格の限界から実効的に解放されて
交流し合う特異性が構成するテーマである。
役者は、非人称的で前個体的な役割に自らを開くために、
常にまだ分割可能な瞬間へ、その人格性のすべてを
差し出してしまう。だから、常に役者は、
別の役を演ずる役を演ずる状態にあるわけである。
役と役者の関係は、未来と過去と、それらに対応する
アイオーンの線上の瞬間的な現在との関係と同じである。
したがって、役者は出来事を実現するのだが、
出来事が事物の深層で実現されるのとはまったく別の方式
によってである。あるいはむしろ、役者は、
この宇宙的で物理的な実現に対して、
別の特異な仕方で表面的な実現によって、
その分だけ明確で鋭利で純粋な実現によって、
裏地を張るのである。役者の実現は、
宇宙的で物理的な実現に境界を定めて、
そこから抽象的な線を引き出し、
出来事の輪郭と光輝だけを保存する。
自己自身の出来事のコメディアンになること、反-実現。
 というのは、物理的混合が正しいのは、
全体の水準、神の現在の円全体においてのことに
すぎないからである。しかし、各部分には、
多くの不正と恥辱があり、多くのカニバリズム的な
寄食の過程がある。そのために、
われわれに到来することに直面しての恐怖、
到来することに対するルサンチマンが呼び起こされる。
ユーモアは、選別の力と切り離せない。
到来すること(事故)の中で、
ユーモアは純粋な出来事を選別する。
食べることの中で、ユーモアは、話すことを選別する。
ブスケはユーモア-役者の特性を定めていた。
然るべき時にいつでも形跡を消去すること。
「人間と作品の中から、辛苦以前のその存在を立ち上げること」。
「ペスト、専制政治、最も酷い戦争は、
無のために支配していたのだという喜劇的な運を認めること」。
要するに、各事物について「無垢な持ち分」を解き放つこと、
言葉と意志すること、運命愛(Amor fati)
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第21セリー「出来事」である。ジョー・ブスケのこと、
そして唐突に(?)役者のはたらきが登場する。
第21セリーをどう受け止めるかは自由だ。
僕はほとんどレトリックとして読んでいる。
だから意味の厳しい詮索・対立は避けている。
ならばアンタには思想がない、と言われそうだが
そうですね、はい、というしかない。
エクリチュールとはいってもそこで「慰安」だけを
汲み取っているつもりではないのだが・・。
「運命愛」ってたやすいことではない。

元ヤンキースの伊良部が自死した。
たまたまTVをつけると伊良部の顔が電光掲示板にあった。
ナインが黙祷する。ジラルディ監督とジーターの姿が
クローズアップされた。
なんで?とでも言いたげにジーターが首を少しかしげた。
伊良部さんアンタね死んだりすると、みんなして試合前に
黙祷することになりますよ、てなぐあいに
前もって彼に耳打ちすることができたとすれば、
出来事はどのような特異点を導き出しただろう?
伊良部は自死を思いとどまっただろうか?

出来事

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徳泉川内を歩く。
山野には特殊な「入り口」がある。
その「潜勢力」が僕に作用し
山に深く入り込むことがある。
そんな「傾向」はいつでもリロードできるシステムとして
僕の地層で待機している。
もっとも、
時節の色は深く混然として美しいが
油断すると虫にやられる。
ご用心をというわけだ。

ほんの子供の時分から目的もなく逍遙するのを
まるで日課みたいに重ねてきた。
「傾向」とか「リクライン」といえば済むが、
「深部」でもあり「表皮」でもある。
あるいは、「坂」と言ってもいい。

久しぶりの山野=場所を歩くと
以前とすっかりと変わっていたりして
新鮮な思いをする。
昔の記憶が現前に出て
いまここ、のイメージと綯い交ぜになる。
パレットで絵の具を混ぜるようなもので
記憶といまここが分かちがたくなる。
山野の「潜勢力」と僕に内在する「潜勢力」。
線は複雑になる。事はずんずんすすむ。
そのときの「身体性」の切断面を
ほらこれです、と示すことはできないだろう。

大分県別府市の明礬(みょうばん)温泉で、
若い女性が殺害されるという事件があった。
痛ましい。が、この女性にも「潜勢力」は十全に働き
事は生成した。

通常、明示的ではないにせよ
僕たちはある種の慣れた主観とともに動いている。
「秘湯」を訪ねてとっぷり日が暮れる、というのは
僕にも経験がある。
不気味な地の音を感じながら湯にひたる。
不意に、前提とはことなる状況が指し示される。
山野の「潜勢力」とは本来そうしたものなのだ。
「坂」であり「穴」であってみれば
人は転げ落ちるし、深みにもはまる。
「出来事」という「点」は、様々な「線」の交接点といえる。

女性の軽率な行動が引き起こした事件だ、と
裁断できるものでもない。(気持ちはわかるけど)


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